〈ハザード視点〉

今から十三年前の話だ。 北の大国バレリアスの街バレリア・サイエンスバレー。その日は、一年中冬の気候が続くバレリアスの中でも珍しく雪の降らない日だった。
爽やかな晴れの日、バレリアスの誇る王立体質能力研究所に新人科学者が入所した。白く清潔感のある部屋で、白衣を着た科学者達が老齢の所長と、その隣にいる新しい白衣に袖を通したばかりの新人に注目している。

「それでは紹介しよう。彼が本日より我々の同志となる新人の、ハリー・ディラン君だ。大学を優秀な成績で卒業し、体質者の未知なる進化について論文を発表したことでも高い評価を得た素晴らしい人材だ。なおかつ彼自身も透視とうしの体質者である」
「おお!あの論文を書いた大学生か!」
「素晴らしい!自らも体質者とは!」

科学者達が歓声を上げる。今目の前にいる新人科学者は大学で有名な論文を発表したことでこの世界で名を知られていた。さらに自身が体質者という研究者は珍しい。その新人科学者…ハリー・ディランはまだ二十二歳。くすんだベージュ色の髪は首の中程くらいまでの長さで「今」よりずっと短かった。二十二歳というわりにはもっと大人びた印象を持っていたと思う。
…そうだ。…俺の本名はハリー・ディラン。かつてバレリアスの王立体質能力研究所で体質者の研究をしていた。だがもうその名は捨てた。
今はハザード・ディザリウスとして生きる屍に過ぎない。
この当時の俺は念願の王立体質能力研究所に入ることができて浮かれていた若い研究者だった。…思い出すだけで何も知らない未熟者だと腹が立つ。

「ただいまご紹介に預かりました、ハリー・ディランです。この王立体質能力研究所に入ることを長年の夢としてきました。こうして皆さんと共に体質能力の研究ができること、大変嬉しく思います。どうぞ宜しくお願い致します」

頭を下げると、歓迎の拍手が浴びせられた。研究所側にとって、俺という男は待ち遠しい人材だったと思う。若くして優秀な成績を修めていた俺は、論文を見た研究所の所長が是非にと大学を経由してスカウトした逸材。
王立体質能力研究所といえば世界で最も体質能力の研究ができる、科学者達の憧れの施設。そこに直接スカウトされるというのは、ほとんどありえないことだった。

「本当に君には期待しているよ。我々の研究は、ただ己の知的好奇心を満たすことだけではないのだ。この世界で己の能力に戸惑い、悩む体質者達を救うことでもある。体質能力の力、対処法、能力をコントロールする手段…体質能力に関わるあらゆることを解き明かせば、能力に苦しむ人々を救える。そのためには君の力が必要なのだ」
「はい。勿論です」

若い科学者は強い意志を持って所長を見た。
…俺は生まれながらに人に見えないものが見える透視の体質者だった。死者の魂、猛スピードで走る人や自動車が動く気配、人間の熱反応。常人には見えないものが見えるという現象が体質能力だと知ったのは俺が五歳の頃だった。
親がいなかった俺は孤児院で育ち、幼い頃から本を読むのが好きな聡明な子供だったと思うが…言い方を変えれば「子供らしからぬ子供」だったろう。読んだ本の中に体質能力のことを書いた本があり、そこで自分の特別な力が体質能力だということを知った俺はそれ以来、自分の能力をどんどん調べ、やがて他の体質能力のことも知りたいと思うようになった。
勿論、体質能力には危険も伴う。体質者の中には能力が強すぎて自身では抑えきれなくなり、能力が暴走する事例もあった。それを抑えるための明確な方法は未だに解明されていないこともあり、俺は体質能力の研究と共に能力の暴走を抑える方法も探したい…苦しむ体質者を救いたいと思うようになった。
その思いを胸に、俺は猛勉強し、一流大学を経てその夢の現場、王立体質能力研究所に立っていた。あの時、俺自身は自分の努力が実り、まさに順風満帆だった。

「マリア、サンディ。彼の研修を頼むよ」
「わかりましたわ、所長」
「宜しくな。ハリー」
「宜しくお願い致します」

所長は俺をある二人の科学者の前に連れてきた。どちらも三十代後半で、マリアという女性は茶色い癖毛と真面目そうな眼鏡が印象的で、サンディという男性は科学者らしからぬ明るく楽観的そうな深緑の短髪にそばかす顔。ハリーにとっては先輩であり、どうやら研修を担当してくれるらしかった。

「マリア・ルーレスよ。あなたの論文、読んだわ。とても感動したのよ。一緒に研究ができて嬉しいわ」
「サンディ・サニーだ。へへっ、覚えやすい名前だろ?おっと、堅苦しく先輩呼びとかすんなよ?そういうの苦手だからよ!マリアもそれでいいだろ?まあ、お前のような天才が来てくれて俺達の研究も捗るぜ」
「アンタ、すぐサボるんだから。ハリー、コイツがサボったらすぐ教えてね」
「はは…」

気のいい先輩達にホッと一安心した。大学ではその才能を妬まれて嫌がらせされたこともあったが、ここでは安心できそうだと。

(俺はここで体質能力の謎を解明し、苦しむ体質者を救う…俺が世界の体質者すべての助けになるように)

…ああ、なんて愚かな奴だ。過去の俺は本当に何も知らない馬鹿な男だった。世界の闇も何も知らず、綺麗事ばかり。
ただ、世界で一番の環境で大好きな研究ができる、それだけしか考えていなかった。



********************************


それからの日々は本当に早く感じ、あっという間に二年が過ぎた。気付けば俺は二十四歳。毎日が新鮮で、毎日が楽しく、新たな発見と驚きと充実感に満たされた日々だった。
今まで大学で学んできたような研究とは比べ物にならないほど、最新の機材とベテランの先輩達による指導、そして世界各地の体質者のデータを参考にしてあらゆる研究が進み、二年の間に俺は世界で未発見だった体質能力を三つほど見つけた他、既に発見されていた体質能力の新たな特性も複数発見した。
この研究所は本当に俺によく合っていたと思う。まわりの先輩達も俺の力を認めてくれていた。

「ハリー!お前本当にすげぇ奴だな。二年でここまで色々発見する奴なんてなかなかいないぜ。普通はもっと年月がかかるもんさ」
「サンディ…。俺はただ単に研究が好きなんだ。体質者のことをもっと知りたいし、俺が見つけたデータを基にして体質能力に悩む体質者達を救えるだろうし」
「ふふ。本当にハリーは熱心ね。自分が体質者だからっていうのもあるだろうけど、そこまでまっすぐに体質者のことを想うのは素晴らしいことだわ」

特にサンディとマリアの二人は俺に良くしてくれた。良き理解者といっていいだろう。大学にいた頃も一人で黙々と研究をすることが多かったが、こうして理解してくれる仲間と共に協力して研究するというのも悪くないと思えた。…今の俺では考えられないがな。

「しかし、本当にこの研究所は素晴らしい。世界各地の体質者のデータやサンプルが集まっているとは想像もしていなかった」
「ああ。ここは特別だからね」

そんな話をしていた時だった。俺達のいた研究室のガラス張りの壁の向こうの廊下を所長と一人の男が歩いていくのが見えた。その男はバレリアスの軍服を着た恰幅のある男。
実は俺が研究所に来てから何度もその姿は目撃していたし、別の男であることもあった。だが共通しているのはバレリアスの軍人であること。
バレリアスは王政の国で、国王自身が軍人として有事には前線に立つこともある。そして国王指揮下に軍があり、この研究所は国王直轄の施設。つまり軍が関わっていても特段不思議は無かった。

「まぁた軍の奴らが来てんだな」
「彼らは何をしにここに来てるんだ?」
「さっき、あなたが言ったとおり、私達は世界中の体質者のデータやサンプルを使って研究しているでしょ?それは軍が集めてきているのよ」
「なるほど…軍ならそういう情報も入ってくる訳か」

バレリアス軍が体質者のデータを集めてきて、それを俺達研究所の人間に渡す。そしてそれを基に研究を進めていく。なんら問題は無い。

「つまり、軍の人間が出入りしてるのはそのデータやサンプルの受け渡しって訳か」
「ま、そうだろうな。なんせ軍の奴らは所長としか面会しないからな。ま、おかげで俺らの研究が助かってるんだけどさ」
「軍も大変よね。世界各地を飛び回ってるんでしょうしね」

サンディとマリアと一緒になって笑っていた時だった。俺はかすかな眩暈と共に咳き込んだ。

「っ…ゴホッ、ゴホッ」
「ちょっと、大丈夫?ハリー」
「ああ…大丈夫だ」
「お前、最近泊まり込みで研究室に籠もってただろうが。無理しすぎなんだよ」
「…気付いたら三日過ぎてただけさ」
「いやそれやばいからな!!お前さ、病院行ってきたらどうだ?悪化したらやばいだろ」
「病院か…もう何年も行ってないな…」

自分は比較的体は丈夫だと思い込んでいたが、やはり三日間ぶっ通しで研究し続けていたのは無理があったか。確かにこれ以上悪化すればするほど研究ができなくなるし、このあたりで病院に行ってみるかと考えた。

「…わかった。この近くに病院ってあったか?」
「一番近いのはサイエンスバレー病院ね。あそこなら大きいし、今からでも行ってらっしゃいよ」
「ちゃんと薬もらってこいよー?」

二人に背を押され、俺は病院へ向かうことになった。早く治して研究に戻らなくてはならない。だが、この日が俺の…ある意味「運命」を大きく変えることになるとは、全く想像もしていなかったんだ。



********************************


サイエンスバレー病院は研究所から徒歩で十五分程度の場所にあった。元々、サイエンスバレーは研究所や関連施設のための街で、この病院もほとんど関係者が通うためのものらしかった。
いやに清潔で、研究所と同じくらいの白い内装。関係者しか通わないくせにここまで大きな病院である必要があるのか…当時もそんな違和感を感じていたが、俺はそのまま病院に入って診察を受けた。その結果。

(……どうしてこうなった…)

気付けば俺は病室のベッドに横たわっていた。けして意識を手放した訳ではない。とにかく俺は診察を受けた結果、医者から怒鳴りつけられた。「何故もっと早くに来なかったんだ」と。
そして驚いている間にナースが呼ばれ、俺は担架で運ばれたかと思うとあっという間にこの個室に入れられた。そして告げられたのは「検査入院」。
どうやら、俺は気付かないうちに風邪が悪化していたようで、あと少し来るのが遅かったら倒れて救急搬送されていた可能性もあるとのこと。自分では全く気がつかなかった。
しかし、検査入院ということは数日間研究所に行けない。結局は研究の時間が失われてしまったことになる。先程、医者の許しを得てわずかな間だが、研究所には連絡を入れておいたが、サンディとマリアがかなり心配していたようで、明日には見舞いに来てくれるとのことだった。あの二人にも申し訳ないことをした。

「はぁ…最悪だ…」

正直、自分の体のことよりも研究ができないことが最悪だった。俺にとって研究は生き甲斐にも等しい。それができないまま、無意味にベッドで数日間過ごすのはかなり苦痛であった。
ふと窓の外を見ればどこまでも広がる薄い青空。バレリアスは冬の気候だから、晴れの日でも空の色は薄い。今日は雪の降らない日だったからいつもよりも透き通った青空に見える。

(俺は…研究が無ければ何の面白みもない男だな…)

冷静になって考えてみれば、子供の頃から体質能力のことにしか目がなかった気がする。動植物や物理学など、他の学問に関しても知識としては持っていたが、それも全て体質能力に関係するだろうと思って学んだこと。
学生時代には生物学と歴史の分野でその道に進まないかと勧誘されたこともあったが、全て断った。俺は最初から体質能力の分野にしか興味が無かったからな…。
そんなことをぼんやりと考えていた俺だったが、小さくノックの音が響き、我に返る。ノックは病室のスライド式のドアの向こうから聞こえた。返事をする前にドアが横にスライドされ、一人のナースが入ってきた。

「ディランさーん。ハリー・ディランさーん!入りますよー」

いやに明るい声だった。この病院のナースの制服であろうピンクの半袖、膝丈のワンピース式ナース服が目に入る。
…最近のナースっていうのはこんなにもスカートの丈が短いのかと若干気になったが。
そのナースは右手にカルテを持っていて俺のベッドの側まで歩いてくる。そこで初めて俺はナースの顔をまともに見たが…。
…俺の世界が止まった気がした。
今まで研究一筋だった俺の世界に鮮やかな色が彩られたような、たくさんの色が俺という無色のキャンバスを塗っていくような、そういった感覚だったのを覚えている。俺は生まれて初めて、女を「美しい」と思った。
その女は雪のように白い肌と、きらきらと輝く青い瞳、ふんわりとしたロングのプラチナブロンドの髪を靡かせている。髪の毛先はほんのりと水色がかっていて、特徴的だった。
彼女は花のような明るい笑顔を浮かべて自己紹介してきた。

「初めまして!エリナ・カリスです!本日からハリー・ディランさんのお世話をさせて頂きます。宜しくお願いしますね!」
「……あ、ああ……よ、宜しく」

ぽかんとしていたせいで返事が遅れた。エリナと名乗るその女は人を疑ったことのないような無垢な笑顔で俺を見つめてくる。その視線が気恥ずかしくて若い俺は目を逸らした。
本当に不思議な感覚だった。今までの二十二年の人生で感じたことのないもの。そんな俺の心を察せず、エリナはカルテを確認しながら話しかけてくる。

「風邪が悪化しちゃったってことですけど……わっ、ディランさん、王立体質能力研究所の科学者さんなんですね!すごーい!あそこってすごく頭の良い人達が体質者のこと調べてるんですよね!じゃあディランさん、すごい人なんだ!」
「…お、俺はまだ新人だ」
「でもでも!あの研究所、入るのも大変って聞きましたし、そこにいらっしゃるってことはディランさんはもう既にすごいんです!」

よく話す女だと思った。たった今会ったばかりなのに、既に俺が「すごい人」だと決めつけている。
偽りや、お世辞ではなく、純粋に信じているような瞳。脳裏に浮かんだのは、今までの人生で一度も思ったことのない言葉だった。

(……可愛い…)

そう思ってすぐ、自分の思った言葉に気付いて思わず頬を染めた。なんだ、その言葉。俺はこのナースに可愛いだなんて思っていたのか?俺は自分自身の異変に驚いていた。

「?どうかされました?ディランさん?顔が赤い……まさか熱が!?大変!」
「い、いや、違う…」

その時、突然俺はあまりのことに動きを止めてしまった。エリナは俺が風邪で熱を出したと思ったのか、自らの手を俺の額に当てて熱を計り始めたのだ。女にこんなことをされたことのない俺はより一層顔が赤くなるのを感じた。
雪のような白いエリナの小さく細い手が俺の肌に触れているということだけでどうにかなりそうだった。何もかもすべてが俺にとって初めての経験で、正直この時の俺はどうしていいかわからなかった。

「!!!」
「あ、ちょっと熱あるかも…。はい、体温計です!どうぞ」
「…あ、ああ…すまない」
「大変ですね…風邪って悪化すると辛いですから。わたしも子供の頃にディランさんみたいに風邪をこじらせてしまって、辛い思いをしたことがあるんです。その時、お姉ちゃんがずっと側にいてくれてお世話してくれたんです。そのおかげですっかり元気になりました。だから、風邪をひいた時は誰かがそばにいてお世話すれば元気になるんです!……あっ、ごめんなさい…わたし、自分のことばっかり話して…!」

自分の過去の体験を語るエリナは心底嬉しそうで輝いて見えた。心から、自分の姉に介抱されたことを感謝し、同じように患者と向き合いたいと思っているのだろう。
その笑顔と優しさに俺は清らかさを感じた。何の邪も無い心。こんな風に笑う女がいるなんて。

「…いや、いいんだ。…立派な姉さんがいて良かったな」
「…!はい!あのっ、すっごく優しいお姉ちゃんなんです!わたしもあの時みたいに、風邪で辛い時、そばにいてお世話しますから!ディランさん、安心してくださいね!ひとりじゃないですから!」
(ひとり…)

たかが風邪なのに。そう思ったが、俺の脳裏には孤児院で一人で過ごした記憶が蘇った。子供のくせに難しい本ばかり読んで、同年代の子供と付き合おうとしなかった俺を大人達も遠ざけていた。だから俺は常に一人だったが、それでも俺は気にならなかった。
何故かその記憶が浮かび、俺はエリナの言葉が胸に沁みていくのを感じた。

(俺は…ひとりが嫌、だったのかもしれない)

今、俺は研究所で良い仲間に恵まれた。当然のことになりつつあったが、俺は理解してくれる仲間に囲まれる今が幸せなのかもしれない。幼い頃から孤独には慣れていたはずだったが、それは慣れるものではない。出会ったばかりなのに、エリナというこの女は不思議なほどに俺を響かせる何かを持っているように思えた。

「ディランさん?」
「…不思議だな。お前は…」
「そうですか?」

きょとんとする顔はどことなくあどけなさを残している。二十歳かそこらくらいだろうか。どちらにせよ、これだけの器量であれば恋人がいてもおかしくないだろう。
だが、それでもこの入院生活、この笑顔がそばにあると思うだけで退屈さは消えるような気がした。
これが俺と、エリナ・カリスの出会いだった。

予想通り、入院生活は思ったほどの退屈さは無かった。この病院では患者にナースが寄り添って生活することも多く、俺はエリナと共に検査や院内の散歩に行くことが日課となっていた。ナースといえど看護師。他の患者の対応や雑務もあるが、エリナもよく俺のところへ顔を出してくれた。
話を聞いていると、どうやらエリナにとって俺は初めて受け持つ患者らしく、「お世話したいんです!」と両手を握り拳にして力強く言ってきた。ナースというよりもはや秘書のようだな、と俺が言うと顔を赤くして「ナースです!」とまた力強く言ってきたのが印象的だった。
エリナは俺とは正反対の性格で、明るくて表情がころころと変わる女だった。
そして初対面の時に感じたような心を癒す何かを持っているような一面もあって、俺はどんどんエリナに惹かれていった。
エリナは自分個人のことも色々話してくれた。バレリアス人の祖父母がいるが、自分自身はヴェルヌ人であること。ヴェルヌに住む姉を含む家族と離れてバレリアスにいる祖父母のもとで暮らし、夢だったナースになれたこと。その他にも、好きな料理の話、この前読んで泣いた本の話等、エリナの色んな一面を知る度にもっと知りたくなって。俺も自分のことをたくさん話した。今まで他人にここまで話したことはないくらいに。
ただ、自分が孤児院育ちで孤独だったことだけは言えなかった。恥ずかしい話だが、エリナに「孤独な自分」を見せることはどうしても気が引けたからだ。いつしか、俺はエリナを名前で呼び、彼女は俺を「ハリーさん」と呼ぶようになった。

「えーっと……古代の…体質者だったアロの王様の名前は…えーっと、えーっと…ク…なんだっけ…クス…」
「ヒントは太陽を意味する言葉だ」
「……あっ!クスソル王!」
「当たりだ」
「やった!わたし、すごくないですか!?」

院内の中庭にあるベンチで俺達はいつものように話していた。俺が体質能力の科学者ということで、エリナは自主的に体質能力や体質者に関する知識を教えてほしいとねだってきた。なんでも「ハリーさんが学んでいるものをわたしも少しは体験してみたいんです!」だそうだ。なんともおかしなことだが、時間が空くと俺はエリナに色々なことを教えた。もちろん、ほとんどがちんぷんかんぷんのようだったが、一般人よりは知識があるレベルまでになったようで、本人はそれが満足らしい。現在は、体質者だった世界各地の偉人について、以前教えたことをクイズ形式で再学習している。

「まあ、前に比べたらずっと知識は付いたんじゃないか」
「えへへ。やりました!わたし、身内に体質者がいて…昔から色々大変だったのを見てきたから、他人事と思えなくて」
「そうか…前にも話したが、俺も体質者だからな。その人の気持ちはわかる。能力のせいで苛められたこともあるし、他人に危害を及ぼすかもしれないという恐怖、他とは違うという疎外感とかもあるからな」
「!…そうですね。でもそんな人達のためにハリーさん達が研究を続けてくれるから心強いです」

いずれ俺達の研究が進めば、体質能力を自分で制限させたり、威力を弱めたり、もしかしたら希望する体質者の能力を消す薬や道具だって作れるかもしれない。
あとは、世界で報告例のある、体質能力が暴走して自我さえ失われてしまうという最悪の現象を治すことだって。俺達の研究は体質者の未来を支えていると信じていた。するとエリナが「あっ」と小さく呟く。

「そうだ!ハリーさん、ハリーさん!これ!わたしがこの前読んだ本!持ってきちゃった。ハリーさん、まだ入院生活もあるし、多分最後まで読めると思うから貸し出しまーす」
「…いいのか?お前が大事にしている本だろう?」
「わたしは最後まで読んだし、この感動をハリーさんにも伝えたくって!」

思い出したようにエリナは持っていた小さな布の鞄から俺に一冊の本を手渡した。風景画の描かれた装丁の本は彼女が以前読んで感動したと言っていた恋愛小説だった。
…実を言えば俺自身はこういった恋愛系の話は好かないが、エリナが勧めてくれたのであれば自ら進んで読みたいと思っていた。随分前に話したはずだったが、エリナはそれを忘れずにいてくれていた。

「…ああ、ありがとう。大切に読ませてもらう」
「ふふっ。ハリーさんって文学とか好きそうだから。あっ、でもこういう恋愛小説は苦手だったりした?」
「まあ、確かに普段は読まないな。だが、お前が泣いたというくらいだから興味がある」
「ちょっ、ハリーさん!まるでわたしが泣くのが珍しいみたいに!わたし、これでも涙腺弱いんですよ?」
「ははは…」

頬を膨らませるエリナは本当に美しくて、可憐で。春に咲く花のような笑顔だ。今でこそ親しくなったが、俺は自分自身の心の奥にあるどす黒い感情に気付かないふりをしていた。気付いてはいけないと思えば思うほど、どうしても強くなる。

(…俺が退院したらもうエリナとの繋がりはなくなる。その前に……俺はエリナに想いを告げて…自分だけのものにしたい…)

今までの会話から、エリナは恋人がいないことがわかっている。今こうして話しているのも、もしかしたらエリナからしたら患者相手に優しく接しているだけなのかもしれない。
笑顔や態度から、けしてそれだけではないと信じたかったが、自信は無かった。退院したらそれっきりかもしれない。想像するだけで恐ろしかった。

(だが今の俺が告白してエリナはそれを受け入れてくれるのか?)

想定して考えても、エリナが困惑する表情しか浮かばない。仲良くなったといっても、それが建前なのか本気なのかわからなかった。
だが、いつかエリナを他の男が奪っていくかもしれない。…いや、「奪う」以前にエリナは俺のものではないのだ。

「……」
「ハリーさん?まだ具合が?」
「…エリナ。俺は…あと一週間で退院だよな」
「そう…だね。回復しつつあるし、問題ないそうですよ」
「俺がいなくなったら寂しいか?」

するりと口から出た言葉。しまった、と思った時にはもう遅かった。告白でなかっただけ良かったが、ほぼ無意識にこぼれた本音のひとつだった。俺が退院した後、エリナは寂しがってくれるだろうか。それは本当に知りたい答えのうちのひとつ。
はっとしてエリナを見ると、驚いた顔で止まっていた。そりゃそうだ。…もし、エリナが俺のことをただの患者だと思っていたとすれば、一介の患者からそんな質問をされたら気味悪がるだろうしな。
俺がどう続けて言葉を発すればいいか迷っていると、エリナは突然頬を赤く染め始めた。

「…さ…寂しい…です…」
「……!」

今度は俺がその様子に頬を染めてしまった。エリナは先程までの良く通る声とは対照的にとても小さく呟き、俯きがちになった。だが、その表情を伺った瞬間…その愛らしさに胸を貫かれたような気分になる。今まで以上に顔を真っ赤に染めて恥ずかしげに俯くその姿。中庭を抜ける風がエリナの豊かな金髪をふわりと舞い上げ、中庭に生えた緑の葉をつける木からの木漏れ日が彼女に当たる。花の女神と呼んでもいいほどに、その姿は美しい。
ああ、俺はやっぱり…。

(エリナを…好きなんだな……俺は…)

生まれて初めて恋をした。自分自身の不思議な感情の名称がはっきりとわかる。いや、前から気付いていたんだ。俺はエリナに恋をしていると。エリナ。どうか、俺と同じ想いをしていてほしい。お前を離したくないんだ。

「エリナ…!」
「……ハリーさん…あなたの真っ直ぐに夢を追いかける姿は…素晴らしいと思います。そして何よりも…体質者のことを思ってる。わたしは…そんなあなたを尊敬します」

ようやく顔を上げたが、まだ顔の赤さはおさまらないエリナ。おかしくなるくらいに心臓の鼓動が高鳴って、本当に今度こそ俺の心の何かが弾けそうになっていた。エリナの手に触れようと、自分の手を伸ばした時だった。

「カリスさーん!医師せんせいがお呼びよー!」
「!!はっ、はいいいいいい!!!」

エリナと同じピンクのナース服を着た小太りの中年ナースが病棟の廊下からエリナを呼んだ瞬間、凄まじいスピードでエリナは走って行ってしまった。
思わずぽかんとする俺と中年ナース。エリナの顔は真っ赤で混乱したように目を回しつつもきちんと医師のもとへダッシュしたらしい。病棟に入った瞬間には走るのをやめて早歩きになったあたり、エリナらしい真面目さだった。
残された俺と中年ナースはしばらくしてから顔を見合わせたが、中年ナースは何もかもわかったらしく、「ふふふっ、お盛んねー」と下品な笑みをこぼして去っていった。何をしようとしていたか全部お見通しのようだ…。

「っ…はぁぁ…もう少しだったのによっ…」

あともう少しで自分の想いを伝えられたのに。だが…エリナのあの表情を見て分かった気がする。
きっと…エリナも同じ想いを抱いてくれているのだと。まだ一週間も時間がある。次のチャンスにきっと伝えよう。エリナへの想いを。そう決めた俺は病室へ戻ることにした。

…何度も言う。これは俺の過去。変えられない歴史。忘れるなよ。この過去の俺が確かにこの時、幸せであったとしても。
やがて「俺」は、バレリアスの田舎町でたった一人、隠れるようにして住んでいたことを思い出せ。
幸せの後に「何か」が起きたからこそ、俺はお前達と出会ったことを。それは…人に語りたくない思い出であることを…。


22.ある若き科学者の記憶






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