マラカイト

 丁度良いところにいたからという理由で、担任から資料運びを頼まれた昼休み。園子君は休み、蘭君は昼連があるからと道場へ行ってしまったので暇だった。
 女子に持たせるには重い量の紙束を渡した担任は「よろしく」とこちらを気遣う風もなく職員室へ戻っていった。それに若干の呆れを覚えながら、まあ筋トレだと思えばいいかなんて歩を進める。廊下の窓からグラウンドが見えた。野球部が練習をしている。元気な掛け声がここまで聞こえてきて、青春だなあと笑った。
 それに気を取られていたからだろう。柔らかい何かにぶつかった。軽い衝撃だったにも関わらず、気を抜いていたせいか派手に尻もちをついてしまった。ドサリと資料が廊下へ散らばる。
「わ、ごめんね」
 心地よいソプラノが聞こえた。声の方を見れば、女子生徒が眉を下げてぺたりと座り込んでいた。なぜだか、どきりとした。
「いや、ボクの方こそごめん。ちゃんと前見てなかったし」
 カァとする熱を振り払うように首を振る。目の前の彼女はもう一度「ごめんね」と言うと、膝をついて散乱した資料を集め始めた。慌ててそれに続く。屈んだ彼女からは、甘くてスパイシーな香りがした。
「痛っ」
 がさつに紙を扱ったせいで、ピッと指を切ってしまった。滲むルビーが線になって溢れる。騒ぐような怪我ではないが、ヒリヒリとした感覚が落ち着かない。
 それに気が付いたらしい彼女がこちらを向いた。ボクの指を見て一度瞬きをすると、制服のスカートを探って薄いポーチを取り出す。その中から出てきたのは絆創膏だった。ボクの手首を優しく掴んで怪我をした指にそっと貼り付けていく。瞬時に赤く染まったガーゼ部分と、肌に張り付いていく粘着剤を食い入るように見た。
「きつかったりしない?」
 彼女は絆創膏を貼ったボクの指をなぞると、遠慮がちに問いかけた。ううん、大丈夫。たぶん、そう返したんだと思う。昼休み特有の喧騒で、自分の声はよく聞こえなかった。
「そう、よかった」
 彼女は可憐に微笑んだ。突然、既視感に襲われて目を見開く。この笑みを、知っている気がした。さらりと風に靡いた彼女の髪から、さっきと同じ匂いが届く。ああ、これは。そっか、あの時の。安心するのに、どこかそわそわする。落ち着かない。それでも心地いい。
 ボクが小さかった頃、転んで擦りむいた膝を同じように手当てしてくれた子がいたっけ。短い髪に白い肌、陽だまりみたいな笑顔の王子さまだった。そんなに体格も変わらないくせに、泣きじゃくるボクをママのところまでおぶってくれた子。あれっきりだったけれど、心の深いところにずっと仕舞いこんであった思い出。
 ボクの手から温かさが消える。気づけば資料はもう元通りボクの手元にあって、ずっしりとした重みが主張している。彼女は立ち上がって「気を付けてね」と手を振った。そのまま目を離せずにいれば、三年の教室に入っていく。そっか、先輩だったんだ。
 髪もあの時より伸びて、背はボクに追い越されて。王子さまの面影はしっかりと残っているけれど、ボクよりもずっと女の子になっていた。

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