これの続き
今日はお休みだから、新しい着物を買いに行こうかしら。最近流行っている、かかとの高い革の靴もちょっと気になっている。
ここ
二月くらい、犬川さんとは何度か会って、一緒にお茶をしてお話したり、食事をしたりした。彼の家にあげてもらうことも多々あった。わたしは家にいるのも退屈だから、暇さえあれば学校が終わった後に犬川さんのところへ遊びに行っていた。犬川さんはとっても頭が良くて、宿題を教えてくれた。なんでも知っているみたいで、わたしが聞いたことには全てきちんと答えてくれるのだ。
彼はなんでも知っているだけじゃなくて、なんでもできる人だった。わたしが櫛と髪飾りを持っていくと、綺麗に髪をまとめてくれるし、化粧道具を持っていくと筆を上手に使って華やかに仕上げてくれるのだ。わたしがありがとうと言うと、彼はよく頬を撫でた。それが恥ずかしくてくすぐったくて、いつも顔が赤くなるような気がするけれど、しょうがないくらい嬉しかった。
さすがに今日も遊びに行くのは迷惑かしら。ぐるぐると頭の中で考えているうちにお気に入りの着物屋さんに到着した。あ、これかわいい。あっちにあるのもいいなあ。たくさんかわいいのがあるけれど、今日買うのはひとつだけにしよう。わたし、靴だってほしいのよ。
お店の中で悩みに悩んで着物と靴を買った。抱えて家に戻ろうとすると、途中で偶然犬川さんと会った。
今日は来ないのかと少し残念そうに聞かれてしまい、わたしは嬉しくなって、新しい服を買ったから着替えてから行くと言ってしまった。犬川さんはそんなわたしを見て楽しそうに笑い、お茶とお菓子を用意して待っていると言った。
家に帰ってからはすぐに新しい着物に着替えて、お気に入りの髪飾りをつけた。新しい靴を履いて、急いで飛び出した。
犬川さんの家でお茶を飲んでお菓子を食べて、今日はわたしの家の話をした。
お父さんはわたしが小さい頃からずっと大陸で商売をしていて、たまにお土産を送ってくれること。お父さんからもらったお気に入りの金細工の櫛と髪飾りは昔大陸にいた遊牧民が使っていたものらしいということ。変な形のお米をもらったこともあるということ。外国語の本をもらったけれど絵がほとんどなくて何が書いてあるかわからなかったこと。ここ一年近くは連絡がないこと。お母さんは何年か前からどこかに住み込みで働いてて、仕送りをしてくれること。日ノ本の、きっとここからそう遠くないところにいるはずなのにちっとも会いにきてくれないことーーー…。
それから、もうすぐ学校を卒業することも話した。街の女の子たちのほとんどは、卒業したら結婚するか働くかするのだけれど、わたしはお父さんとお母さんがいないような感じになっているから、結婚したいって言う人はいないだろうし、働くにしたってわたしがこんな感じなのだから上手くやっていけるのか不安だ。雇ってくれるところはあるかな。でも、いつまでもおじさんとおばさんのところでお世話になっているわけにもいかないし…。
犬川さんはわたしの退屈な話にもあくびひとつせずに丁寧に相槌を打ってくれた。そしてまたわたしの頭を撫でてくれた。
頬に当たる髪がくすぐったくて目が覚めた。どうやらわたしは犬川さんの膝を枕にして眠っていたらしい。慌てて身体を起こして、ごめんなさいと謝ると、犬川さんは笑った。
「ずいぶん気持ちよさそうに寝てたじゃねぇか。」
「言わないで、恥ずかしい…。」
わたしが顔を赤くして俯くと犬川さんはまた笑った。
「おまえさんは本当にかわいいねェ。」
わたしはもうどうしようもないくらい恥ずかしくなって、耳まで真っ赤になったのがわかった。
帰り道にお蕎麦屋さんに入った。犬川さんは蕎麦を選んでいたけど、わたしはうどんを選んだ。
「犬川さんは、あとどのくらいこの街にいるつもりなんですか?」
温かいうどんにふうふうと息をかけて冷ましながらわたしは聞いた。
「…そろそろ出て行こうかねェ。」
予想外の答えだった。わたしはてっきりもう何ヶ月かいると思っていた。
「ほんとうに?さみしい。」
「あと一週間はいるつもりだよ。」
「そっかあ…。」
それからは上の空だった。大好きなうどんも途中から全然味がしなくなってしまった。時間が経って、もうぬるくなっているのにわたしはぼーっと麺に息を吹きかけていた。
「なまえ」
家の近くの、いつも別れる場所まで来ると犬川さんは口を開いた。
「次の週末、朝でも昼でも、夜だっていい。大事なものだけ持って、俺の家まで来な。後悔はさせない。」
犬川さんはわたしをそっと自分の胸の方へ抱き寄せ囁いた。犬川さんのにおいに包まれて、顔が真っ赤になるのがわかった。心臓がばくばくして、全身が汗ばんでいるような気がした。自分の心音が大きすぎて、犬川さんのは少しも聞こえなかった。
「…うん。」
わたしがこくこく頷くと犬川さんは腕を緩めて、わたしの頬を撫でた。
「おやすみ、なまえ。いい夢を。」
布団に入って、あの時のことを考えた。抱き寄せられた時にわたしを包んだにおいや、胸の感じとか、わたしに触れる硬い手のやさしい感じとか。当たり前のことだけれど、犬川さんも男の人なんだ。名前を呼ばれるのもすきだ。犬川さんに呼ばれると、わたしは不思議な気持ちになる。思い返してはどきどきして赤くなって、少ししたら落ち着いてを繰り返して、なかなか眠ることができなかった。
2020.10.14
金の櫛はスキタイのあれをイメージしています