〈ダン視点〉
ふと、夜に目が覚めた。瞼を開ければ、見慣れた自室の天井と灯りの灯っていないシャンデリア。窓からは月明かりが差し込んで部屋全体が青みがかって見える。掛け時計を見ると、午前一時を過ぎた頃。
「……ハァ」
何故か無意識に溜息が出る。オズボーンファミリー達が転移術で逃げてから一日が過ぎた。お父様は追跡せず、今は決戦に備えて準備をしておくように、とだけ言ったけど…。
「…あの男…一体何なのよ…」
あれから私の頭にはあの男の存在がちらついていた。クラウンの副司令…陣川冬一。人質になっていたオズボーンファミリー達を助けに来たあの男…。私を見てすごく驚いて…昔の私を知っているようだった。「ずっと探していた」って言われて、あの時の私もさすがに動揺したけど…。けど、私自身はあの男を知らない。もし、以前に会っていたのだとしたら…もしかしたら彼は…
あの事件よりももっと前に出会っていた人だとしたら…。
ベッドから起き上がり、部屋の中にある姿見の前に立つ。お父様が買い与えてくれた黒いシルクのネグリジェを着た私。胸には紅色の宝石のペンダント…ローズダイヤが月明かりを受けて光り輝いている。これは死んだ両親が遺したエヴリコット家の家宝。両親の死後、お父様が私の為に保護するように手配してくれた遺品の中の一つ。今のお父様のもとで暮らし始め、このペンダントを受け取った日から肌身離さずに身に付けている。その輝きは、かつてお母様の首に下がっていた時から全く色褪せない。
「……お父様…お母様…」
ふと、過去に想いを馳せながら、改めて自分の姿を鏡越しに見つめた。袖のないネグリジェ越しにでもはっきりとわかる、男を惑わせる私の体…。何もかもが…。
……なんて汚い。
「…っ」
突然脳裏に
あの光景がフラッシュバックして、思わず姿見から目を逸らした。
その時。窓の方からコツンコツン、という音が聞こえてそっちを見る。窓の向こうのバルコニーに小さな黒い影が居る。よく見るとそれは…。
「…カラス?」
どう見ても普通の黒いカラスだわ…。けど、そのカラスは器用にクチバシで大きな窓ガラスをコツンコツン、と突いている。それも、何度か私の方を見ているから、私に向けて行なっている行動なんだと思う。カラスは頭がいいというけど…。
私は若干警戒しつつ、窓扉を開けると、カラスはひょいっと一歩後ろに下がり、私を見上げた。
「!これは…」
カラスの羽の合間に白い小さなメッセージカードのようなものが挟まっている。手を触れようとしてもカラスは攻撃もしてこないで大人しいまま。この人馴れした感じ…多分、このカラスは誰か、人に飼われているのね。そして主人はこのメッセージカードを送ってきた人物…。私はメッセージカードをそっとカラスの羽から取り、裏を見る。そこには手書きで私宛のメッセージが添えられていた。
−−このメッセージを見たらすぐに裏街にあるバー「エデン」へ来てほしい。
たったそれだけの…なんて簡単なメッセージ。けれど、私はすぐに送り主がわかった。
陣川冬一…あの男に違いない。このカラスは彼からのメッセージを届ける使いだったのね。…私もずっと彼と話をしたいと思っていた。いい機会かもしれない。ただ、お父様の様子を見ると、私が彼と話をすることを嫌がっていたように見えた…。それに一応、彼とは敵同士だもの。本当なら決着の戦いの時まで会うはずがない二人…。
でも…恐らく戦いになったら彼の話を聞くことは出来なくなる。だって私達が必ず勝つから…。だったら、その前に話だけを聞いておきたい。
すると、メッセージカードを読んだのを確認したカラスがバサッと翼を広げて夜の街へ飛び去っていく。一応、辺りを見渡すけど、勿論あの男の姿はない。遠くからカラスを使ったんだと思うけど…。深夜の貴族街は街灯だけが光り、屋敷の数々は真っ暗。人々は皆寝ている時間…お父様もチェーン達も同じ。番人としての仕事がある時は起きているし、いつだって出られるように待機はしているけど…お父様の待機命令が出ている以上、しばらくは仕事もない。抜け出すことはできるわ。
私はクローゼットから普段着の紫のコルセットとドレス、それに外出用のワイン色の
長外套を取り出し、急いで着替える。この
長外套はフード付きで、夜の闇に紛れれば顔も隠せる。誰かに見られても私だとはわからないはず。勿論、首に下げたローズダイヤのペンダントはそのまま付けていく。
「…あなたは一体何者なの…陣川冬一…」
私はバルコニーに出て、目の前にそびえる大きな木の枝に向かって助走をつけて飛び出す。いくら二階とはいえ、普通だったら転落してもおかしくない高さけど、今までに何度もこの方法で屋敷を抜け出しているから全然怖くなんてない。いつも通りに木の枝に手をかけて一回転しながら木の枝に着地すると、そのまま幹を伝ってステップを踏むように足場にしながら地面に着地する。そのまま足音を立てずに、けれど素早く走って屋敷を出ていく。
ミュゼールの裏街は夜になればなるほど人が多くなる。貴族街とは対照的に酒場や娼館も多くあって、治安はいいとは言えない。ミュゼールは華やかな貴族の国だと思っている外国人も多いけど、実際はこういう裏側の世界もある。
「よぅ、姉ちゃん。俺と遊ばねえか~?」
「げへへ…いい体だぜ」
裏街へ来るとこういうのが面倒なのよね。酒を煽るように飲んで酔った男達の視線と下衆な発言。ま、慣れてるからいいけど…。それに仕事で役に立つこともあるし。今はそれどころじゃないから無視することにした。
…と思っていると、目の前を突然男に塞がれる。褐色肌に黒いサングラスをかけた、ごつい大男。カルメンよりは屈強ではないわね。
「よう、姉ちゃん。一人でこんなとこに来たら危ねえだろ?」
「…退いてくれる?今はあなたみたいな男に構ってる暇はないわ」
「んだと…」
明らかに苛立った態度の男は私の腕を掴んでくる。
「こっち来やがれ!どうせお前も期待してここに来たんだろうが!」
ハァ。本当に面倒だわ。この男は私を路地裏へ連れ込みたいみたいだけど、そう簡単にやらせる訳ないじゃない。周りに人は居るけど、誰一人助けようとしない。裏街はそういうことが日常茶飯事に起きていることだもの。こうなったら叩きのめすしかないわね…。私が男を蹴り上げようとした時…。
「ぐぁッ!?」
「!」
私が男を蹴り飛ばす前に、目の前の男が吹っ飛んで私の腕から手が離れた。その衝撃で私の被っていたフードが飛ばされ、視界が開ける。さすがに、周りの人間も驚いていたけど、私は目の前で男を殴り飛ばした人物に目を奪われていた。
「陣川…冬一…!」
「走るぞ!」
そこに立っていたのは待ち合わせていた陣川冬一本人だった。背後から男を殴って気絶させたみたいで、吹っ飛んだ男は目を回している。驚く私の手を取って彼は裏街の通りを走り出す。周りの視線が気になったけど、それを振り払うようにして路地をいくつか抜けて人通りの少ない道へ出た。そこはおしゃれな酒場が並ぶ、裏街でもまだ治安のいい通り。少し先に、「エデン」と書かれた看板が見える。あれが待ち合わせていたバーね。そこでようやく冬一が私の手を離して一息つく。
「…ふぅ。お前はどこに居ても男を引き寄せる何かがあるのかってくらい目立つな」
「……何故助けたの。私一人でもあの程度の男、どうにでもなったわ」
この男と私は敵同士。本来、こうして二人で会うことは許されない立場。…いえ、むしろこの男は私を油断させてそこを突く可能性だって捨てきれない。…それなのに、私はまるで…彼がそんなことする訳ないと思っている気がしているのは何故なの?
冬一は私の顔をじっと見つめて、どこか悲しそうな顔で言った。
「…そうか。お前はもう…一人で戦えるくらいに強くなったんだな…」
「……」
この目。前にもどこかで…。
「とにかく、バーは予約してあるから、そこで話をしよう。…いいな」
「…ええ、わかったわ…」
バー、エデンの店内は暗く、それぞれの席に小さなランプが灯されていて、それだけが照明になっていた。その優しい灯りだけでも、どこか心が落ち着く。それに似合った、落ち着いたジャズの曲が流れているのも心地いい。冬一はカウンター席に向かい、私に無かって座るように促し、私はそれに従った。席に着いてから気付いたけど、店内には私達以外誰も居ない。どうやら貸切にしたみたいね。
「…酒は飲めるか」
「問題ないわ」
「そうか。…マスター、何か適当に見繕ってくれ」
冬一はマスターに注文すると、初老のマスターは何も言わずただ微笑んで頭を下げ、何らかのカクテルを作り始めた。どうやら、彼はこの店に何度も足を運んでいるようだわ。
マスターがカクテルを作る音とジャズだけが聞こえる空間。しばらくの間、私も冬一も何も話さずにいた。いざ、こうして二人で並んで座っていると、聞きたかったことが聞き出しにくい。おかしいわ…普段の番人の仕事だったら、ターゲットの情報を仕入れる為に関係者の男に色仕掛けで迫ったり、酒を飲ませて聞き出すなんてこと、普通にするのに…。この男は私の過去を知っている…そう思うと、いつも通りに動けない。それほど、私の過去は…。
「……ダン・エヴリコット…」
「えっ…」
突然、彼が私のフルネームを呼んだ。あまりのことに驚いて声が漏れてしまった。
「…それが、お前の本名…だな?」
「…そうよ。どうして今更…。犬神さん達から情報は聞いて知っているでしょう」
そう、クラウンの特務部隊の隊長、ロギア・デュークス…犬神と呼ばれるあの神クラスの子が事前にクラウン本部に情報を報告していた。だからこそ陣川冬一、彼は屋敷に現れた。勿論、私の名前だってわかっているはずなのに、どうして今ここで確認なんてしてくるの…。
「ああ、それであの地下室でお前と会った時…俺は確信したんだ。お前が…俺の探していたダンだって」
「…そのことなんだけど。あなたは……私の何を知っているの」
ようやく本題を聞くことが出来た。隣に座る彼は一度私を真剣な表情で見た後、カウンターで組んだ自分の手を見つめる。黒い革の手袋に包まれた手は男らしく大きい。
彼の手をじっと見ていると、マスターが何も言わずに二杯の酒の入ったグラスを私達の前に置いた。
私の前には鮮やかな赤いカクテル、冬一の前には黄金色のウイスキー。それぞれ黙ったまま、杯に口を付ける。赤いカクテルはストロベリーベースでほんのりと甘い…。気付けばあのマスターの姿はない。あの様子だと私達の話を聞く気はないみたい…。盗聴する様子も、殺気も感じられなかったし、警戒する必要はなさそうね。
そこでようやく彼は口を開いた。
「……子供の時、何回か会ったくらいだもんな。覚えていないのも無理はねえか」
「やっぱり…私とあなたは会っているのね…」
「ああ…。俺は…お前が子供の頃、お前の親父さん達と親しくしていた。お前とも何度も会った…」
「…そう、だったのね」
さすがに子供の頃の記憶は曖昧で彼のことははっきりと思い出せない。だけど、朧げに背の高い後ろ姿が脳裏に過ぎる。父と懇意にしていた男の背中…。けれど、私の記憶が正しければその面影は今、私の隣に居る彼と変わっていない。確か前にお父様は言っていた。クラウンの司令と副司令は神クラスで、歳をとらないって。子供の頃の私と会った時から現在まで姿が変わっていないのも頷けるわ。
「お前の特徴的な名前は親父さんが尊敬していた考古学者の名前から取っている…それに、その胸のローズダイヤはエヴリコット家の家宝だったな…」
「…その通り。…どうやら本当のようね」
ほんの少し、クラウンが調べた情報を言っているだけかと疑っていたけれど、私の名前の由来やローズダイヤのことは絶対に外部は知らない。つまり彼の話は真実ということだと信じざるを得ないわ。
「あの事件以降、行方不明になったお前をずっと探してきた……それがどうしてロックハートの養女になっているんだ、ダン…一体何があった」
「……オズボーンファミリーや犬神さん達から聞いてるんじゃなくって?私が何をされたか…」
どうせ話は聞いてるでしょうに。まあ、詳細は私も話してないけど…。冬一は急にまるでショックを受けたような顔をした。
「…っ。…聞いた……それは…伯爵達を殺してお前を誘拐した…犯人か…っ」
「そう…。あの日は…私の誕生日でパーティーが行われる予定だった…」
「…それに、俺も招待されてたぜ」
「!…そうだったの……」
まさか、そこまで親交が深かったなんて。父はそんなにも彼と親しくしていたのね…。
「あの日…何が…」
「…別室でパーティードレスに着替えていた私とメイドの耳に突然、悲鳴が聞こえた。メイドは様子を見てくるから部屋に居るようにと言って部屋を出て行き…それから何度も悲鳴と争う物音が聞こえて…とても怖かったわ。何十分待ってもメイドは帰ってこなかった…」
今でもはっきりとその光景は思い出せる…。
「私はいてもたってもいられなくなって、部屋を出て大広間に向かった。その途中には……倒れた執事やメイド達が居て…私は本当に恐ろしかったけれど、大広間の扉を開き…そこで見たのは………血まみれの父と母…使用人達…。それを囲む見知らぬ三人の男達…」
「…そいつらが……!伯爵達を…!」
今思えば、いかにも裏街に居そうな柄の悪い男達だった。今だったら…きっと両親を救えるくらいの力はあるのに。…今更考えたって遅いけど…。
「その男達の手には拳銃と、札束の入った袋があった。貴族の屋敷に押し入った強盗だったのよ。後から知ったけど、金庫が破られていたらしいわ」
「強盗……だが、ミュゼール貴族の金庫の警備はしっかりしてるはずだ」
「それは…無理矢理に破ったんじゃないかしら。そこまではわからないわ。…けど、はっきりしてるのは彼らが金目当てで屋敷に侵入して、私の両親も使用人も全て殺したこと…そして…私を見てニヤリと笑うと、私を気絶させて……連れ去った…」
「……っ」
…どうしてそこであなたが辛そうな顔をするのよ。いえ、私もおかしいわ。敵の男にこんなことまで…私が一番封印したい記憶を話しているなんて……。
「奴らが気まぐれで私を生かして連れ去ったのだとしても……私はあの時…両親や使用人達と一緒に殺されていた方が幸せだったのかもしれない。…それからは…毎日が地獄だったもの」
「っ…ダン…!」
「…毎日よ。毎日…十歳になったばかりの子供が……好き放題にされて…。終いには、奴ら…自分達だけでなく、金を取って私を……」
「もういい…!」
絞り出すような声で、冬一が私の話を遮る。これ以上聞きたくないという顔だった。けれど、私は少しぽかんとして彼を見た。どうして彼がそこまでするのかよくわかっていなかったから。
子供の頃の私を知っているとはいえ、今は私とあなたは敵。どうしてそんな辛い顔をするのよ…。
「…もう、いいんだ。…お前は…そんな辛い目に遭って…どうして…!」
「……私はもう平気よ?過去の話だし」
「平気な訳ないだろうが!」
静かな店内に彼の大声が響く。私達二人だけの空間だからより一層、彼の声が大きく感じた。
「…どうしてそんなに私に構うの。私とあなたは敵なのよ?」
「俺はお前と敵になるつもりはない!」
「……何を言っているのよ…」
突然、冬一は私の手をぎゅっと握ってくる。
「俺はお前が幸せになってほしかった…!未来を歩んでいくお前の姿を見ていたかったんだ…!なのに、こんなことになって…大事だったお前を失って…俺は…俺はもうお前を失いたくない!」
「……」
握った手から熱を感じ、私は彼と見つめ合う。…なんて、熱い真っ直ぐな視線。
その目に偽りは感じられない。彼は本気で言っている。何故か、その目を逸らすことが出来なかった。
「ダン…どうして番人になった…どうしてロックハートの計画に力を貸す…!」
「……私を誘拐犯のもとから助けてくれたのがお父様だったからよ。そして…お父様は言った。もう私のような人間を生まない為にも悪のない世界を作ると。その為に強くなれと…だから、…だから私は…!」
そう…私はお父様に救われ、強くなることを決めた。もう犯罪で苦しむ人を生みたくなくて。その為には…私は闇に身を落としたって構わない。一度汚れた体なら今更汚れたって変わらないと、本来の自分を消し去って…。
同じように犯罪で苦しむ人々の為に、お父様が提案した番人という役目を引き受けたのは、確かに私自身が決意したこと。
番人としてターゲットに近付く為、体を使ったことだって何度もある。最初こそ躊躇う気持ちはあった。けれどいつしか、それが自然にするようになっていって…。
幼い頃の監禁生活で、泣いたり、男達に逆らうと暴力を振るわれた。それがあまりにも恐ろしくて、私は必死に媚を売り、次第に自ら誘惑したりして、男を虜にする色っぽい言動や仕草を「演じた」。それがあまりにも長く続き、保護されてからしばらくは男性恐怖症になっていたけど、それが落ち着いてからも昔とは異なる性格を「演じる」癖は抜けず…今になってはもう、自分本来の性格がわからなくなっている。でも、それが今の番人としての仕事に役立っているなんて…皮肉なものね。
「…どんな手段を使っても犯罪者を裁く番人として、自分の手で戦うと決めたのよ…。もう泣いて怯えていた私じゃない…。それに、番人の他のメンバーと出会えたのも運命の導きだったのかもしれない」
「あいつらも…同じようにして番人になったのか」
「ええ。皆、かつて私と同じように悪意によって辛い目に遭った。そしてお父様に番人として見出された仲間…家族同然の存在よ。あなたが…妹を愛するように、私にも守り、共に戦う人がいる」
「………」
そうよ。それぞれ仲間も目的もある。私達は譲れないものがあり、それが異なるだけ。
彼が追い求めていた、無垢なお嬢様の私はもう居ないのよ。
「…だから、もう…私はあなたの知る私ではないの。……今夜だけは特別。でももう明日からは…本当に敵同士よ」
「……ダン…」
私はそっと彼の手を払い除ける。彼は抵抗することなく、けれど名残惜しそうに手を離した。
…そんな顔しないでほしいわ。次に会ったら私は彼を…。
「今夜は見逃してあげる。…そろそろ帰らなきゃ、さすがにお父様に気付かれちゃう。……次はもう…」
「…ダン!」
私が席を立ったとほぼ同時に彼も席を立つ。突然の行動に私は彼を見上げ、隙を作ってしまった。
その時。彼の影が私に重なるようにして…。
「……んっ」
唇が重ねられた。突然の口付けに驚いたけど、でも、不思議…それは、今まで仕事の為にターゲットや情報収集の相手としてきた色んなキスのどれよりも優しかった。
「…ん……」
店内に流れるジャズだけが聞こえる。最初は驚いて目を見開いてしまっていたけど、そのキスがあまりにも心地よくて目を閉じ、ただ彼の唇を感じた。
…まるで恋人にするような甘く、優しいキス。たまに、彼の顎鬚が掠めてくすぐったいけれど、彼のキスは蕩けそうな感覚だった。こんなの初めて…。
冬一の左手は私の腰を抱き寄せ、右手は自然と私の手を再び握っていた。キスを続けていくうちに、私も自然と彼の背中に手を回してしまう。
いけない…本当はこんなことしたらダメ…。彼は敵なのよ……。
そう思っているのに、頭で考えていることとは真逆の行動をしている。
長く感じたキスは彼が唇をゆっくり離したことで唐突に終わった。どちらともなく目を開き、至近距離で顔を見合わせる。
「……あなた。…無意識に女を惚れさせてしまうタイプね」
「…惚れたか?」
「まさか……」
いい男だとは思う。むしろいくらでも女が寄って来るでしょうね。
「…かつて可愛がっていた子供にこんなことして罪悪感とかないのかしら。それともそういう趣味?」
「確かに昔のお前を知っているが…今、お前を見て思うのは……お前を放っておけないってことだ」
「……え…」
そして彼は私の目を見ながら言った。
「……お前を愛してる……ダン…」
「…な……」
何を言っているの、と言おうとしたのに、私はあまりの驚きで声が出なかった。彼は敵である私を…?
よく見たら、彼の表情は強いものなのに、そのライトブラウンの瞳はどこか潤んでいるように見えた。
「俺の願いは……お前が幸せに生きることだ。それは昔から変わらない。…お前と再会して、お前の姿を見て……お前への気持ちは愛に変わったんだ」
「…バカなの?…あなた……本当に……どうしてそんなに私に…」
「お前を愛している……ダン。俺は誓う。お前を必ず今の立場から救い出す」
「そんなこと…」
今の立場…。彼には私が囚われの身に見えるの…?
「ダン、お前はロックハートの作ろうとする世界で幸せになれるのか?お前は…実はそんな世界を望んでなくて…愛する養父が望むことだから協力しているだけなんじゃないか」
「!」
違う。私はそんな…。
反論したいのに何故か言えない。否定しなきゃいけないのに。
…そんなこと…あるはずない…。私は悪のない世界を求めている。
でも……お父様のやり方は…。
「今からでも遅くない…お前は幸せになるべきだ。ロックハートの計画は人の大事な感情を消すってことだ。そんな世界でお前は満足するのかよ…幸せになれるのか。俺はそんな状況からお前を救って…お前を真に幸せにしてやりたいんだ」
「………!」
いきなりの愛の告白にどう反応したらいいかわからない。ただ、胸によくわからない暖かいものが込み上げてくる。…何?この感覚。心臓の鼓動がおかしいくらいに高鳴ってる。知らない…こんな状態、今までになくて、どうしたらいいか…。
でも…私は……お父様を裏切れない。お父様の目的の為にはクラウンの司令の持つ女神の力が必要なの。そしていずれは…彼と戦わなきゃいけない。私は彼を…。
「…そう言われても…私はお父様の味方のままよ。あなたの思い通りには…」
「…いずれロックハートとは決着を付けることになる。そこで全てを決める。お前とも正々堂々、戦うさ。で、俺が勝って、お前を助け出す」
私は助けてもらうつもりはないのに、何を勝手に。そう思っていても口には出せないのは何故?
ようやく体を離し、ゆっくりとした足取りで私はバーを出た。扉が閉まる直前に冬一を見ると、こちらをじっと見ていた。なんて力強い意志を感じる目。さっきまで私の過去を聞いて辛そうだったのとは大違い…。
外に出ると、人は誰もいない。空には無数の星が煌めき、吹き上げる涼しい風を感じて初めて私の体が火照っていることに気付いた。
「………陣川冬一…」
彼の名を呟き、そっと自分の唇を撫でてみる。まだ、温もりが残っている気がして、また胸が高鳴った。
私と戦う気はあるくせに、私を助け出すとか言って…意味が分からない。でも、それでも…今まで出会った男とは違う。彼だけは何かが違うって思った。
子供の頃に会った記憶はほとんどないのに、彼の話を信じて…もし、本当にずっと探してくれていたのなら…。
…私のことを本当に…愛してくれているのなら…。
「……せめて…他の誰でもない…私の手で殺してあげなきゃ…」
私はもう、お父様に縋ってしか生きられない。
例え、お父様のやり方が非人道的であったとしても、お父様が望むなら…私はあなたを殺さなくてはいけない。
純真で無垢だった魂は常夜の闇に落ちていく。
そうよ…もう私の魂は白には戻れない。
36.闇色アニマメア
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