さりとて、崩れることない柱



「………あう*……?」

私室にいた子供の声で、矢文に視線が落ち経験したことのない感情に震えていた巳弦は、はっと顔を上げる。無垢な瞳の奥に巳弦では捉えきれぬ感情が浮かび、それは巳弦とその手の中から動くことはない。目の前の男性は顔を青ざめて、僅かに右足が後ろに下がっていた。
その表情に思考回路がかたかたと回り始めた。元凶となった手元の矢文は目も当てられないほどぐしゃくじゃになっている。そうすれば矢文に書かれた文字が目に入るわけで。

「………―――矢文を届けてくださってありがとうございます。確かに受け取りました。……少し、四郎様と話してきますね。」
「……は、はい。」

笑顔がここまで上手く作れないなんて、不安にさせてしまったと後悔しながら逃げるようにその場を離れた。心に渦巻く感じたことのない感情。改めて矢文に視線を落とした時、自分の珠の色が赤黒く濁ったのを見たのだ。普段は透明だった珠が。
先程男性に静かにと言ったことなど頭からすっぽり抜け、常なら音を立てることのない巳弦が小走りで四郎の私室に向かい、襖を乱暴に開けた。

「四郎様!!」
「――――!?巳弦!?」

だんっ、と激しい音に四郎は思わず腰を浮かせた。本丸の中でも奥に位置しているはずの四郎の私室、そのすぐ近くの廊下から足音が響くことなど滅多にない。そして、四郎の私室の襖を外れそうになるほど勢い良く開けるなど。…………まして、それをしていたのが巳弦であるなど、考えもしなかった。

美しいまでに澄みきった、慈愛の篭もる金色は見る影もなく。奥底にゆらゆらと焦がしたような黒い色を湛え、瞳孔が開いているようにも見える。その右手には強く握られてくしゃりと折られた矢文と思われる書が。四郎の手に届いた際には、少なくとも多少皺が寄っていた程度だったはず。

………けれど、それこそが巳弦の瞳の意味なのだと、長い付き合いの四郎には分かった。

「巳弦、こちらに。」
「、」
「おいで、巳弦。」

落ち着かせるように、巳弦を傍に呼び寄せる。襖はああも乱暴に開けたというのに、敷居を踏み越えるのを躊躇した巳弦の名を再度呼んで、今度こそ目の前に座らせた。矢文を取り上げて文机に置き、普通なら白くなっていたであろう手を握った。

「……怒っているのですね、巳弦。」
「……どう、なんでしょうか……。」
「そう悩むのは、色を見たからですね?」
「赤黒い色です。……今まで、幾度となく見てきた色。」
「………巳弦、貴方は憎んだのでしょう。怒ったのでしょう。この文に書かれた内容に。貴方が感情を表したことを嬉しく思うと同時に、この状況であったことが悲しくもあります。」

どの色にも染まることはなかった巳弦の感情が、始めて得た色。それが良いものでないのは当然のことだ。けれど、それを得られたことが巳弦は嬉しかった。四郎に対して動いた感情。これでいいんだ。四郎にその話をした時に毎回はぐらかされたのは、何かあってのことだと承知していた。知っていて隠したのなら、巳弦が知るべきでは無かっただけのこと。

さらりと高いところで結い上げられた黒髪が揺れ、文机の上を見る。それからまた巳弦を見た。

「心配してくれているのですね。私の事も、私の家族のことも。」
「四郎様……。」
「心配は無用ですよ、巳弦。確かに家族がどうなるか、考えずにはいられません。けれど、主は私達を見捨てはしませんよ。それは私の家族も同じこと。……お願いです。貴方の笑顔を、彼らに届けてください。それだけでも力となるでしょう。……私達は、絶対に膝を屈しません。主を信じ祈る彼らを迫害することを、飢餓で苦しむ彼らを見捨てることを、重い税で刑罰を下される彼らを放ってしまうことを、どうしてできましょう。」
「………えぇ、分かっております。苦しむ彼らを私は知らぬふりは出来ません。そして、主もそれをお望みでしょう。無辜な民を宗教という理由だけで迫害し続け、導きを許さない人に平等に愛する心をお伝えせしなければ。害を与える先には、何もないのです。……何も、ないでしょうに……。」

目尻を下げ、四郎の金色から視線を外した。俯いた巳弦に、四郎は握った手の力を少し強めて声音を落とす。

「…………私は、今でも思うところがあります。」
「……はい?」

諭すような声ではない。何かに後悔するような、後ろめたさを感じる音。見上げた四郎は目を伏せている。

「私が城を出て降伏を宣言し、この首を差し出せば彼らは助かるのではないかと。………けれど、それでは信徒たちは助かりません。また信仰を隠すようなことを強いることは、出来ないのです。」

幕府軍からの矢文に書かれていたのは、前回の文に付け足すような内容。無理矢理切支丹にされた者、あるいは切支丹ではあるが悔いて棄教する意思の者については赦免するので、開放すれば代わりに四郎の母、姉、妹、甥を城中へ遣わすと。これは、幕府軍が四郎の家族を捕えたということ。
きっと四郎が投降すれば、彼らは皆自分が無理矢理連れてきたのだと、そう言ってしまえば確かに解決するだろう。―――四郎の首一つで、誰もが助かる。一揆軍も、四郎の家族も。
それは巳弦も知る確かな事実で。けれど、命が助かったとしても彼らの苦しみが開放されることはない。重い年貢から、禁教から。降伏に伴った様々な変化は、どれも良い方向には向かないと分かっている。だからこそ、巳弦も四郎も降りる気はないのだ。

敗北は最初から決まっていた事。今更自分の首など惜しくはない。少しでも良き未来のために。立ち上がった彼らが報われるように。ただそれだけだ。

「…………四郎様、貴方こそそのようなお顔をされてはいけません。私が彼らの傍で献身をするというのなら、貴方はその姿と声で彼らを鼓舞するのです。……たとえ四郎様がどのような決断をしようと、私は貴方の傍を離れません。ですから……。」
「ありがとう、巳弦。……ですが、どうにも不満ですね。」

急に悪戯な笑みを浮かべた四郎に、きょとんとした巳弦。

「何かおありでしょうか?」
「四郎様、なんて呼び方やめて欲しいです。私と貴方はずっと共に過ごしてきた友人でしょう。今私が総大将であって、彼らの崇敬の形かもしれません。でも、ここは私と貴方だけですよ?」
「……そうは言われましても……。」
「俺からのお願いです。」
「………それは、狡いというものです、四郎。貴方のそれには弱いのですよ……。」
「ええ。勿論知っていてやっています。」

してやったり、なんてとんとご無沙汰だった年相応の顔を覗かせた四郎。対して巳弦は気が抜けたように背を少し曲げ、じとりと見つめる。幼少の頃から共に過ごしてきた巳弦は、その昔敬称など付けていなかった。四郎は昔のように呼んでほしいのに、何故か頑なに呼ぼうとしない巳弦にこうやってお願いするのだ。自分のそれには弱いと知っていての、確信犯だが。

「……久々に貴方の悪戯な笑みを見ました……。ここの所、そのようなお顔を見ませんでしたし。」
「今ので所々考え事が少し軽くなりました。貴方の存在があるから、私は今もここにいられるのですよ巳弦。他でもない、貴方のその心に誰もが安らぐのです。」
「…………それならば、良いのです。私の心が誰かに届くのであれば。心の扉を開け、導いていけるのであれば。」


―――それは二月八日の出来事だった。

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