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「霊圧消すの、本当に上手いよねシンジは」
「ったく、見つけるのも一苦労だっつの」

 拳西とローズは平子が邪険にしているのも構わず、正面にどかりと腰を下ろした。瓢箪を投げ渡すと、辛気臭え顔だなと笑う。

「なんやねん、仕事中やぞ」
「サボり筆頭のシンジが言うのかい?」
「業務に手が付かねえほどぐちゃぐちゃ考えてる癖に強がんなよ」

 100年も共に生きた仲間は自分の駄目になるタイミングを本当によく分かっていた。今がきっと、限界に近い。
 書類を拳西のところに届けに行ったのは失敗だったなとため息を吐いた。

「ひっでぇ顔してるぞ。こりゃ雛森も心配する訳だ」
「うっさいわ」
「今のキミ、ヒヨリが見たら有無を言わずに蹴り飛ばしていただろうね」
「だな」
「冷やかしなら帰れや」

 言葉の割に自分の口から出る声色は弱々しい。本当に勘弁して欲しかった。今は誰かの冗談に付き合う気力すらないのだ。

「はは、ゴメンって。シンジが凹んでるのが珍しくてね」
「ホントは羅武達も呼んでやれたらよかったんだけどな」
「急にはこっちに来れないしね」
「大事にせんでや」
「そう言うだろうなってことも折り込み済みさ」

 瓢箪を開けると酒の匂いがした。感情ひとつ吐き出すのに、こんなものに頼らねば上手く零せなくなってしまうのは大人の如何しようもないところだ。
 これ何や、と尋ねれば紫蘇焼酎だと返される。京楽から貰ったものだから味は確かだろうと言った。ふうんと興味なさげな声でしか返事もできない。

「夏樹のこと、好きになっちゃったんだろう」

 渡された焼酎は口当たりがよく飲み易い。確かに上物だった。
 ローズの言葉に驚くことなく、平子は一瞬だけ視線をよこすとすぐに別のところへ向けてしまった。否定も肯定もすぐには出来なかった。

「……好きになるつもりなんて、なかったんやけどなァ」
「あんだけ世話焼いて自業自得だろ。変に過保護なオメーが悪い」
「分かっとるわ」

 拳西の言葉にずしりとダメージを受ける。そうだ、近付きすぎた自分が悪い。

「せやかてしゃーないやろ。あんなんなって、ほっとけへんわ。……頭から卯ノ花サンに任しときゃよかったんやろけどな」
「あの人の事だから、夏樹を立ち上がらせるくらいワケねーだろな」
「でも、シンジが手を差し出す事にきっと意味はあったよ」

 ギターを取り出したローズは気持ちよさそうに明るいバラードを奏で始めた。即興で流れる音に機嫌良く鼻歌を足しているのを拳西は呆れた目で見ていた。

「………どうやろな」
「まぁどうであれ、アイツが今元気に笑って生きてるのはオメーが尽力したからなの、間違いねえだろ。そこを履き違えんなよ」

 もし他の誰かならば、彼女はもっと笑っていたのだろうか。それとも感情を押し殺したままだったのだろうか。
 今あるのは結果だけ。いつか夏樹に言った言葉が自分に返ってくる。

「どうしたいんだよ、これから」
「……どない、したいんやろなァ」
「歯切れの悪い真子は気色ワリーな」
「オレかてはぐらかすんも直ぐ答え出すんも出来んことくらいあるわ、ボケ」

 平子は長いため息を吐きながらまた酒に口をつけた。

「…もう、死神と関わる事なく生きてってくれたらって思うんや。霊だの何だの、生者は負わんでええ荷物や。身体も完治させて、こっちの世界の事忘れてくれたら1番ええと思っとるんは、ほんま」
「なんか、らしくないな」
「何がや」

 ギターの音が止まってローズは射抜くように平子を見た。居心地悪い気分に口はへの字に曲がっていく。

「いつの間にそんなに自分を本意に置くことをやめたんだい?らしくないな」
「は?」

 ローズの言葉に平子の眉間の皺は深くなる。

「許婚のいた千代をキミは拐って行ったじゃないか。貴族である彼女の心全てを手に入れる為に、隊長って言う地位まで登り詰めてね。自分の幸せを掴む事に躊躇いなかったキミらしくないって話だよ」
「そうだったのか?」
「ああ。結構彼女のこと気に入ってたんだよ」
「……ん?」
「千代の許婚だったのさ、ボク」
「ハァ!!?ま、マジかよ…」

 随分昔の話さ、とローズはカラカラと笑った。驚いたまま拳西は平子に顔を向けると、非常に渋い顔をしていた。

「……何年前の話しとんねん」
「130年くらいじゃないかな」
「もうそない若ないわ。夏樹の幸福を願うなら、引くのが正解やろ」
「ハハッ。随分永く生きて、人の幸せを勝手に決め付けられるほど偉くなったワケだ」

 神経を逆撫でする、刺のある言葉に思わず低い声で返事をしてしまう。一触即発の状態に拳西は態とらしく眉間を押さえた。

「喧嘩すんな!」
「売ってきたんはローズやろ」
「今のシンジは弱腰すぎてインスピレーションすら湧かないね」
「…ったく」

 ほんのりと顔の赤い2人は目が座っていた。平子は感じる苛立ちを隠す事なく一気に酒を煽った。喉を焼く濃い酒がするすると身体に染み込んでいく。

「オレだったら身を引く方に一票って感じだけどな。どう見てもアイツはこっちの世界で関わらねえ方が幸せだ」

 拳西は地面を見つめている平子を見て小さくため息を吐く。

「ま、直ぐにそうできない時点でオマエの心は決まってんじゃねえの。今のは本人達の気持ちを無視した他人の考えだ」
「100年、耐え忍んだんだ。もう自分を赦していいんじゃないのかな。あの子なら、千代の気持ちも蔑ろにしないだろうから」
「真子の気持ちは置いてけぼりじゃねえか」

 拳西の言葉はその通りで、自分の幸福など頭に置かずに考えた話でしかない。夏樹の幸せ、と言いながら今の彼女の気持ちだって加味していない。

「……幸せを手放す理由に千代を使わないでくれ」
「は?」
「シンジ」

 ローズはそれ以上口を開こうとせず、またギターを鳴らし始めた。今度はゆっくりとしたリズムでどことなく悲壮感に満ちている。
 ローズの言わんとしている事がわからぬ程鈍くはない。けれど、夏樹と共にいることを思うだけでいつだって心臓がぎゅうと縮み上がるのだ。

「…あぁもうせやせや!千代や人間やなんや言うて!オレは幸せ掴むんが怖いんや!怖ぁてしゃーないんや!」

 ぶすっとした顔で平子は唸りながら、口角を下げた。

「ほんまいくつやねんて話や、もーやっとられん」
「はは、情けねーカオ」
「うっさいわい」

 先の先まで幸せなのか。そんな事は分かりはしない。それでも、例え苦しものだとしても、夏樹と共にありたいと切に願う気持ちが確かに自分にあった。
 過ぎ去った幸福が戻らぬものだと、また知らなくてはならないのが恐ろしい。
 多くの過去と未来に板挟みになった感情は宙ぶらりんになってしまっていた。

「もういーんじゃねえの。全部終わったんだから」
「早くしないと愛想尽かされるよ」

 ローズの冗談まじりな科白に平子はピシリと固まった。

「…シンジ?」
「………オレ、夏樹に嫌われたかもしらん」
「は?」

 ぽつぽつと先日の経緯を話す。苦虫を潰したような顔で、視線は横に逸らしたまま言葉を続けた。思い出すだけでも精神的負荷が強いのに、口に出すと尚更だった。

「あかん、めっちゃしんどい」
「…逆にそこまで手を出しといてなんでそれ以上の一歩を踏み出さねえのかオレには理解できねえよ……」
「しゃーないやろ!あん時ほんまに怖かってんから!」

 好いた女を2回も失うとかありえへんやろ。 そう申し開きしてみるも、あまりにも言い訳がましくて自分でも笑ってしまう。

「あーもぉあかんわ、情けなくて涙出る。夏樹に会いたい」
「おーおーこんな姿、下には見せらんねぇなぁ」
「うっさいわ!」
「この感じのシンジ、久しぶりだな。いいね!ボクのフライングVもよく歌ってくれそうだ!」

 ギュインと景気のいい音が耳に入る。ローズが突然自分の世界に没頭し始めるのもいつものことだった。
 ぐだぐだと口を開きすぎて欲が漏れていく。あぁもうどうとでもなってしまえと自棄な気分になってきた。酒は恐ろしいと理性はわずかに残るものの、長年連れ添った仲間を前にして取り繕うのも馬鹿馬鹿しくなってくる。

「何遍もやってんのに手ェ繋ぐだけでクッソ照れてるんとかほんま狡いやろ…」
「へーへー」
「あんな可愛い顔されてみいや!いじらしすぎて苛めたくもなるわ!」
「はいはい」
「この年で恋煩いとか恥ずかしくて死にそう、無理。オレの横におる時の夏樹がいっちゃん可愛い」
「感情ジェットコースターすぎんだろ」

 呆れた顔で拳西はつまみに持ってきていたさきいかを引きちぎった。

「けんせー、もいっぽん酒よこせ」
「…あんま飲みすぎんなよ。ほら」
「飲まなやってられんわ!」
「アッハハ!なあ拳西!このフレーズなかなか最高の出来だと思うんだよ!」
「……羅武とハッチ、連れてくるべきだったな」

 二人とも顔が見事に赤く染まっていた。仲間内だと拳西が一番酒に強く酩酊することも殆どない。この二人は一般的には強い方だが、拳西ほどは強くない。そうして、厄介な絡み酒をするのもこの二人だった。

「ったく、どうしてこうもオレの周りは面倒なやつが多いかね…」
「おいこら、お前一人まともですゥみたいにぼやいてんとちゃうぞ」
「うっせぇよ、酔っ払い!ロリコン!」
「はぁ!?女子高生はロリコンちゃいますゥ!辞書引き直せ!」
「未成年に手を出す大人は大概ロクでもねえやつなんだよ」
「へーへーどうせオレは20年も生きてない子供に振り回される甲斐性なしですよぉ!…あかん、これ口に出したらあかんわ、死にたい」

 地面に転がって呻く平子を拳西は足で蹴り転がした。酔いが回って嘔吐感が込み上げる。

「おい、吐くなよ」
「やったら蹴ん、なや…オェ」
「どうしようもねえな…そろそろ日も暮れてきたし帰るぞ」
「無理…」

 立ち上がれば酔いが回って結局胃の中身と別れを告げることになった。頭がガンガン痛むのに拳西は水飲んどけよ、と隊首室前の廊下に投げ出して帰ってしまった。
 重たい体を引き摺って、翌日にはやはり二日酔いになってロクに仕事もできず。雛森にお説教されたのは言うまでもなかった。

―クソ…悔しいけどあの2人のおかげでスッキリしてしもた。でかい借りや

 二日酔い用の薬を服用してどうにか業務を捌いていく。どの日程なら落ち着いて現世に行けるかスケジュールを確認していると、突然舞い込む多量の業務。
 顔を引き攣らせながら、ひたすらに書類に判を押していく。この忙しいタイミングで貴族の婚姻とかどうでもいい書類を回してくるなとキレながら。
 これからどうしたのか。決心はいまだに付かないままで、ただ少しだけ望む未来へと手を伸ばせそうな、そんな気がした。