−−満月が浮かぶ、濃紺の夜空にはダイヤモンドのように美しい星がいくつも散っている。
その下、路地裏を走る一人の男がいた。外見からして、いかにもチンピラといった風貌だが、右腕からは血が流れ、左手でそれを押さえながら必死の形相で何かから逃げているようだった。息は荒く、何度も背後を振り返り、怯えているようにも見える。
「ハァ、ハァ、ハァ」
路地裏を何度も曲がり、本人でもどこを逃げているのかわからないようだった。−−その頭上、建物の屋根と屋根を二つの人影が飛び交って男を追っている。その姿は月の逆光になってほとんど見えない。
「畜生、なんで、俺が………ぐぁあっ!?」
吐き捨てるように呟いた男だったが、突然、足に衝撃が走り、倒れこんだ。男は地面に顔を押し付けるようにして転び、自分の右足を見ると、何やら鎖のようなものが絡み付いている。その鎖の先は路地裏の、月明かりが当たらない暗闇に繋がってピン!と張られていた。誰かがその鎖を引っ張っているらしい。
「ひ、ひぃっ、た、助けてくれェ!」
男はその「追っ手」が何者かわかってひどく怯え、尻餅をつきながら後退りした。そして暗闇から鎖を引っ張ったまま、追っ手が姿を現す。その姿は異様だった。フードを被り、その下にペストマスクのような仮面を付け、動きやすそうな黒い戦闘服に身を包んだ謎の人物が、男の足に巻きついた鎖を引っ張り、逃走しないように捕まえている。よく見れば鎖の先、男が握っているのは小型の鎌−−つまり鎖鎌だった。仮面の人物は、その奥から声を発する。若い男の声だった。
「殺人犯、マック・ドースト。二件の強盗殺人と、三件の放火の罪人。逮捕されるも、父親である弁護士の力で無罪になった。お前を
裁いてほしいって依頼が来てるんでな」
「た、頼む!助けてくれよぉ!」
仮面の男に向かって命乞いをする逃亡していた男、マック。彼はこのあたりで起きた殺人事件と放火の犯人だった。すると、マックの背後に突然、真上から二つの人影が降りてきてさらにマックは「ひぃッ」と怯えた。先程、屋根を伝って頭上からマックを追っていた人影だ。その容姿は、鎖鎌の男と同じ、フード、仮面、黒装束。だが、二人のうち一人は二メートルを超す身長にがっしりとした筋肉の大男。こちらは武器のようなものを持っていないが、よく見れば握り締めたその拳にはナックルのようなものが付いていて、あれで殴られれば相当なダメージを食らいそうだ。
もう一人は、鎖鎌の男よりも背が高く、細身な体つきであることが、体にわりとフィットした黒い戦闘服のおかげでわかる。その腰にはなんと、ジャポンの刀が下げられていた。
パッと見て、三人とも男のように見える。これで、マックは三人の仮面の男達に囲まれ、逃げ場を失った。泣き叫ぶマックに対し、大男と刀の男が冷たい言葉を投げかけた。
「…お前に殺された被害者もお前にそうして命乞いをしたんだろ?それをお前は金目的のためだけに殺した」
「我らは貴様のような罪を問われなかった罪人を裁く…覚悟せよ」
「てっ、てめぇら、『
番人』だな!?お、俺なんかよりもっと凶悪犯がいるだろうがぁあ!!」
半ばやけくそのようにマックは当たり散らし、懐から銃を抜こうとした。追っ手の正体も、自分がこれからどうなるのかもわかっていたからこそ最後まで抵抗する。だが、その腕に激痛が走る。刀の男が素早く抜刀し、マックの手を刺していたのだ。
「ぎゃああああっ!!」
「…安心しろ。貴様以外の犯罪者も同じように裁くだけだ。貴様のような罪人がいるからこそ、世界は汚れていく。…消えろ」
「い、嫌だぁぁぁああ!!」
男は一際大きく叫ぶ。しかし、次の瞬間には大男がその首を掴み、路地裏の壁に押し付けるともう片方の握り拳を振りかざす。
耳障りな嫌な音が響き、男の手から力が抜け、だらんと人形のように垂れ下がる。それを確認すると、鎖鎌の男は鎖を軽く引っ張ると、一瞬でマックの足から鎖が解けた。
大男が手を離し、マックをゴミのように地面に叩きつける。大量の血が頭部から流れた。その腕力の強さは人間とは思えないほど。
だが、それでもマックは生きている。小さく呻き、虫の声だったが。大男がとどめを刺そうとした時、ふと頭上を見上げ、他の二人もそれに倣った。
−−相変わらず満月と星が美しい。だが、その満月を背にして誰かが屋根に立ち、三人の仮面の男達を見下ろしている。その人物もまた、彼らと同じ服装をしていた。しかし、首元に黒いマフラーをしていて、胸板が厚く鳩胸気味。胸元に防護服か、胸当てを当てているようだ。風にマフラーが靡き、他の三人と比べてミステリアスな雰囲気を醸し出している。
その人物がそっと右手を掲げ…あたりに一瞬、紫色の光が溢れ出したかと思うと、しばらくするとその光は消えた。
そして同時に…マックは息絶えていた。何が起きたのかは、その四人だけしかわからなかった。何らかの方法で…マックはとどめを刺されたのだ。
「終わったな。さすがだぜ」
「逃げ回るのだけは上手かったようだが、所詮俺達の敵ではないさ」
鎖鎌の男が二人の仲間に近寄っていき、マックの死体を見下ろす。大男は腰から布を取り出すと、ハンカチのようにして自分の血濡れた拳を拭きながら呟いた。
鎖鎌の男が頭上にいるもう一人の人物に向かい、合図をするように手を振った。それを見て、マフラーの人物は小さく頷くと三人は素早い動きで路地裏の壁を駆け上がる。まるでジャポンにいるという忍者のような動きだったが、三人は慣れたように壁を登り、屋根まで上がるとそのマフラーの人物の側に行き、合流した。
こうして四人が揃って初めてわかったが、マフラーの人物は鎖鎌の男よりも僅かに背が低い。そして四人は屋根を伝い、どこかへ消え去っていった。残されたのは罪を逃れた凶悪犯マック・ドーストの死体だけ…。
********************************
所変わって、ここはジャポンの首都キョウにある、能力統制情報管理協会トリニティ・クラウン−−通称クラウンの本部。百階建ての和風の塔の九十九階。幹部の執務室がある階層だ。
その階層の一つの部屋、「副司令執務室」と書かれた金のプレートが下げられた扉の奥、まさにクラウンの副司令である一人の男がデスクを前にしてひたすら書類に羽ペンを走らせている。
「ったく…いつまで経っても終わらねえじゃねえか…あいつら、溜め込んでやがったな…」
ブツブツと呟きながら書類に何かを書き込んでいるこの男はクラウンの副司令、陣川冬一。
クラウンの司令、陣川鼎の実兄であり、曲がりなりにも「世界最強の剣士」とまで呼ばれる男だ。ダークブラウンの癖毛に整った顔付き、女性から度々セクシーと言われる顎髭。そして普段はクラウン幹部の黒い上着と
外套に身を包んでいてわかりづらいが、筋肉質な体つきで、体術においても一流だ。
彼は所謂、世間一般的に言う「色男」だった。ワイルドなイケメンと評判で、クラウンの女性隊員は勿論、キョウの街の若い娘から奥様方まで、多くの女性は冬一に惚れてしまいがちだ。だが、彼はけして恋人は作らないし、浮いた話もない。
どんなに美人な女性だろうと男性同様に接し、敵であれば容赦なく斬る。そういった要素がさらに彼を「女嫌い」のイメージにしてしまったのだが。
その容姿とわりとドライな性格ゆえ、彼は少年時代から女性に言い寄られてきた。ところが「ある一件」がきっかけで、彼は完全に女嫌いになってしまった。今でこそ、大人であるため、恋愛を絡めない女性であれば普通に接することができるが…。
そんな色男、冬一は現在、デスクの上に広がる書類の山と格闘していた。これは全て、クラウンの隊員達から上がった重要書類だ。世界各地の体質者の動きや、起きた事件・事故の調査報告から、武器や道具の購入許可に至るまで、幹部のいずれかがチェックをしてサインをしなければいけない書類が山のように冬一に押し寄せている。
本来であれば、他の幹部が担当するものもあるが、現在クラウンは他の幹部が出払っていて人手不足。そのため、ナンバー2である冬一が次々と書類に目を通して許可のサインをしなければいけなかった。
(それにしても量が多くねえか…鼎とガイストの方にも回ってんだろう…が…)
そこでハッと冬一は何かを感じる。まさか、と思い、冬一は慌てて部屋を飛び出し、廊下に出ると、隣の部屋の扉をノックもせずに勢いよく開けた。そこは冬一の執務室とほぼ変わらない内装だったが、誰もいない。
「!鼎のヤツ!またサボリかっ…!……サボリ、だよな……」
呆れと怒りが混じった声で呟くが、最後の方はどこか心配の色が増えていくような声だった。部屋を飛び出した冬一は少し焦った様子で早歩きになり、どこかへ向かって歩き出す。
すれ違うクラウンの隊員達が普段と違う様子の冬一に驚きながらそれを見ていたが、そのうち、一人の若い男性隊員が彼に話しかける。
「あ、あの、副司令。もしかして司令をお探しですか?」
「ああ、そうだよ!アイツ、この時間は執務室にいるはずだったんだが…サボリだといいんだけどよ……姿が見えねえと…」
「司令でしたら…先程、総隊長と中庭にいらっしゃいましたが」
「はぁ!?ガイストと!?揃ってかよ!ったく…!」
男性隊員から鼎の居場所を聞き、驚きと共にガイストといるということがわかって安心したように冬一の表情は落ち着いた。先程までの焦りは消えたようだ。
「とにかく…俺も中庭に行って連れ戻してくる。…教えてくれてありがとな」
「いいえ。行ってらっしゃいませ」
男性隊員に礼を言うと、冬一はエレベーターに向かって走り出した。そんな様子を呆然と見送るまわりの隊員達。そして、鼎の居場所を報告した男性隊員に若い女性隊員が近付いて話しかけた。
「あの…先輩。私、クラウンに入ってまだ間も無いんですけど…副司令のあんな焦った顔、初めて見ました。焦り顔もカッコイイですね!」
「あぁー…君もそういうクチかぁ。無理無理、副司令は諦めなって」
「えぇ?どうしてですかぁ…」
新人の女性隊員は不満げに男性隊員に詰め寄る。そんな様子に苦笑いしながら彼は続けた。
「今の見ただろ?副司令はさぁ…妹である司令が第一なんだから」
「えぇ!?それって…シスコンってことですかぁあ!?あの副司令が?」
「そうそう。クラウンじゃ有名だからさ。副司令は、例えクラウン本部の中であろうと、司令がどこにいるのか、ちゃんと把握しておきたいんだ。ま、司令は面倒臭がってるけどな」
「うそぉ…副司令がそんなシスコンだなんて…何だかちょっとギャップがすごいです」
唖然とする女性隊員。彼女をはじめ、女性達の中では「クールでワイルドでカッコイイ副司令」の図が出来上がっているので、だいたい冬一の素を知ると驚く。
「でもさ…それは訳ありだからなんだと。…シスコンになるのも当然ってくらい、色々あったみたいだぜ。過去に」
「過去に…?確か司令と副司令って神クラス…ですよね?」
「ああ。ああ見えて実年齢は百五十歳を超えてるってさ」
「さ、さすが神クラスですね…」
神精から認められ、力を借りることのできる存在、神クラス。司令の鼎と副司令の冬一が神クラスであることはクラウンの隊員であれば誰もが知っていた。それが、クラウンという組織の長としての実力でもある。神精から力を借りられる人間が統べる組織という言葉だけでもその凄さが窺い知れた。
「ってことは先輩。副司令が司令に対してあんなにシスコンになったのは…私達が生まれるずっと前、お二人がまだ神クラスになる前とかに何かあったってことですか?」
「そういうことらしいぜ。ま、俺も詳しくは知らないんだ。知ってるのは幹部の人達だけってさ」
「へえー……」
男性隊員の言葉を聞いて女性隊員は顎に手を当てて考え込む。あのイケメン副司令には人にはわからない何かがあった。
それが結果として現在のシスコンになったというのは興味深いが、そこまでは追求できない。だが、現在の冬一がカッコイイということは変わらないと思い直すことにしたのだった。
冬一は一階にある中庭へ向かい、早速その姿を発見した。中庭には東屋があり、そこには探していた妹、鼎と、彼女の恋人で冬一自身の相棒であるガイストが座りながらみたらし団子を頬張っていた。仕事中に抜け出して良いご身分だと冬一は溜め息をつき、声をかける。
「オイ、そこのサボり組!」
「!わっ、兄さん。見つかっちゃった?」
「よう、冬一」
驚きながらも余裕な態度の鼎と、全くの余裕なガイスト。今までに何度もこういうことはあった。クラウン自体がそこまで厳しい規則の組織でないのは、指令である鼎がわりとルーズなタイプだったからかもしれない。冬一も組織として厳しくするつもりはなく、ただ単に妹が心配だからこそ鼎を探していたのだ。
「お前ら…揃って職務放棄かよ」
「あはは、ごめんごめん。ちょっと息抜きだよ。いやぁ、司令の判子が必要な書類が山のようにあってさぁ…大丈夫、すぐ戻るよ」
「だからってな、俺に何も言わずに抜け出すなよな。どこ行ってるかわかんねえと、何かあったら大変だぞ」
「シスコンが過ぎるぜ、冬一。ここはクラウンの本拠地だし、鼎自身の強さはお前もわかってるだろ」
「そりゃあ、わかってるさ。…けどな、俺はお前の兄貴だ。妹を心配するのは当然だろうが…」
「兄さん…」
冬一の言葉は段々と、どこか悲しそうになったのを感じて鼎は冬一の顔を見る。鼎の外見年齢は二十八歳…神クラスとなった時の年齢のまま、変わっていない。
そして、兄の冬一もまた三十四歳から容姿は変わらないまま。兄妹は六歳ほど年が離れている。昔から冬一は
鼎のために生きてきた。文字通り、鼎のためだけに。
「…わかってるよ、兄さん。ごめんね、勝手に抜けてきて。ちゃんと戻るから、安心してよ」
「……ああ、…俺も悪かったな。ちゃんと誰かと一緒にいてくれればいいんだ。ガイスト、執務室までちゃんと連れ帰ってくれよ」
「ああ。ま、いちゃついてから帰るぜ」
「兄貴の前でよく言えるな」
ジロリと睨まれてガイストはやれやれと肩を竦めた。昔からこの男のシスコンには慣れている。冬一は一安心したような表情で背を向け、中庭を出て自分の執務室に戻ることにした。
その背中を見つめる鼎とガイスト。
「…アイツの『アレ』にも困ったもんだぜ」
「しょうがないよ。兄さんは…本当に優しいだけなんだから」
少し暗い声で鼎は視線を自分の膝に落とす。
「アタシね…兄さんにはもうアタシを守ってくれるのを止めてほしい。兄さんはいつもアタシの無事を願って幸せを与えようとしてくれてる。戦えるようになった今でも子供扱いして…。ガイストと出会わせてくれたのも、兄さんのおかげだしね。でもアタシは…兄さんには自分自身の幸せを見つけてほしい」
「鼎…」
「普通の人みたいに、素敵な女の人と出会って、恋をして…自分の幸せを手に入れてほしいんだ。…それがアタシの願い」
兄は妹のために全てを尽くし、妹は兄自身の幸せを願う。ガイストはそんな兄妹をずっと側で見てきた。
(冬一のヤツが鼎をここまで心配する理由は……やはり過去のアレが原因…か)
ガイストも知る、陣川兄妹のルーツ。それは今から百年以上前の、現在地であるジャポンに遡る。それは幼い兄妹を襲ったある事件が原因だった。
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クラウン本部がある街キョウから遠く離れた港町アオミ。古くから漁港として栄える他、当時は船の出入りも多く、活発な街として知られていた。新鮮な魚介が豊富に捕れ、街には漁師とその家族が多く住んでいたが、その漁師にとって命とも言える船を造る造船所も街の中にあった。その造船所で造られる船は芸術品と呼ばれるほど美しく、頑丈で荘厳。中でもピカ一の技術を持つとされる造船技師がいた。
その名は、
陣川一孝。寡黙で無表情、口より腕ばかり動かすといったまさに職人そのものという気質の男で、多くは語らないが周りからは尊敬されていた人物だ。
そんな一孝を父に持つ一人の少年が、港町唯一の寺子屋−−つまり学校の校庭にいた。校門にもたれかかりながら古い本を読んで、誰かを待っているような彼。ジャポンでは普段着である、落ち着いた紺色の袴姿に黒い学帽を目深に被っている。
陣川冬一、この時十一歳。まだあどけない子供だったが、年齢の割には大人びており、成績優秀、運動神経抜群。だが、それを鼻にかけない態度で男子からも女子からも人気があった。
そんな冬一少年に可愛らしい声がかかり、彼は視線を本から外す。
「お兄ちゃん!」
「!…よう、鼎。どうだ、いい本は借りれたか?」
「うん!あのねあのね、アロの遺跡の本と!ジャポンの歴史の本!すごーいの!お兄ちゃん、ジャポンは昔、おサムライさんがたーくさん戦ってたんだよ!」
「へえ、そりゃあすごい」
冬一に駆け寄ってきた花柄の着物を着た幼い少女。冬一と同じ色の髪を頭の両サイドで二つ結びにして万遍の笑みを浮かべながら幾つかの本を入れた手提げ鞄を抱え込むようにしている。
冬一の妹、陣川鼎。まだ五歳だ。生まれながらに
予言の体質者だが、現時点では能力はあまり使いこなせていない。
実は鼎は幼い頃から天才少女として、まわりでは有名だった。彼女は幼い子供であるにも関わらず兄と同じように頭が良く、既に十五歳程度の少年少女が解くような計算式をあっさりと正解し、現在では考古学や世界史について興味を示している。今日も、授業終わりに寺子屋に隣接する街の図書館に行って歴史書を借りてきたらしく、嬉しそうだ。
ジャポンでは寺子屋は六歳から通うことができるが、勉強熱心で自ら勉学をしたがる鼎は特別措置として五歳の時点で寺子屋に出入りしていた。それがわかった時、鼎は飛び上がるほど喜んでいたのを冬一は覚えている。
今、鼎は大好きな戦国時代のことを嬉々として冬一に語りかけ、彼は勿論そんなことは知っているがあえて初めて聞いたように振る舞うなど、とても優しく接した。近所でも妹思いの兄と評判ではあったが、この時はまだ普通の兄妹レベルの優しさではあった。
冬一は小さな鼎の手を取って二人で帰路につく。自宅は寺子屋から歩いて五分もかからない。いつも冬一は鼎と一緒に寺子屋から帰っていた。それは彼にとって当たり前の習慣である。
「鼎、今日はどんな勉強をしたんだ?」
「えっとね!算数!でも簡単でつまんない…」
「そう言うなよ。本来、お前の年じゃまだ早い勉強なんだぜ。それに昔解いた問題でも復習するってのは大事なことだ」
「むー」
ぷくっと頬を膨らませる鼎に思わず吹き出す冬一。鼎の無邪気なところは母親に似ていた。逆に、冬一の落ち着いた性格は父親に似ている。
兄妹は笑い合い、他愛の無い会話をしながら歩き、やがて自宅に到着した。陣川家は和風で木造の一般的なジャポン家屋。レトロモダンな雰囲気を持っているが、さして豪華という訳でも貧相という訳でも無いが、どこか温かな雰囲気を醸し出していた。
「ただいまぁー!お母さーん!!おやつー!」
「はいはい、帰ったら手洗いうがい!」
思いきり玄関を開けた鼎の視線の先には少し恰幅の良い女性が洗濯物を畳んでいた。冬一と鼎の母、
陣川楓だ。落ち着いた赤い着物に割烹着を着た、純和風の母を絵に描いたような服装の女性。帰るなり、元気すぎる娘に対し、楓は呆れたように笑った。鼎の後から冬一も玄関に入り、靴を脱ぎ、居間に向かう。
「ただいま、お袋。親父はまだ仕事か?」
「おかえりんさい。今日は早く帰ってくるって言っとったよ」
「そうか。だったら、昨日作った帯留めの出来を見てもらいたいな」
冬一は造船技師の父親譲りで、非常に手先が器用だった。父の一孝自身もそうなのだが、彼らは細かいものは何でも自分自身で作ってしまうし、修理もしてしまう。
現在、冬一はちょっとした金属の帯留めを自作していた。まだ途中ではあるが、子供の出来とは思えないほどの細かな装飾である。今までに何個かそういった細かなものを作ってきたが、驚くことに冬一は一孝から作り方を教わった訳ではなく、自分自身で考えて自発的に作り始めたのだ。それを見た一孝から、ちょっとした技法こそ教えてもらったが、ほとんど冬一の自作だ。
作ったことに特に目的があった訳ではないが、一孝に出来栄えを見てもらい、認められたら楓や鼎に贈ろうとぼんやり考えていた。正直なところ、趣味の一つであると同時に父親に褒められたいと思う子供心でもある。
「お兄ちゃんの作る飾り細工、とってもきれいだから大好き!」
「ほんと、アンタは父さんに似て手先が器用ねえ」
女性陣はにこにこと笑っている。冬一は少し気恥ずかしそうに被っていた学帽を脱いだ。
平和な日常。立派な職人である父と、明るい母、頭が良く可愛い妹がいる。それが冬一にとっての当たり前の生活だった。
そうしているうちに夕方で仕事を終えた父、一孝が帰ってきた。その頃には楓が夕食の準備を済ませており、冬一と鼎も風呂に入った後で浴衣でのんびり過ごしていた。
「ただいま」
「おかえりんさいー」
「おかえり」
「おかえりー!お父さーん!」
小さな鼎は浴衣姿で駆け出し、玄関で靴を脱ぐ一孝の足に抱きつく。その姿はまるで小動物のようで、一孝は小さく微笑んで鼎を抱え上げると一緒に居間に入ってきた。
「鼎、今日はちゃんと本を借りてきたか?」
「うん!歴史の本!」
「そうか」
言葉数は少ないが、一孝は父として娘の言葉に耳を傾け、どことなく嬉しそうだ。
「親父、あとで帯留めの出来を見てくれよ」
「うむ。お前はよく頑張っているな」
その父の言葉に冬一は頬を染める。いくら大人びていてもまだ子供。父親に褒められるのは嬉しいのだ。
そして一時間ほど過ぎ、家族は夕食の席につく。本日の夕食は焼き鮭に納豆ご飯、味噌汁。一般的なジャポンの食事だが、陣川家は全員好物だった。鼎は嬉しそうにもりもりと納豆ご飯をかき込み、冬一も箸の進みが早い。そんな子供たちを見て笑った楓は思い出したように一孝に話しかけた。
「ところであなた、もうすぐ大きな船が出来るって言ってたけど、そろそろ完成しそう?」
「ああ。あと一週間以内には着水式も出来るだろう」
「そしたらアタシ達も観に行こー!」
一孝が造っている船がもうすぐ完成する。現在、手掛けているのは大きな軍艦だという。一孝が造る船が完成すると、冬一と鼎は楓と一緒に着水式を必ず観に行った。父の作った船が海へ出て行くのを見るのは本当に誇らしかったのだ。
「親父の造った船、早く見たいな」
「冬一は将来、お父さんみたいな造船技師になりたいの?手先も器用だし」
「うーん…将来の夢、かぁ」
楓に言われて冬一は考え込む。まだ十一歳の彼は将来、自分がなりたいものを考えていなかった。確かに父と同じ技師になるのも悪く無い。だが、まだはっきりと決められない。勿論、まだ子供だ。考える時間はたっぷりある。
「無理にすぐ決めなくてもいい。お前の未来はお前が決めることだ」
「……ああ」
一孝の言葉に冬一は頷いた。そんな父と兄の姿に鼎もにぱっと笑って見る。
その日の夜。兄妹共同の子供部屋で冬一と鼎は畳の上に布団を並べて眠っていた。窓から月明かりが漏れ、幼い兄妹の寝顔を照らす。鼎は布団から大きくはみ出て布団を投げ出し、口を大きく開けて寝ていた。その隣で冬一は大人しく布団の中で静かに眠る。
「…ん…」
そんな中で冬一は顔を歪める。何かおかしな匂いを感じて冬一はうっすらと目を覚ました。子供部屋の中に特に違和感は無い。隣を見れば鼎が大口を開けて寝ている。しかし、その異変の正体はすぐわかった。
−−焦げ臭い。
(まさか…この匂い……火事…!?)
ハッとして起き上がり、急いで鼎を起こす冬一。
「起きろ!鼎!起きるんだ!!火事だ!逃げるぞ!!」
「…んー……うぅん…」
まだ寝ぼけた様子でボケッとしている鼎を半ば抱え込むようにして冬一は子供部屋の襖を開けた。開けた瞬間、煙が子供部屋の中に入ってきた。物凄い煙。煙のせいで息苦しい。火元は別の部屋らしいが、モタモタしているとここも危ない。
「ぐっ……ゴホッ、ゴホッ…」
「ケホンッ、ケホッ。おにいちゃ……苦しいよぉ…」
「鼎、煙を吸うな!クソッ…親父!お袋!どこだぁ!!」
突然の事態に脳が追い付かない。何故、火事が起きている?そして何よりも。父と母はどこに。早く見つけて一緒に逃げなくては。冬一は鼎を抱えたまま廊下を走り、父と母の寝室へ向かった。襖を開けると、そこには……信じられない光景が広がっていた。
−−燃え盛る炎に囲まれ、うつ伏せに倒れる一孝と楓。その背中には何かで刺されたような傷と広がる血の海。冬一は目を見開いて立ち尽くす。炎の熱さも気にならなかった。
(な……にが…起きて、いる…?何が……一体、何が…起きてんだ…?親父と、お袋は……どう、なって…いる…?)
腕に抱えている鼎も倒れた両親を見てしまう。しかし、幼さと、炎の勢いの強さで何が起きているかわかっていないようだった。ただ、そこに両親がいる、としか。
「おや、じ…………おふく、ろ……」
「おとう…さん…?…おにい、ちゃん…ねぇ…お父さんとお母さん…寝てるの…?」
「っ…なんで…なんで!!!」
鼎の問いに答えられなかった。冬一にわかるのは、もう両親が…明らかに死んでいるということだけ。同時に頭の隅で冷静な考えも浮かんだ。
両親は火事で死んだのでは無い。背中を何か鋭利なもので刺されている。誰かに…殺された?その犯人が家に火を付けたのか?一体、誰が。
夕方までの幸せな生活が一瞬で奪われた。何者かに。今の冬一に残っているのは………。
(鼎を…守らなきゃならねえ…!早く…火事に巻き込まれる前に…!)
冬一がぐっと鼎を抱え直し、しばらく考えてから両親の寝室から走り出す。逃げなくては。逃げなくてはいけない。もう二度と両親の顔を見ることができないのに、悲しくて悔しくて辛いのに、今の冬一は鼎を守るという使命で動かなければならない。まだ十一歳だというのに、あまりにも残酷な使命。
「…ッ!」
炎が侵食していく部屋から逃げ出す。あれ以上見ていたら両親の体が炎に包まれるのを見てしまいそうだった。涙を流しながら冬一は鼎を抱え、とにかく走る。炎が迫る中、冬一は鼎と一緒に家から転がり出た。
「お兄ちゃん!」
「鼎、無事かっ…」
「お父さんと、お母さんは…?」
「……もうっ…いない、んだ…!」
見上げた家は…赤々と燃え上がり、自分達が育った場所が失われていく。美しい夜空に炎に包まれた家は妙に映えて、何故か美しささえ醸し出す。冬一は膝から崩れ落ち、座り込んでしまった。その腕の中の鼎は冬一を見上げ、目を潤ませている。両親の死をぼんやりと理解し始めたのだろう。だが、彼女は泣かなかった。自分よりも先に激しく、兄が泣いていたから。
「っ…うぅっ………俺は…俺はっ……うぁぁぁあああっ…!!!」
「……お兄ちゃん…」
「………誰が、親父と…お袋をっ……俺は…これから…どうしたら…」
ひたすらに泣き続ける冬一を見上げ、鼎はそっとその頬に触れた。
「……お兄ちゃん。アタシが、いるよ…」
「…!鼎……!」
「アタシがいるから……お兄ちゃん…」
「っ………鼎……鼎っ…!」
もう冬一に残されたのは鼎だけ。両親を殺した犯人が誰なのか、とか。何が原因だったんだ、とか。もうそんなことよりも、今は、今は。
鼎を強く抱きしめることしかできなかった。それと共に、しとしとと雨が降ってくる。この状況に相応しく無い、優しい雨だった。
−−その日、冬一と鼎の目に強く残ったのは…紅の雨。燃える我が家と、そこに降る雨のコントラストが幼い兄妹の目に映った。あの日から…二人の運命は大きく変わった。
何者かによって突然、両親を殺され、兄妹二人になった。その後、彼らはとある人物に保護され、その人物によってクラウンへと導かれ、神クラスとして長い時を生きることになるが…。
********************************
「…ん。…やべぇ、寝てたのか…」
冬一は自分の執務室のソファーで目を覚ます。古い夢を見ていたようだ。随分と古い記憶…。
(そういえば俺…鼎達と中庭で会ってから自分の執務室に戻って…そのまま寝ちまったのか)
ソファーから体を起こし、頭を掻く冬一。…あれから長い時を生き、ガイストをはじめとした色々な人々と出会い、そして妹と同じ体質者を守る戦いに身を投じてきた。常に妹を守ることを優先し、妹の幸せを考えてきた。例え、妹自身にどんなに煩わしく扱われても、それでも。冬一にとっては、鼎が最も大事な存在だった。
クラウンに入って、ガイストと出会い、彼になら鼎を任せられると二人の仲を認めたものの、それでも兄としての心配は尽きない。だが鼎が、冬一に自分自身の幸せを手に入れて欲しいと願っている思いは知りもしなかった。
「ふぁあ……一時間くらい寝てたかよ…俺自身がサボったみたいじゃねえか。書類、片付けねえと…」
立ち上がり、背伸びをした冬一はデスクへ戻る。相変わらず隊員からの書類の山が積まれていた。
「さて、と………ん?こいつぁ…」
冬一がサインをしようとした書類を見て手を止めた。それは遊撃部隊からの現地連絡報告書だった。遊撃部隊は世界各地で体質者関連の事件や事故が起きていないかを見回る専門部隊。その遊撃部隊隊員から報告書が上がってきていた。
「…殺し屋組織による暗殺事件?…狙われるのは毎回、指名手配犯や裁判で無罪になったり、逮捕されずにいた犯罪者ばかり…『罪人のみを狙う殺し屋』…。ここ五年間で被害が出てるらしいが…全世界で暗殺事件が続出…正体・人数不明、手口は毎回似ていて、類似の事件はおそらくすべてが同じ集団による犯行…か。わりとでけぇ組織なのか?…………!その中に…体質者がいるってことか」
報告書によると、ここ数年で殺し屋組織が暗躍しているらしい。殺されるのは毎回必ず犯罪者。報告書にさらに記載されていた目撃情報によると、黒装束を纏った数人の人物らしい。素顔や正体は謎に包まれており、つい三日前にも貴族の多く住む国ミュゼールで殺人事件が起きた。殺されたのはまたもや犯罪者。そして今回、彼らがターゲットを殺した現場から体質者の痕跡が発見されたことで遊撃部隊が報告してきたのだ。
「体質者が混じってる殺し屋ってのは面倒臭いな…能力を使って殺しをしてるのは見過ごせねえが…」
小さく呟いていると、突然静かな部屋にノックが響く。
「!入れ」
「失礼します。副司令…」
冬一が書類から目を離し、ドアを見る。入ってきたのは遊撃部隊の男性隊員だった。
「どうした」
「先程、ミュゼールから帰還致しました。先日、ミュゼールで起きた殺し屋組織による暗殺事件についてですが…」
「ああ、ちょうど今、報告書を見ていた。これ、お前が書いたやつか」
「!そうでしたか。その通りでございます。その報告書は私が上げました」
「体質者がいるっていう殺し屋組織だな。ここまで話が大きくなると、特務部隊案件だな」
「はい。私もそう考えております。ただ、先程、一通の手紙が届いたのです。この事件に関わることでして…」
「手紙?」
冬一は聞き返す。クラウンには世界各地から直接、体質者絡みの事件や相談などが依頼として手紙や面談などで相談されることがあった。
「差出人はミュゼールの上級貴族なのですが、内容がまさにその殺し屋組織についてなのです」
「ミュゼール…最新の事件と同じ国だな。で、手紙にはなんて書いてあったんだ」
「差出人のご息女がその殺し屋組織に狙われているというのです。何でも、殺人事件が起きた次の日に脅迫状が届いたらしく…『娘を頂く』といった内容だそうです」
「脅迫状だと?殺しの犯人がわざわざ貴族の令嬢を狙うってのか…」
なんだか話がおかしい。殺人犯が、貴族の令嬢を誘拐するというのは不思議な話だ。だいたい、殺人犯というのは人の命を奪う事が目的であることが多い。勿論、誘拐や強盗をする殺人犯もいるが、今回の犯人は世界的に犯罪者だけを狙って殺すことを続けている集団。そんな者達が貴族の令嬢をさらって何になるのか。しかし、脅迫状が届き、こうしてクラウンに助けを求めている以上、無視はできない。
「とりあえず、事が事だけに直接会って話をしたいとのことでした」
「そうか。やっぱり特務に出張ってもらった方が早いな。…よし、ロギアを向かわせよう。お前は情報をロギアの
小型電素通信機に送っておいてくれ」
「かしこまりました」
頭を下げて男性隊員は下がっていく。オズボーンファミリーに滞在しているロギアに連絡してこの殺し屋の逮捕を任せようと冬一は考えた。おそらくオズボーンファミリーも協力してくれるだろう。殺し屋組織の人数もはっきりとわからない今、もし相手が大人数だった場合に備えてロギアとオズボーンファミリーを合わせて向かってくれると良い。
まあ、殺し屋組織が何人いようとロギアであればすぐ解決するだろう。
「…それにしても…ミュゼール、か…」
ふと、思った。その殺し屋組織が目撃されたのがミュゼールというのが冬一自身の中で引っかかる。冬一にとってミュゼールといえば、ある事件が頭をよぎるからだ。クラウンに入隊してから様々な事件や事故を経験してきたが、その中でも冬一が解決できなかったある事件。その現場がミュゼールの貴族の家だったのだ。未だに情報を探しているが、何も手がかりを得られない未解決事件。
「……あの事件と、何も関係無いとは思うが……」
とりあえず冬一は立ち上がり、ロギアに連絡を取ることにした。そして、この時から陣川冬一の人生が再び大きく動き出す。
妹を守るためだけに生きてきた彼の心に刻まれていた紅の雨の情景が、
常夜の闇へと移り変わっていく。
28.紅炎レイン
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