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 頭がガツンと痛むが、身体の怠さは多少マシになっていた。平子は数度瞬きをすると、小さく息を吐いた。

「あ、気が付かれましたか」

 視線を横にやると、虎徹三席が枕下の氷嚢を入れ替えたところだった。この揺れで目が覚めたのかと気付く。
 自分は倒れたのだと記憶を漁って現場を即座に理解した。ここは十三番隊の救護室かどこかだろう。

「吐き気はないですか?…熱は少し下がりましたね!」

 四番隊でないにも関わらず、てきぱきと看護に動く彼女は浮竹の主治医の役割をこなしているだけのことはある。

「……すまん」
「相模さんから電話があって。出れなかったんですけどどうしたのかと思って様子を見に行ったら平子隊長まで倒れられてて」
「…まで?夏樹はどないしてん」
「普通に寝てらっしゃいますよ。ほら、いつもすぐ寝ちゃうじゃないですか。異常は特段ありませんよ」

 無理やり身体を起こそうとすれば、厳しい顔つきで肩を押される。

「にしてもこんな高熱でなんでフツーに動いちゃいますかね!まだ8度もありますよ!霊力が高いから普通に動けるって隊長ってみんなそう!無理しないでくださいよ!?休まなきゃダメですよ!」
「………迷惑かけてすまんな」
「弱々しい平子隊長ってなんだか調子狂いますね。相模さんもすごく心配してるでしょうからさっさと寝て回復してくださーい」
「おー…」
「相模さん、平子隊長の下敷きになって大変だったんですよ」
「は?」
「平子隊長がすっごい馬鹿力で抱き締めて離さないから」
「………まじか」
「マジです、マジ。窒息気味で魘されてましたよ」

 覇気のない返事をしながら平子はまた目を瞑った。
 ここ最近は忙しくて、残業を強いられながらもどうにか落ち着きを見せ始めたところだった。体調は1週間ほど前から傾き始めていたが、気が抜けたのかどっと疲れが出たようだった。

―………やらかしてしもた、なぁ

 夢見が、最悪だったのだ。現実と夢が区別付かなくなるほど自分が追い詰められているとは思わなかったが。
 翠雨を夏樹に返してからはあの悪夢を翠雨に見させられる事もなくなった。けれど脳裏に刻み付けられた妙に立体感のある夢は、度々明晰夢のように襲いかかるようになった。それは間違いなく、己が考えないようにと押し込めているからだろう。
 自身の体調の悪さを気にする余裕もなく、夏樹が生きているのを確かめたくて、感じたくて、いつものように十二番隊へ赴いた。幸い平素を装うのは十八番で、霊力の供給が正常に行われさえすればマユリは何も言ってこないだろうことも分かっていた。
 夏樹への霊力供給がいつもよりもほんの少しやり辛いような気がして内臓が縮むような恐怖を覚えた。あの夢が夢でなく未来ではないかという懸念は平子の精神を確実に蝕んでいた。
 昼寝の途中で目が覚めれば夏樹はいなくなっていて、あんなにも恐怖を感じるとは思わなかった。夏樹を抱きしめた時、酷く安心して満たされた。熱に浮かされるまま感じた生が愛おしくて堪らなかった。

―もう、どうしようもないやんけ。こんなん、

 千代のことを忘れた訳ではない、今だって愛している。それなのに、夏樹が欲しいと確かに感じている。
 こんな自分を夏樹は受け入れてくれるのだろうか。平子は腕を瞼に置いて長いため息を吐いた。

―あかん、それでももう誤魔化しなんて効かへんわ

 平子は目を瞑ると熱のせいか意識はすぐに微睡み始める。
 夏樹の隣にいたいと、日常を守りたいと、強く思う。彼女の平和な毎日の一部に自分がいたいと願ってしまう。たったそれだけのささやかな願いですら、叶えるのには多重の障害が聳え立っていてままならない。

―アイツを助けてくれ、千代。お願いやから、まだそっちに連れて行かんでくれ

 夏樹に会いたいと、傍に居て欲しいと思ってしまったことを後悔しながら眠りについた。
 微睡の中で笑う千代が何かを言っている。アホなこと言うてんと。そう言っているような気がした。

「あ、おはよう」
「ん…?」

 今ここは何処で、と頭を回す。ぼんやりしていると額に少し冷たい手が当てられた。随分眠っていたらしく、いつの間にか夜になっていた。

「熱、下がったね。よかった」

 夏樹の安堵した笑みが視界に入った。夏樹の穏やかな声が心地いい。平子もつられて口元が緩む。
 ゆっくりと上体を起こせば少しふらついて思わず顔を顰めた。薬を服用したが全快には程遠いらしい。

「無理しないで、寝てて」
「ん…や、なんか色々すまん」
「私は大丈夫だよ」

 夏樹はそれ以上何か言おうとはしなかった。穏やかな声色が優しく響くのと反対に、平子は違和感を感じる空気に一瞬眉根を寄せた。

「そろそろ帰らないとだから行くね」
「こんな時間に帰んのか?」
「まだ8時だしね。明日はお仕事休まなきゃだめだよ」
「んんー…」

 記憶を掘り起こそうにもいまいち思考は纏まらない。雛森に任せても構わないか、とも投げやりなことを考えた。

「次の時はリサかイヅルさんにお願いするからゆっくり休んで。じゃあね」

―あ、

 夏樹は平子に背を向けて部屋を出て行こうとする。うまく回らない頭でも分かった。この穏やかな声色も、いつも通りの表情も、全て柔らかな拒絶だ。
 自分の全てを拒んだ声色にさあと血の気が引いていった。

「夏樹」
「何?」
「……いや…気ぃ付けて帰るんやで」
「うん。平子くんもお大事に」

 引き止める言葉すら上手く出てこず、夏樹が部屋を出て行った。言葉の代わりに口から漏れたのは大きなため息だ。

―結構堪えるな、これ…

 薄ら記憶にある夏樹が呟いた言葉。私はお姉ちゃんじゃないよ、と。何が夏樹にそう言わせたのかは心当たりがないが、自分が原因であるのは確かだろう。今にも泣き出してしまいそうなほど弱々しい声だった。
 柔らかな拒絶に心臓が痛くて堪らない。斬魄刀で斬られた方が、虚に抉られた方がよっぽどマシだと思った。
 別に、彼女と距離を取ることに間違いはないはずだ。夏樹は現世にだけ目を向けていればいいのだから。きっとこのまま、何もしなければ距離は静かに離れていくだろう。
 尸魂界も彼女の日常から消えていき、出会う前の誰しもが送る普遍的な日常へと遷移していくはずだ。
 平穏を願ってきたはずなのに、平子は触れた夏樹の指先を思い出して涙が出そうになった。愛おしいとは、どうにも扱いづらい感情で、厄介だ。


 = = = = =


「隊長、書類が!」
「ん?ぉあっ!あちゃー…しもた」

 雛森に指摘されて慌てて平子は手を上げた。筆を置いて紙切れを摘み上げればじわりと黒い染みが広がっていた。

「どうされたんですか。今日はまた随分上の空ですけど。まだお風邪が…」
「や、ちゃうちゃう。風邪は別に大したことあれへんねん」

 あの日倒れてから、1日休めば熱も引いたし体の不調も多少は残れどほとんど回復していた。四番隊の処方する薬がよく効いたおかげだろう。数日経てば風邪の残滓も消えてしまった。

「ならいいんですけど…」

 平子はため息を押し殺しながら、使い物にならなくなった紙屑を丸めてくず箱に投げ捨てた。一息つくべきかと雛森が差し入れてくれた茶に口を付ける。

「そう言えば最近相模さん、遊びに来ないんですね」

 突然悩みの種を話題に出されて平子は思わず咽せる。

「わっ、隊長!?」
「急になんで夏樹の話が出てくんねん!」
「季節の大福が新しいものが出たので喜んでくれるかなぁと思って…相模さん、すごく美味しそうに食べるから」
「んぁ…せやな、夏樹は甘いモン美味そうに食いよるな」

 自分一人慌てているのを悟られまいと平静を装う。雛森からの穴が開きそうな程に視線をぶつけられる。そんな疑心の篭った熱い視線などぶつけられても何も嬉しくないのだが。

「平子隊長…?」
「なんやねん」
「相模さん」
「が、なんやねん」
「今日の上の空の原因ですか?」

 隊長になって半年。彼女も随分自分に対して遠慮もなくなったし、聡くなった。いや、元々聡い子なのだろう。過去の話を洗いざらい話してしまったことが、距離感を縮めた大きな要因である気もしていた。

「別に天気ええから仕事したないだけや」
「いつもより溜息多いですよ」

 どちらかと言うと好奇心の疼く表情でじぃとこちらを見ている。居心地が悪い。

「平子隊長が今思い悩む案件なんて相模さんの事くらいしかなさそうじゃないですか」

 女性はみな恋バナの類が好きな者が多い。雛森も間違いなくその部類だった。

「何言うとんねん。副隊長に言われへん懸念事項なんてなんぼでもあるわ」
「じゃあ、そういうことにしときますね」

 そういうことてなんやねん、と文句を言っても雛森は何のことでしょうねえとはぐらかした返事をした。それ以上は墓穴を掘りそうで口を噤む方が賢明な選択に思えた。

「……ほんま、何の話やねんてなァ…」

 平子は席を立つと乱雑に書類を取って執務机を離れる。

「オレ、これ拳西とこ届けてくるわァ。あとはよろしゅう。判押しといてええでー」
「えっ!?それは他の人でもって、あぁ!平子隊長!!」

 今日はもう集中できなくなってしまったのだから仕事をしても無意味だろう。最低限の自分のタスクは片付けた。明日にやったって問題ない。雛森からのお説教は少々面倒ではあるが。
 平子は拳西に書類を渡すと、茶でも飲むかという誘いも断って隊舎を離れた。まだ誰かに何かを話す気にはなれなかった。

―恋煩いで仕事に手ェ付かんてオレは一体何歳のガキやねん、格好悪ゥ…

 ふらりふらりと歩いていれば、修練場の奥の果て、深い森の中にある御神木のような大きさのクスノキに辿り着いた。

―ここ、まだあってんなァ……随分まァでかなって。気持ちええわ

 森の縁に生える大木が揺れる木陰は心地良い。根元にちょうど背もたれになるようなくぼみがある。100年前、本当に1人になりたい時はここでサボっていた。不思議と藍染もここにいる間は近付かない、安寧の場所だった。
 ふかふかの落ち葉の上に腰掛けて大木に背を預けると、ほんの少し気分が晴れたような気になった。供給の後に時折気分が悪いと蹲る夏樹もここならば少しは楽になるかもしれない、なんてことを考えてしまったのと同時にあの時の声が蘇る。
 静かな柔らかい拒絶。秋祭りでの別れや戦争後に目覚めてからの怯えた拒絶よりも、ずっとずっと、心臓が痛かった。

―はは、何を今更傷付いてねんや。酷いのはオレの方やろ

―もし、千代の守るて意思がなかったらオレは…間違いなく、もっと酷いことしてたわ。20年も生きてない子を落とすなんて簡単や。ぐずぐずに籠絡させて、雁字搦めに縛り付けてた

 修行の件を引き受けることになった時から頭にあった選択肢。幼い心を弄ぶ非道な選択を貫いて騙し通せる自信はあった。
 結果的に行動しなかっただけで、それは殆ど、したことに等しいと思っていた。藍染の傍に行かせてしまった罪悪感は尚更募った。落としておけば良かった。そう思ったのも事実だ。

―夏樹の気持ちをモノみたいに扱うて、傲慢な話や…

 決して、自分は彼女を本当に信頼する気も、心を許す気もなかった癖に。口だけで言うことも、思うだけも簡単だ。けれど自分の心の奥底だけは騙せない。あの日々で、本気で夏樹に傾倒することはなかっただろう。

―ほんま、もう誰かを好きになることも…幸せになることも、望まんと生きてくつもりやったんや

 千代と過ごした穏やかな幸福はもう二度と戻らない。あんな風に心安く過ごす日々はないまま、幸せでもなければ不幸でもない、欠けた日々を続けるのだと思っていた。満たされることのない、虚のように。

―夏樹のことも、オレの中におる千代とずっと生きてくんやって、伝えればええだけの話やった。けどそんなん出来へんかった。出来たのに、言わんかったんはオレや

 迷いながら怯えながら、それでも必死に彼女は彼女の事情と、心と闘っていた。強い光を宿して、呑まれまいとしていた。さながら彗星のように自身を燃やして、未熟な魂は燃え盛っていた。
 けれど、全てが終わったその時には星はもう沈んでいてまるで別人のようだ。光を失った瞳は、今思い出してもぞっとする。

―ただ、ただ…藍染から受けた傷が癒えて欲しいて…ほんま、それだけやった

 世界の何もかもを拒絶した夏樹をどうしても放っておくことができなくて、夏樹の恋を終わらせる事なんてできなかった。生きる希望になるのならば何でもよかった。頃合いを見て断ればいいのだと、最初はそのつもりだった。

「お、居た居た」
「……なんでオマエらが来んねん」

 見知った霊圧が近付いてきて平子は不愉快そうに顔を思い切り顰めた。