見知らぬ天井
父親の職場に行くのは20年ぶりだ。
当時2歳だった私は、父の転勤により引っ越す際にお別れの挨拶をしに国土交通省を訪れた気がする。けれどなにせ2歳だ。夢だったかもしれない。
なまえは手元の風呂敷包みを握る力を緩め、遠くに見える煙の柱を眺めていた。
今は22歳だ。夢なはずがない。
煙の中でうごめく巨大な触手はミミズのようにのたうって、海面に飛沫をあげていた。
「お…父さん…」
風呂敷包みからこぼれ落ちたお弁当箱は、なまえが父の出世祝いと大仕事への成功を願って作ったお弁当だった。それが今、ゴトンと音を立てて会議室の床に着地する。
こんな非常時なら、お父さんだって何かしらに駆り出されるに決まってる。
東京へ無事着いたのかと母から連絡が来ていたが、なまえはそれを無視し、弁当を片手にありとあらゆる場所を走り回った。
蒲田と呼ばれる場所にバケモノが乗り込んでから数日がたち、体も心も、何もかもが足りず、なまえは空っぽになったなにもかもに一つだけ「お父さん」という言葉を入れてけんめいに街を探し回った。
そしてようやく、地下の避難所で国土交通省の人間を見つけた。
「みょうじ課長ですか?おそらく巨災対のメンバーに選出されていたので、そちらにいるのでは無いかと…」
「う、…」
「娘さんですか」
「ッぅ…ッ…、、」
何にも答えずに、声を殺して泣く私を抱きしめて、父の元部だと言う女性は優しく囁いた。
「明日車でお父さまのところへ送ります。ですから今日はゆっくり休んでください」
救われた気持ちだった。父はいるんだ。
そうだ、お弁当、お弁当渡さなくちゃ、
鶏肉の黒酢だれ、ブロッコリー、だし巻き卵、お父さんの好きなマカロニサラダ、お父さん、良かった…お母さんにも、おしえ、なく、ちゃ
目がさめると、見知らぬ天井だった。
「…」
私の顔を覗き込んでいるのは色白で首の細い女性。神経質そうに見えるのにその口の端の小さな歪みで私を案じているのが分かった。
「ここ…」
「ここは立川の巨大不明生物特設災害対策本部です。あなたが眠っているのは仮眠室のベッド。見た所一週間は不眠不休で走り回っていたように見受けられますが、ゴジラの核光線の騒ぎの際にみょうじ課長の娘さんだと訪ねてこられたのは覚えてらっしゃいますか」
「は、、、へ、、、」
「昨晩のゴジラの攻撃であなたのお父様はお亡くなりになりました。あなたをお父様のところへ案内した職員も火事に巻き込まれて亡くなりました。覚えてらっしゃいませんか」
「お、べん、と、」
「…あなたがお父さまに届けられるはずだったお弁当箱ですが既に中身が腐敗しており異臭を放っていたので処分しました」
「おと、さ」
「お父様の死体を回収できるのはいつになるかわかりません。ご家族には我々の方からご連絡させていただきましたのでご安心ください」
「、」
ご安心…?
なにを?
ご連絡…
なまえはのろのろと布団から飛び起きた。
白いなぁと、膝の上でぶるぶると震えている女性の拳の上に自分の手を重ねた。
優しいひとだ。と心が判断した。
今にも泣き出しそうに鼻をすする目の前の女性の早口は恐らく感情を押し込めるためのものでもあったのかもしれない。
私に事実を伝えるために私が起きるまでそばにいてくれたのかもしれない。
「…こんな事ってあるんですね」
「…」
「今って、世界は、どうなっているのでしょう」
「時間が戻せたらいいのにって、思います」
お互いに噛み合わない。言葉と言葉が空を切った。他人のことなど思いやる余裕はないのだと今度こそ自覚した。悲しむ暇もなければ、同情の余地もない。生きる。生きるしかないのだ。
「大丈夫です」
「…」
「髪の毛…」
跳ねてる。と言いたくて涙をこらえる女性の髪を触ると、下まつ毛にたまった水玉が溢れた。
「お疲れですよね…お布団、お借りしちゃって…ありがとうございます。」
「…ッあの」
「こんなときです。お仕事とっても大変で、お辛いでしょう。交代しましょう。」
「ぅ…ッ…」
ぎゅうと、強く女性を抱きしめてそのまま布団の上に引き込んで、布団を出た。
東京に行くからって張り切って卸した洋服は煤けて、ところどころ破れている。
彼女の休憩と私のこと、父のこと、他の方にたくさん話す必要がある。けれど、みんなたぶん彼女のように疲弊しているだろう。
「すみませんあの、その、巨大生物撃退委員会?の、お部屋は…」
「巨大不明生物特設災害対策本部です」
彼女の耳元で囁いた時に、扉からシャキッとした男の声がした。
「え、」
「覚えにくいでしょう。皆、巨災隊と呼んでいます。」
お目覚めになりましたか。この度は非常に残念でしたと、たかそうなスーツを着た男性は私の目の前に座り頭を下げた。
若い…けれど、父親より遥かに地位が高いことが一目でわかった。
「矢口蘭堂と言います」
「…みょうじの娘です。透と言います。この度は、お忙しい中、助けていただいて、父のことも、ありがとうございます。彼女は…あの、疲れていたようなので…」
「なまえさんですね。彼女は尾頭と言います。巨災隊のメンバーです。仮眠も兼ねて透さんの元へ向かわせたので構いません。ありがとうございます。」
は…早口だ…
政治家と言うのは皆こんなに早口なのか…名前を覚えるのも早い…
「矢口さん、私、今から地元へ帰るのは不可能ですよね」
矢口さんはしっかりとした目で私を見た。
「はい。ですのでおそらく、自衛隊に連絡を取り、なまえさんを東京の避難所へ…」
私もしっかり矢口さんを見る。
「もし、もし可能でしたら。私を下働きに使ってください。」
「え?」
「この部屋は仮眠室ですか?お忙しいのが一目で分かります。私は皆さんのお仕事はお手伝い出来ませんが、この部屋の掃除、水場の掃除、お茶汲み、など、雑用をやらせて頂きたいんです。」
「なまえさん」
矢口さんの手が肩に乗せられて、たかそうな絨毯にシミができた。あ、ヤバイヤバイヤバイヤバイ…泣いてる
だって
だって
「父を…、、、持って帰らないと」