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「一緒にジャズ部やろうよ!」

 そう誘われてあたふたと慌てふためいた日をもうすでに懐かしく思うようになった。
 夏の訪れを告げるように照り付ける太陽に目を細めながら、既に自分の一部ともなった制服に手を通す。
 相模夏樹が空座第一高校に入学してもうすぐ3か月が経とうとしていた。むわりとした外の熱気に少し眉をひそめつつも、今日も楽しい日になるといいな、なんて呑気なことを考えた。
 通学路はできるだけ日陰を踏んで歩くものの、少しずつ汗ばんでくる。
 ゴム紐でまとめられた焦げ茶色のポニーテールがゆらゆらと影を作っていた。
 彼女のトレードマークとして、白い半透明の中にタンポポが咲いたように黄色が挿す石をゴムの飾りとして付けていた。
 焦がし付けるような夏の日差しが少し憎い。

「おっはようさん〜」
「あ、おはよう。汐里」

 この少し間の抜けた挨拶をしてきた少女は橘汐里。緩めのパーマを当てたショートボブの黒髪を暑そうにかきあげた。中学時代からの夏樹のクラスメートであり、ジャズ部を作ろうと誘ってきた張本人だ。
 最初はバイトをする予定もあるため、部活はしないと断るつもりだった。ところが彼女は、席が隣になったのも何かの運命、ここで会ったが100年目!などと良く分からない理屈で押しに押しまくり、夏樹をジャズ部創設に巻き込んだのだった。

「今日のバイトどうだったっけ?」
「休み〜、だから部活行けるよ」
「わほーい!」
「そういえば次にやりたいって言ってた曲の譜面、探したんだけど見つからなかったんだよね。どっかの店にないかなぁ」

 ため息交じりに夏樹は空を仰げば、気持ちいい夏空に飛行機雲が落書きしていた。
 ぶつくさ文句を言っていたのも最初のうちだけの話で、気が付けばあっという間に演奏の魅力に取り憑かれてしまっていた。

「あ、それならうちに置いてあるかも」
「え、あんなマイナーな曲あんの!?」
「私の私物じゃなくて、商品だけどネ」
「ん?」
「言ってなかったけ、うちんち楽器屋さんでジャズの譜面とかCDとかも結構取り揃えてる」
「初耳だけど!!?」
「あはは、まぁあんまり言ってないしねぇ」

 あっけからんと笑う汐里の手には、トランペットのケースが提げられている。同じジャズ部に所属する夏樹の手にはサックスのケースがある、という訳ではない。高価な楽器を買うには彼女のバイト代だけでは到底届かないため、学校の備品を借りて演奏しているのだ。

「じゃあ放課後、うちに行こっか。ついでに私のCD貸したげるし」
「ん、ありがとね」

 いつもと同じ教室、同じ授業、同じ日々。彼女の生活はいたって平和で、穏やかだった。
 魔法が使える訳でも、おばけが見えるわけでも、特別な力があるわけでもない。どこにでもいる普通の女子高生は、欠伸をかみ殺しつつ授業をそこそこ真面目に聞き取っていた。隣に目をやれば、汐里がこくりこくりとうたた寝に耽っていた。
 退屈な授業が終わり、放課後は練習をやや早めに切り上げて、二人は汐里の自宅へと足を運んだ。


 = = = = =


「ただいまぁ〜」
「おかえりさん」

 間の抜けた男性の返事が店の奥から聞こえた。
 小さな2階建ての家。その1階が楽器屋のようだった。TACHIABANA MUSICとポップな書体で書かれた看板が目を引く。
 中は所狭しと楽器やその周辺器具、CDにレコードまで置かれている。店内には軽やかな曲調のジャズが流れており、ごった返しのようで整理整頓された店内はどこか落ち着く趣だった。

「なんや今日はえらい早いねんな」
「友達連れてきた」
「へぇ、めずら…」

 聞き慣れない関西弁を話すのは、金髪におかっぱでひょろりとした猫背の男だった。一風変わった容姿の彼は、まるで死人にでも会ったかのような表情で夏樹を見つめた。

「真子…?」
「あ、あぁいやすまん。ちょっと一瞬知り合いに見えたもんでびっくりしたんや…」

 男ははレジ横の椅子にのけぞるように座っていた姿勢を正した。夏樹もキョロキョロと店内を見回していた視線を男に戻した。

「私と一緒にジャズ部やってくれてる相模夏樹、パートはサックス。前に話したでしょ?」
「は、初めまして、相模夏樹です」
「で、この胡散臭いおかっぱがうちのバイトの平子真子」
「胡散臭いて失礼なやっちゃやなァ!?」

 汐里は悪びれる様子もなく、胡散臭いアンタが悪いのだと楽しそうに主張した。

「にしても、よぉこんなおてんば娘とと一緒に”部活作る〜”なんてアホな話に付き合うてくれる子がおったな」

 仕返しだとでも言わんばかりにニヤニヤと汐里をからかう男は、わざとらしく口角を上げた。そうして2人の口喧嘩が始まるわけだが、その内容はともかく、気の知れた中であることは容易に見て取れた。
 平子真子、どうにも掴みどころのなさそうな不思議な印象の男だ。年は…近いのか少し年上かどちらだろうか、と思案していると汐里が突然元気に声を上げた。

「あ、ひょうら!」

 勢いよく抓っていた平子の手をはたき落とすと、目的だった譜面のことを思い出し商品棚の方へ駆けて行った。

「…すまんなぁ、あいつ無茶ばっか言うやろ」

 苦笑いではなく、どこか愉快そうに笑っていた。

「えっと、毎日楽しいです」

 確かに強引な彼女に振り回されることが多いけれど、嘘でない本心を平子に伝える。

「平子さんは、汐里と仲良しですね」
「仲良いワケあるかいな!あー、まぁ汐里とは昔馴染みっちゅーだけやな」
「ねね!やっぱあったよ!」

 平子が視線を夏樹から横に逸らすと、そこには嬉しそうに譜面を持ってくる汐里がいた。譜面があるなら秋の演奏会はこの曲にしよう、なんてきゃいきゃいとはしゃぐ2人は平子が訝し気な目線を投げていたことに気付かなかった。

「あとCD、また別の貸すから聴いてよ。ちょっと部屋から取ってくるから待ってて!」
「慌ただしいやっちゃやなぁ、もっとおしとやかにせんかいな…」

 飽きれた視線を汐里に投げれば、うるさいハゲ真子!と元気な罵声が飛んできた。

「自分、聞いとった感じとえらい違うねんな」
「はい?」
「もっと活発な感じやと思ってたんやけど」
「いつもこんな感じですけど…」
「ふぅん」

 平子のどことなく探る視線に夏樹は身構えた。あぁ、この視線は苦手な類のものだと。
 目をスッと細めた平子が口角を上げるものだから、夏樹は思わず胸の前で手を握りしめた。

「部室の鍵見当たらんくて壁ぶち抜いたのって相模チャンとちゃうのん?」
「へっ?な、なっ、」
「何でそれをって?そら汐里が部活ことあれやこれやと勝手に話してくからなぁ」

 予想外の言葉に夏樹は思わず赤くなった顔を覆う。後で絶対絞めてやるともう片方の手を握りしめつつ、早口に事実を捲し立てた。

「それは、壁を壊したんじゃなくて!ちょっと脆くなってた薄いプレハブの板を!ちょっと突いただけで決して怪力で器物損壊したわけでは!」
「え、正拳突きって聞いとるけど」
「っ!それ!違います!そんな派手にかましたりしてませんし!」

 否定すればするほど、事実を誤魔化そうとしているように聞こえてしまう。本当に正拳突きなんてしていないのに。
 けらけらと笑う平子にちゃんと事実を伝えても、どうにもまともに受け取ってもらえなかった。

「なぁ、その髪飾りえらい綺麗やな」

 平子は不意にスッと夏樹の頭頂部を指差した。突然平子の雰囲気が静かになるものだから、思わず口調がどもってしまう。

「あ、ありがとうございます。大事なものなんです、これ」

 大切なものを褒められたのはどこか嬉しくて、夏樹は目を細めて笑った。
 平子は人のいい顔を浮かべたまま続きを話そうとするが、汐里の掛け声によって遮られた。

「お待たせ〜」

 小さな紙袋を持って店の奥の暖簾をめくった彼女の姿を見た途端、つい先刻の恥辱が夏樹の脳裏に蘇った。

「アラー汐里サン、これはこれは」
「へ?何?なんで怒ってんの?」

 明らかに棒読みでニコニコしている夏樹を見て汐里は冷や汗をかく。この怒り方をしている夏樹はそれはもう、とてもとても恐ろしいのだと汐里は経験則で知っていた。

「ちょぉっと、後で話そっか」
「何!?なんで!?」
「部室の壁を正拳突きで壊した相模チャン、お怒りやで」
「だっから!それは違うと!」

 にたにたと笑う平子を夏樹はギロリと睨むが特に効果はなく、余計に笑いを加速させるだけだった。

「平子さんも笑ってないで!」
「っ、これ、前に言ってたおすすめのやつとなんかもろもろ詰めといた!から!」

 中にはCDが8枚ほど、紙袋にぎゅうぎゅうに詰められていた。きっと、もう1枚ついでにと入れるうちにあれもこれもとなってしまったんだろう。

「うんうん、ありがとう。でも誤魔化されないよ?」
「ヒィッ」
「私のこと随分怪力に盛って説明してくれたお礼まだしてないもん、ね?」
「っ、ごめんってば!ちょっと面白くて!つい!」
「つい、かぁ。それは仕方ないね」
「目、目が笑ってないよ…」

 夏樹は1つため息を吐くと、汐里の耳元に顔を寄せる。

「次、誰かにこの話盛って話したら、ね?」
「は、ハイッ!もうしません!!!」

 ビシッと効果音が付きそうな勢いで汐里は直立に姿勢を正し敬礼をした。

「平子さんも、汐里の話を真に受けないでくださいよ!」
「はいはい、わーったわーった」

 夏樹はため息をもう一度わざとらしく吐くと、荷物を肩にかけ直した。萎縮した汐里を見て夏樹もそれ以上何かを言う気はなくしたらしかった。

「じゃあまた明日ね、汐里」
「うん、これからは橘楽器店をどうぞよろしく!」