眠れる獅子を起こさないで 9

「この度、貴方方の監視の任を解かれることになりました。これでお別れです」

旧王国領を離れ、誰もベアトリス達を知らない土地で新たな生活を始めることになった。生まれ育った故郷を離れるのは些か心苦しかったが、あの地には平穏に生きる、ただそれだけのことでも阻むものが多すぎる。
その矢先、密偵からそう告げられた。

「……流石にあたしに手を貸しすぎたのがまずかった?」
「いいえ。貴方方への監視そのものが打ち切られることになりました」
「……何で?」

何がどうしてそうなったのか。ベアトリスは混乱する。

「陛下への貴方の伝言、あの老騎士との口論の内容……それらを耳に入れた陛下が、もう監視は不必要であると判断されました」
「よくヒューベルトが許したわね」
「それはもう、相当揉めたそうですよ」
「だろうね……」

いくらベアトリスにその気が無くとも、いつか気が変わらないという保証はない。
監視を打ち切るということは王子の存在を知っておきながら野放しにするのと同義で、帝国にとって利がない。

「……もう決まったことならあれこれ言っても仕方ないか。ちょっと名残惜しい気もするけど、達者でね」

常に自分の行動ひとつひとつを監視され筒抜けになっているというのは本来なら息苦しいことの筈なのに、密偵の妙な甲斐甲斐しさでそう感じさせられなかった。
それどころか、いざ別れとなると名残惜しいとさえ感じてしまう。

「そちらこそ、健やかに……二度と我々が出てくるようなことがないよう、願っています」

もし次に彼らと接触するようなことがあれば、その時は今度こそ見逃されず命が絶たれてしまう時だろう。そうなることのないように。

円満に去りゆく彼を見送るというのは本来であれば奇妙なことであるが、お構いなしに笑顔で見送った。

 *

幾年節が流れ、戦火の傷も凄惨な記憶も薄れていこうとしていく頃。
帝都アンヴァルに、ひとりの青年が訪れた。
まず道行く人々の目を引くのはその優れた容貌。そして、あちこちの店を歩き回り菓子を買い食いしていくさまがさらなる注目を集めていく。
そして――たまたまその時、所用で市街に出ていたある男が、その青年を目にしてあ、と小さく声を上げた。
一目で、彼が何者か分かったから。そうして、心の中で安堵が生まれる。

「こんにちは。見た所帝都に来たばかりのようですね」
「そうです。まさにさっき到着したところで」

声を掛ければ、快く応えてくれた。

「アンヴァルのお菓子が好きだが中々手に入らなくて、ここなら食べ放題で来た甲斐があったな」
「楽しんでいるのなら何よりです。では……」

菓子を抱えて目を輝かせている様子に、彼が健やかに平穏に育ってきたことが伺えて、笑みが漏れる。

「あ、そうだ! 別に俺は遊びに来たんじゃない訳じゃないんだ。ちょっと聞きたいことが……」

帰ろうとすると慌てた青年に呼び止められる。

「宮城に仕えたいんだが、どうしたらいい? 貴方なら口利きとかもできるんじゃないか? おじさん?」

慌てた様子から、少し悪戯っぽい笑みへと表情を変化させて、青年は問うてくる。
その様子に、今度はこっちが慌てる番だった。

「ちょっと自信なかったけど、やっぱりそうだったか。久しぶりだな」

こちらが青年のことを知っていたように、青年もこちらの素性に気が付いていた。そもそも幼かった彼が自分のことを覚えていたのにも驚くが。
この質の悪さは正しくあの人のそれを受け継いでいる。思わず苦笑してしまう。

「そういうことだから、よろしく頼む」

逃さない、と言わんばかりの圧に、降参する他なかった。

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