〈ハザード視点〉
「えっ?休み?」
「そうなのよ。カリスさん、今日は来ていないの。連絡も無くて…。あの子がそんなことするなんて、今までに無かったのだけど」
エリナと中庭で話をした次の日。いつも俺の病室に来ていたエリナを待っていたが、現れたのは彼女ではなく、たまに顔を見かけた中年ナースだった。
驚いて事情を聞くと、エリナは今日休みだという。昨日のこともあって、今日二人きりで会ったら告白しようと決めていたから拍子抜けしてしまった。しかも、無断欠勤だなんて彼女らしくない。なんだか胸がざわついていた。
「…大丈夫なんでしょうか」
「あらあら、ディランさん、カリスさんのことが心配なんですね。うふふっ、とても仲睦まじかったようですからね」
中年ナースは面白げに笑った。俺達の仲に勘付いていたようだったが、そんなことはどうだっていい。エリナに何かあったのだろうか。そんな思いを見透かされていたのか、中年ナースは優しい表情で俺を見つめた。
「……大丈夫ですよ。明日になっても連絡が無いようでしたら、お家まで行ってみます。もしかしたら急用があったのかもしれませんし」
「…わかりました。お願いします」
にこりと笑うと中年ナースは病室を出て行った。確かに、何か急ぎの用事ができて連絡をするのを忘れただけかもしれない。とりあえず、明日まで待ってみようと思い直した。…あと一週間で俺は退院する。それまでに、エリナに想いを伝えたい。
********************************
だが、次の日になってもエリナは病院に来なかった。心配した同僚のナース達が祖父母と暮らすエリナの自宅へ向かおうとしていた矢先、一本の電話が入ったそうだ。それは驚くことにエリナからで、その内容は俺にとって衝撃的で恐ろしいものだった。
「無断でお休みしてすみません…突然で申し訳ないのですが…わたし、病院を辞めさせて頂きます。ごめんなさい…本当にごめんなさい。病院に残っているわたしの荷物も全て処分して頂いてかまいません。……ごめんなさい…!」
電話を取った同僚のナースが事情を聞こうとしたが、エリナはそれだけ告げると電話を切ったという。
エリナが…病院を辞めた?しかも前日に謎の無断欠勤をして、病院に来ることもなく電話だけであっさりと退職するなんて。…俺に何も言わずに…。
「…そんな。エリナが…突然…」
「電話を取った子曰く、確かにカリスさんの声だったそうだし、本人の意思であることは間違いなさそうよ。でも、しっかり者のカリスさんが電話一本で辞めるなんて…彼女らしくないって皆が言っているの。そんなことをする子じゃないと思うのに……ディランさん、そう気を落とさないで」
俺にそのことを教えてくれた中年ナースは悲しそうに言った。…本当に信じられない。エリナ・カリスは俺に人生初の恋を教えてくれて、そして春の風のように俺の前から消えてしまった。
あまりのことに俺は呆然としてベッドに座り込んで動けない。いち患者であった俺はエリナの連絡先も、祖父母と暮らす家も知らないのだ。
(もう…会えないのか。エリナと)
やはり、俺はエリナにとってただの患者に過ぎなかったのか。中庭で見せた頬を染めた顔は俺の勘違いだったのかもしれない。
「ディランさん…私の目から見てもカリスさんはあなたのことを心から心配して…それ以上に気遣っていたと思うわ。…今はあなたが元気に退院することが、一番あの子のためになるはずよ」
「……」
中年ナースが俺を慰めてくれたが、その優しさが余計に辛かった。結局、その日からエリナと会うことはなく、俺はつまらない入院生活を続けることになり、一週間後の退院までほとんど病室から出ることはなかった。
********************************
「ハリー?…ちょっとハリー!ボーッとして、大丈夫?」
「…あ、ああ。大丈夫だ」
「お前、退院してからどこか変だぜ?」
退院してすぐに王立体質能力研究所での仕事に復帰した俺は再び研究にのめり込んだ。白衣に袖を通すのも久しぶりな気がする。
入院する前と変わらない生活に戻っただけだ。三流映画にありそうな、いつもと違う環境で恋が芽生え、日常に戻ると恋も終わる、といった内容のありがちな展開。俺は入院生活という非日常的空間で期間限定の恋をしたに過ぎない。俺の日常はここにある。体質能力の研究をし続けるだけ。
…それなのに。それなのに、気を抜くと思い出すのはエリナの笑顔ばかりだ。もう二度と会えないというのに。マリアとサンディに声をかけられるのも何度目かわからない。二人曰く、俺はしょっちゅうボーッとしていることが多くなったらしい。入院生活で体も意識も鈍ったのではと心配されているようだった。
「…いや、問題無いさ。それよりも、研究の続きだ。俺がいない間、何かあったか?」
「あー…そういや最近、軍の奴らの出入りが激しくなってきたような気がするなぁ。前よりも頻繁にな。で、奴らが持ってくるデータやサンプルも増えてきてな」
「確かにそうねぇ。まあ、おかげで既存の体質能力もどんどん詳細が判明していってるし、珍しい体質能力のデータも集められるし、私達としては助かっているのだけど」
「………軍か」
まさにそんなことを話している時だった。突然、所内に所長の声でアナウンスが流れ始めた。
『研究所内の全員、第一研究室に集まるように。繰り返す。研究所内の全員、第一研究室に集まるように…』
「!所長だ」
「何かしら。呼び出し?」
「しかも全員ってのは珍しいな。ま、さっさと行って話を聞いてみようぜ!」
俺達三人は所長のアナウンスに従って第一研究室へ向かう。第一研究室はこの研究所で最も広い研究室だ。そこに全員の研究員を集めるということは何か重要な要件だろう。
俺達が研究室に入ると、すでにほとんどの研究員が集まっていた。部屋の奥には真剣な表情の所長と、何故か軍服の男が立っている。何故、軍人までここにいるのか。皆、これから何が始まるのかと戸惑いの表情を見せている。俺達の後に二、三人が入ってきて全員揃うと、所長は重い口を開く。
「……全員集まったようだな。では…これより語ることは軍事機密であり、ここにいる者以外に口外すれば重罪となる」
(重罪…それほどのことを話すというのか?一体それは…)
普段の朗らかな所長とはまるで別人のような冷たい顔と声色だった。軍事機密というのは明らかに不穏な言葉だ。
「先日、国王陛下から命令が下った。これより王立体質能力研究所では、軍の指揮下のもと、
体質者の人体実験を行う。最終目標は、体質者を使用し、体質能力を使用した兵器を作ることである」
「!?人体実験!?」
「な、なんだそれは!?許されないことではないですか!」
すぐに研究員達はざわめいた。それぞれが口々に所長に叫び、俺もあまりの衝撃で反応することができなかった。俺の隣にいたサンディもマリアもすぐに反発する。
「ふ、ふざけるなー!人体実験なんて真似、できる訳ないだろ!」
「そうです!!所長、どういうことなんですか!?」
研究員達の声にも所長は目を伏せるだけで反応しない。どうしたというのか。体質者を使った人体実験、体質能力を使用した兵器。俺達にそんなことをやらせようとしているのが信じられなかった。俺達は体質者の平和な生活を作るために研究を続けてきたのに、それが戦争に悪用されようとしている。俺達の誰一人としてそんなことを望んでいないのに。
俺も所長に詰め寄ろうとした瞬間、所長の隣に立っていた大柄な体格の軍人が突然、拳銃を抜くとこちらに構えた。その姿に研究員達は驚き、怯えて後退りする。
「聞け!!貴様らに意見する権利など無い!!これは国王陛下の命令である!我が国が世界で最も偉大なる国となるべく、他国を寄せ付けぬ強大兵器が必要だ。それが体質者を使った兵器!貴様らはその兵器のエネルギー源となる体質者どもに投薬を施し、限界まで体質能力を強め、その力を使った兵器を作るのだ!これこそ我が国最大『白雪計画』である!!」
(白雪…計画…?)
その計画の名称の由来は当時の俺にはわからなかった。危険で物騒な内容とは真逆に、その計画の名は美しい雪の名を冠していた。その意味がわかるのは後になってからだったが。軍人が大声で叫んだ次の瞬間。
「そんなこと、誰がするか!!そんなことのために俺達は科学者になったんじゃないぞ!!なめるなぁ!」
俺の近くにいた研究員の一人が軍人に殴りかかった。俺達が止める間も無く、彼は軍人に拳を振り上げる。だが、次の瞬間。研究室に鳴り響いた銃声と、研究員達の悲鳴。目を見開いた俺の足元に転がったのは……つい今しがた、軍人に殴りかかった研究員の…血にまみれた死体だった。
「きゃぁぁぁぁ!!」
「うわああああああ!!な、なんてひどいことを!」
「黙れ!貴様らは理解していないようだな!これはお願いではなく、命令だ!貴様らに逆らうという選択肢はないぞ。今この時から、この研究所は我ら軍の監視下に置かれる。貴様らにも常に監視を付ける。家族や知人に漏らせばこの者のようになると思え!!」
気付けば、研究室の中に次々と銃を持った軍人達が入ってくる。その銃口は全て俺達研究員に向いていた。
「所長…!あなたは全てを受け入れたんですか!人体実験、体質者の兵器なんていう馬鹿げた計画に協力すると!?」
「……」
俺は思わず所長に詰め寄って叫んだ。俺は一年前、夢を持ってこの研究所にやって来た。所長は俺に期待していると言い、俺は所長を心から尊敬していた。なのにその末路がこれか。非人道的な研究をしろという無理矢理な命令を甘んじて受けて、それを俺達に強要する最低な男に成り下がったのか。
「…許してくれ。我が国のためだ」
「…ッ!」
どこか悲しげな雰囲気を纏いながら所長は小さく謝罪した。意味がわからない。なんのための謝罪なんだ。もっと詰め寄ろうとした俺のこめかみに冷たく固い銃口が突きつけられた。これ以上抵抗すれば引き金を引かれるだろう。
今の俺ならともかく、当時の俺はその冷たい一撃に逆らうほどの勇気も根性も持っていなかった。こうして俺のささやかな充実した日々は幕を閉じた。ここからは暗く冷たい闇の研究に身を投じることになってしまったのだから。
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研究所に軍が関与したその日から地獄が始まった。軍人達が次々と意識を失った体質者達を運んでくる。
その体質者達は性別、年齢、国籍を問わず、皆共通しているのは薬で意識を失っていること、グレーの患者服を着せられていることくらいだ。運ばれてくる時は担架に乗せられ、簡単なプロフィールが記載された書類をもらうが、彼らがどういった理由で、どこから運ばれてくるのか…俺達は恐ろしくて聞くことができなかった。
俺達はそれぞれ、彼らの能力を分析してあらゆる薬を投与して体質能力を引き出すチーム、体質能力をエネルギーにした兵器の設計と製造に専念するチームに分かれて作業を続けていた。
体質者の能力を限界まで向上させた後はそのまま、睡眠薬で眠らせて別室に「保管」される。軍人の話では、兵器の本体が完成した後、そこに彼らを特殊なケーブルで繋ぎ、体質能力を使わせるのだという。それが、体質者を使った兵器の実態だった。
あれから何人か、逃げ出したり、人体実験を嫌がった研究員が軍人に殺された。いつしか、俺達は恐怖よりも、「非人道的行為に手を貸した自分への嫌悪と、逃げられない環境への諦め」でただ黙々とやるべきことをする。研究員達の目にはいつしか光も無くなってきていた。
一番辛かったのは、体質者に投薬する際に目が覚めて、投薬の苦痛と恐怖で叫ぶ声が耳から離れないことだった。中には「死にたい」「殺してくれ」と叫ぶ体質者もいた。中には体に入れられた薬が体と合わずに死んだ体質者も出たと、他の研究員から聞いた。
その死に対し、俺達は心の中で謝罪を唱えるしかなかった。俺達の側には常に軍人達が銃を構えて立っていたのだから。
「……」
「よぉ、ハリー。…大丈夫か?」
「だいぶ…疲れているみたいね」
「サンディ…マリア…」
研究所内の休憩室でコーヒーを飲みながらボーッとしていると、サンディとマリアが話しかけてきた。心配されたが、俺には二人の方がよっぽど危なく見えた。
二人とも随分と痩せて顔色が悪い。それはそうだろう。あんなことを連日やらされていたら誰だってこうなる。おそらく二人の目には俺も同じように映っているのだろうな。この休憩室には軍人の見張りがいない分、まだ気が楽だ。
「…もう限界よ。私達は…こんなことのためにここにいるんじゃないわよ…体質者を救うために研究をしていたはずなのに、どうして体質者を苦しめなきゃいけないのよ!!」
マリアの叫びはほとんどヒステリックなものだった。だが、俺とサンディは何も言えない。俺達も同じ思いだった。俺達の研究は体質者の未来のためにあるものだった。俺自身もそう思っていたはずだったのに、どうしてこんなことになったんだ。
「…ハリー、俺は…俺はもう耐えられねえよ…。俺は…ここから逃げたい…もうこんなことはたくさんだ…どうして罪のない体質者を苦しめなきゃいけないんだ!!」
「サンディ…無理を言うな。俺達は研究所の外でも監視されている…計画を終わらせない限り、俺達は解放されない」
「わかってるよ!けど、もう逃げたいんだ!俺はもう嫌なんだ!隙をついて逃げようと思ってる…。だからマリア、ハリー!一緒に逃げよう!」
「逃げる……」
逃走は考えた。だが、軍人達の監視は厳しく、かなり前に自分自身では諦めていた。しかし、サンディは諦めていないようだった。マリアとサンディと一緒に逃げる…どうにか策を練ることができればあるいは。
「…まだ作戦も決まってないけどよ。俺達三人で逃げようぜ…」
「……私も賛成よ。ハリー、あなたは?」
「…わかった。俺も協力する。すぐにでも抜け出そう」
その日、俺達は決意した。この地獄から抜け出すと。憧れの土地だった王立体質能力研究所は今、最早俺のいるべきところではない。相手は国王だ。だが、軍部にもこの計画に反対している人間がいるはずだ。そいつらに全てを話して仲間達を救ってもらう。俺達三人はそれを約束し、新たな道へ進むために歩き出そうとしたのだ。
その時、休憩室に軍人が入ってきた。先程の会話を聞かれていないか不安だったが、そこは大丈夫だったようだ。
「おい、貴様ら!休憩はもう終わりだぞ!」
「は、はい」
「新しい体質者を運んできた!能力の分析を急げ!」
「…わかりました」
また新しい体質者だ。本当はこんなこと、もうしたくない。俺達三人は顔を見合わせた。もうこれ以上、体質者を手にかけたくないなら逃げるしかない。先程決めた事だが、逃げるにもタイミングがある。
とりあえず研究室に戻り、体質者の能力の分析をしているふりをして逃げ出すチャンスを狙うのが一番だ。俺の思いは二人も察してくれたようで、俺達はおとなしく研究室へ戻る事になった。
俺達が研究室に戻ると、ちょうど軍人達が担架に乗せた体質者を連れてきたところだった。いつもと変わらないグレーの患者服を着ている。その体質者の顔を見た瞬間…俺の世界は止まった。
「………!!」
そんな馬鹿な。それが俺の頭に浮かんだ一つの言葉。
「な、んで……」
俺の目の前に運ばれた担架の上で眠っていたのは……俺が病院で過ごした日々を彩った、初めて恋をした女……。
エリナ・カリスだったのだ。
「こ、の…女は……」
「名はエリナ・カリス。サイエンスバレーにある病院のナースだ。年齢は二十一歳。若い女の体質者は珍しいだろう。投薬しすぎてまた殺すなよ」
「ッ……!!嘘だ…嘘だ…」
「おい!聞いているのか!」
軍人の怒鳴り声も耳に入らない。むしろ、俺の脳内ではどんどんパズルのピースがはまっていくように何かが組みあがっていく。
何故ここにエリナが連れて来られているのか。それは…長いこと、俺の中で疑問だったある件と関連している。いや…むしろそれが真実だ。
…エリナはある日突然、勤めていた病院を退職した。同僚のナースも疑問に思うほど、あっさりとした電話一本で。その真実は……軍の連中に誘拐されたからだ。エリナが病院を辞める電話をしたのは、軍の連中がエリナ自身に電話をかけさせたのだろう。恐らく…怯えるエリナに銃を突きつけて…。
そうやってエリナが病院を退職したことで周りの人間に彼女の失踪を不審に思わせないようにした。それからエリナは今まで監禁されていたのだろう。
そしてもう一つの真実。エリナがここに連れて来られたということは…エリナは体質者だったんだ。俺が入院していた時、彼女は「身内に体質者がいる」と言っていた。
だが、多分それは嘘だ。自分自身が体質者だったんだろう。それを言ってくれなかったのは俺が信用できなかったからか、それとも自分が体質者だと気付いていなかったのかはわからない。
今言える事はエリナが軍に誘拐された原因は、彼女自身が体質者だったからだということ。この研究所に連れて来られた体質者の運命は…わかりきっている。
「貴様!!さっさとこの女の能力を調べろ!そして薬を打て!逆らうとどうなるかわかっているだろう!!」
ずっと黙り込んでいた俺に軍人が銃を突き付ける。だが、もうそんなことはどうだっていい。俺の頭にはもう答えが浮かんでいる。
「……させない」
「なんだと!?」
「………エリナを…そんな風にはさせない……もう、たくさんだ…!俺はこんなことをするために研究所に来たんじゃない!!俺は体質者を救うために来たんだ!!!」
いつの間にか俺は頭を抱えるようにしてブツブツと呟いていた。そしていつの間にか心のままに叫ぶ。押さえ込んでいた感情が爆発するように言葉を紡ぎ出す。
今までの体質者達も恐らく誘拐されてきたんだ。それなのに俺達は脅されていたとはいえ、ひどいことをしてきた。そして今度は愛した女を同じ目に遭わせるなんて、絶対にできない。エリナを連れて、サンディとマリアと共に逃げよう。
驚いた軍人が拳銃の引き金を引いたが、俺の目には弾丸がスローモーションのように見えた。これが俺の体質能力、『
透視』の力だ。おそらく俺自身が体質者だという事は軍の奴らには知られていないようだ。
それは前から感じてはいたが…奴らは俺を捕まえて実験体にすることなく、研究者として扱った。所長は軍の奴らには俺が体質者であることを言わなかったらしい。俺はあっさりと弾丸を避けると、担架の上のエリナを抱えて、驚愕しているサンディとマリアに叫ぶ。
「サンディ!マリア!逃げるぞ!!」
「…!お、おお!」
幸いにも研究室にいた軍人はコイツだけ。サンディは思わず、近くにあった薬品棚を軍人に向けて倒す。軍人の悲鳴と薬品の瓶が割れる音が多く聞こえたが、それを尻目に俺達は研究室を飛び出した。
実はこの時、逃げる直前に俺は目の前のデスクに広がっていた書類を三枚、小さなメモリーカードを一つ、片手で白衣のポケットに突っ込んでいた。逃げた先でも研究が役に立つと思った咄嗟の行動だったが、今思うと幸いだったかもしれない。そのまま廊下に出て走っているとマリアが俺に向けて言った。
「やるじゃないハリー!けどまさか逃亡がこんなにすぐ実行されるなんて思わなかったわ!」
「悪い!だが俺は…コイツをあんな目には遭わせたくないんだ!」
「お前がそのお嬢さんとどういう関係かは知らないが、よくやった!お前はやる時はやるヤツだと思ってたぜ!」
サンディも走りながら笑顔を見せた。俺の腕には意識のないエリナがいる。だが、その温もりを感じて彼女が生きている事を再確認した。
「俺はもう体質者を傷つけたくない!このエリナだって…もう離さない!!ここの研究員の仲間達も、捕らわれた体質者達も!逃げて、白雪計画なんてモンを暴いて助け出す!必ず皆、助けてやる!!」
廊下を走り続ける中、突然研究所内にサイレンが響いた。本来なら不法侵入者を知らすためのサイレンだが、今はおそらく俺達の逃走を告げるものなのだろう。
「まずいわね!追っ手が来そうよ!」
「構わない!このまま玄関ロビーまで突っ走るぞ!」
時間は無い。とにかくこの建物から脱出することを考えなければ。ロビーに行く途中で数人の軍人達が銃を向けて待ち構えていた。
「止まれ!止まらんと撃つぞ!」
「そこを退け!!」
俺は思わず、廊下に置いてあった消火器を地面に投げた。途端、あたりに白い煙が充満し、軍人達は訳も分からず銃を乱射する。透視の能力は視界が塞がれていても問題無い。
むしろ俺には体質能力のおかげで、煙の中でも出口や人の気配が見える。弾丸を避け、マリア達の手を引いて誘導しながら軍人達の背後に回ると消火器で殴りつけ、気絶させる。案外、簡単だったな。
「す、すげえな、お前…」
「今はどうこう言ってる場合じゃないぞ!急げ!」
再び走り出す俺達。ロビーにはあっという間に着いた。外に出れば軍人達の車があるはずだ。それで遠くまで逃げて体制を整える。玄関のドアを見た時、希望の光が見えた気がした。
あれを抜ければ、解放される。そしてエリナを助けられる。先頭を走る俺の足がロビーの自動ドアに差し掛かった時。
ダァァァン!ダァァァン!
「…………え……」
俺は突然響いた高い音に驚いて後ろを振り返る。透視の能力を使っていなくても、なぜか世界がスローモーションに見えた。
俺の目に映ったのは…倒れゆくマリアとサンディの体。そして、その向こう側に見えたのは大勢の軍人と…銃口を向ける大柄な軍人、その隣で同じく拳銃を小さく構え、こちらに向ける所長の姿。
…一体、何が…起きた?真っ白になった頭の中をぽつんと小さな黒いシミが広がっていくように、現状を把握する理性が追いついていく。
……わかりきっていること。…撃たれた。撃たれたのだ。マリアとサンディは撃たれた。あの軍人の持つ拳銃の銃口から煙が出ている。間違いない。二人はあの軍人によって撃たれた。
「………う……」
吐き気がする。絶望する。なんで。どうして。この傷ではもう…
(助カルハズガナイ)
そう理解した瞬間。俺はエリナを抱えたまま膝をついて叫んでいた。
「う………うあああああああああああああああああ!!!マリアぁぁぁああ!!サンディいいいいっっ!!どうして!!どうしてだ!あと少しじゃないか!!生きろ!!生きろよ!!うあああああああっっっっ!!!」
腹の底から叫んだ。悲しみよりも驚きよりも、「何故死のうとしている」という苛立ちの方が強かったのかもしれない。俺は血を流して倒れる二人に向かって叫んだ。撃った軍人よりも、死の世界へ一歩一歩近付こうとする二人が許せなかった。
死なないでくれ。あともう少しで助かるのに。こんなところで死なないでくれと願った。
「…ハ……リー…相変わらず…無茶、言うなぁ…」
「私達…もう…外へは出られない…みたい…」
「そんなこと言うな!!俺は…俺はアンタ達と一緒にここから出るって決めたんだ!!俺一人で行かせるな!!!」
「一人じゃ…ない、だろ……彼女が、いる…」
「……その子を…守ってあげて……」
もうほとんど聞こえないほどの小さな声でサンディとマリアは俺に言った。二人の視線は俺の抱えたエリナに向かっている。こんな時でも自分より他人のことを気遣う二人。どうしてそこまで言えるんだ。
「サンディ…マリア…!俺は…俺はッ……!」
「そんな顔、すんなって……ハリー…お前に会えて…本当に良かったぜ…」
「…私、もよ…その力と…知識で……体質者を救って…お願いよ…。傷付けるんじゃ、なく…って……皆を…守って…」
…俺の頬を涙が伝う感触。ああ俺は…泣いているのか…。自分自身の涙が、二人の命の灯火が消えていくのを教えてくれた。……そして。その灯火はほんのりと静かに消えていった。…二人の目は瞬きをしなくなったことで、それがわかった。
「死んだか。反逆者はこうなるとわかっていただろうが」
大柄な軍人の声がどこか遠いところでするような。俺の感覚は麻痺していた。二人が死んだことで。
「貴様を即座に撃ち殺さなかったのは、貴様が腕に抱いているその娘を傷付けんためだ。なにしろ貴重なサンプルだからな。おい、娘を取りに行け」
「…わかった」
視線を合わせてはいないが、軍人は所長の背を押してこちらに歩かせているらしい。所長の足音が近付いてくる。エリナを…奪うつもりか。それだけはさせない…俺はそう思って所長の首をひねることぐらいはしようと思っていた。
「…ディラン君。こんなことになって残念だ」
所長は膝をついたままの俺の目の前にやってきた。俺と所長の間には倒れたマリアとサンディの亡骸が横たわっている。所長は俺に拳銃を向け、手を差し出した。エリナをよこせということだろう。だが…近付いてわかったが、所長の気配には殺気を感じなかった。そして小さな声で…そう、軍人達に聞こえないように囁いた。
「………私を撃て」
「…!?」
それには思わず俺も顔を上げた。そこで初めて気付いたが、軍人共とは距離が開き、ちょうど所長は座り込んだ俺の前に立っていたから俺の姿は奴らからは所長の影に隠れて見えないようになっているらしかった。
「な、……何だと…?」
「…私を撃てと言ったのだ。最早…この研究所は…私の愛した研究所ではない…。…すまない、ディラン君。…私は国王陛下の命令と、軍の出したある条件によって…こんな事態を招いた。…もう私には止められない…だとすれば…私自身がこの研究所の幕を閉じるしか方法は無いのだ」
軍人共に気付かれないように所長は俺に話し、向けていた拳銃の引き金から手を離し、それをそのまま俺に差し出した。これで自分を撃てと言うのか。
「…答えろ。…何故、人体実験や兵器の製造を請け負った。何故、あいつらに研究所を売ったんだ。アンタは…俺の尊敬する科学者だったはずだ。体質者を救うため、研究を続けてきたんじゃないのか…!」
それはずっと俺が疑問に感じていたことだった。俺の世代では所長は有名な科学者だったし、俺の憧れの存在だったはずだ。体質者の娘を持ち、その子が幸せに生きられる未来のため、と言って体質能力の研究を続けていた。それがどうして体質者を苦しめる行為に身を落としたのか。
「……娘を人質にとられていた」
「…!」
「私の娘も体質者。その娘をサンプルとして実験体にされたくなければ…白雪計画のため、研究所を軍部の命令通りに働かせよと。…私は自分の娘可愛さに他の多くの体質者を…そして君達科学者を売ったのだ。…許してくれ…」
人質…。子を持つ親ならばこの脅迫に屈しない者がいるだろうか。それまで憎んでいた所長への感情に「同情」が広がる。もう責め立てることはできなかった。
「……昨日のことだ。軍の奴らから娘は解放したと言われたが…もう私は娘に顔向けなどできない。こんな非人道的行為に落ちた私は…体質者である娘にどんな顔をして会えばいい。私は科学者以前に…人として落ちた。君達科学者に罪は無い。君達は脅されていただけだ。全ての罪は…私にある。だから頼む。ハリー・ディラン君、君は生きてくれ。私を殺し、全てを終わらせてくれ」
そんなことを言ったら、所長だって脅されていた。俺がそう言おうとした時、所長は俺の右手を取り、無理やりに拳銃を握らせる。そこで痺れを切らした軍人が叫んだ。
「いつまで時間をかける!さっさと娘を連れて、その男を殺せ!」
すると所長は振り返り、軍人達をまっすぐ見た。その手はポケットに突っ込まれたかと思うと、何やらスイッチのようなものが握られていた。何だ、と思った瞬間。
…凄まじい爆発音。研究所全体が揺れるほどの規模でそれは起きた。研究室があった方向から音が聞こえ、炎が漏れ、ロビーまで広がってきた。軍人達もざわめきを隠せない。
「!!?きっ貴様…な、何をッ…!」
「…所内に爆弾を仕掛けておいた。もう白雪計画は終わりだ」
「な、何だと…!」
「ディラン君。…ここへ君達を追ってくる途中…奴らは体質者達を殺した。研究員の皆も殺されたんだ」
「…なっ…」
言葉が出なくなった。外へ脱出してから、必ず皆を助けると誓ったのに。その皆がもう…殺されている?
「…君達が逃げ出したことで他の皆も一斉蜂起したんだ。そしてそれを制圧しようとして奴らに……君が悪い訳では無い。むしろ君達は死にかけていた勇気に火を付けたんだ。それが罪だというならば、人間は勇気をなくして生きる屍が英雄だというのか?いいや違う。彼らは彼らの意思で戦ったのだ」
「っ…それでも!それでも生きている方がずっと良いに決まってる!!」
「…だが彼らは戦った。その過程も結果も彼らのものだ。……今、彼らの残した意思を背負って君は彼女と共に逃げ延びなければいけない。だからこそ、ここで全ての痕跡を消す」
すると今度は反対側の通路の方から爆発が起きた。爆弾は複数設置されているようで、軍人達の統率は完全に乱れ、逃げ惑っている。その中でただ一人、大柄の軍人だけがこちらに銃口を向けた。
「貴様ぁあああ!!体質者どもはどうだっていい!データさえあれば新しくやり直せる!!貴様らを殺してデータとその娘を回収し、もう一度ぉぉおぉぉおおお!!」
軍人がまるで阿修羅のような形相で引き金を引いた。弾丸はまっすぐ所長へ飛んでくる。俺は…エリナを床に寝かせ、とっさに所長の前へ躍り出ると、所長から受け取った拳銃を構えた。
(俺は………生きる…)
もう、今度こそ。
(体質者を守る…研究を続けるんだ。もう二度とこんなことはしない!!)
そして…俺は引き金を引いた。その弾丸は途中、軍人の放った弾丸とすれ違ったが…奴の弾丸は俺の頬を掠め、背後にあった自動ドアの扉を打ち砕いた。
俺の弾丸は奴の額ど真ん中を貫く。…銃を撃ったのは生まれて初めてだったが…不思議と冷静で、何よりも成し遂げたという思いがあった。それは勿論…
「…サンディとマリアの仇は…取らせてもらった」
俺の呟きと共に軍人の巨体は後ろへ倒れた。既にロビーにも火が回っている。他の軍人共は逃げるので精一杯なようで俺達には目もくれない。所長は俺の後ろで全てを見届けていた。
「……ディラン君」
「…俺は行きます。…俺なりに『正義』のため…体質者を救う研究を続ける。それが…戦った皆の意思を継ぐ俺の責任だ」
「…ああ、わかっているよ。…ありがとう。…本当に、ありがとう」
所長の…最後の言葉は謝罪ではなく、…感謝だった。俺は再び銃を構えると、涙を流しながら微笑む所長の額に狙いを定めた。
********************************
「…ん………あれ…わたし…」
「…気が付いたか?」
「……えっ!?ハリーさん!?あれ!?」
研究所から出て、林の中を隠れるように歩いていた俺の腕の中でエリナが目を覚ました。目を開いてすぐに現れた俺の顔に驚いているらしく、さらには周りの風景をせわしなく見ている。
「どっ、どうしてハリーさんが!?っていうか、ここどこですか!?それにハリーさん、すごいボロボロですよ!?」
…こんな時でも表情がころころ変わるエリナ。この声を聞くのも、とても久しく感じる。そして何より、まるで今が「日常」のように感じた。エリナからしたら、髪も肌も白衣も爆発の影響で汚れた俺を見て引いているのかもしれないが。
「…今はここから離れるのが先だ。後で説明する…」
「……ハリーさん?泣いてるの?」
エリナに言われて初めて気付く。俺は……また泣いていた。仲間と居場所を失ったこと、初めて殺人を犯したこと、体質者達を傷付けてきたこと。それら全てが今になって心にのしかかる。
…もう、あの頃には戻れない。夢を見ていた、あの頃には。
そして俺達の遥か背後で一際大きな爆発が起きる。腕の中のエリナが「きゃっ」と小さく悲鳴をあげて俺の首に手を回し、しがみついてきた。少し小高い丘に登ると、景色が一望できた。朝に染まりつつある夜の空。遠くには街の明かりが見える。だが、それよりももっと強い光…。
「か、火事?」
「…………」
…王立体質能力研究所が、燃えている。どうやら爆薬はロビーにも仕掛けてあったようで、入り口付近からは新しい火柱が高く高く燃え上がっていた。次々と爆発が起き、研究所全体は凄まじく鮮やかな赤を映し出している。
(……俺の、夢…)
俺の夢は終わりを告げた。信頼できる仲間との楽しい日々は炎の中に消えた。今、俺に残っているのは脱出の際に持ち出した僅かな研究資料と、エリナだけだ。もう、俺にはこの二つしか無い。
「……ハリー…さん?」
「…名前で、呼んでくれないか」
「えっ?………ハリー?」
「……エリナ…エリナ…ッ……愛しているッ…愛しているんだ…!エリナ…!」
俺は…ひたすらに強く、強く…エリナを抱きしめた。もう離したくない。俺の全てはエリナなんだ。
今はまだ事情が飲み込めていないエリナも、そっと抱き返してくれた。まるで子供をあやす母親のように深い愛で包んでくれる。
「わたしも…愛しているわ…ハリー」
俺の流す涙は空に溶ける火柱を消すことはできない。だが、涙は決意の表れでもあった。俺はもう元の人生には戻れない。だが、今ここで過去の自分を殺してエリナと共に生き、体質者を救うという意思。ちょうど夜が明け、日の出が俺達を照らす。
その日は…ハリー・ディランという愚かな科学者が死んだ日。そして…影に生きる男、ハザード・ディザリウスが生まれた日だ。
23.さよならの夜明け
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