ゆめみるくらげ


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春と呼ぶにはまだ少し早いような風の吹く夕暮れ、この通学路もあと何度通るのだろうか、なんてぼんやりと考えながら歩いているときだった。

「羽風さん」

決して大きくはないけれど、確かに響いた声に足を止める。と言っても、ここ最近誰かと遊んだ覚えはなくて女の子に呼び止められるような用事は無かったはずだった。

「えっと、」

振り向いた先にいた彼女にほとんど見覚えはなかったけれど、ふと引っ掛かるものがあった。よく思い出してみれば呼び止められた声を俺は知っている気がする。

「……もしかして、なまえちゃん?」

手繰り寄せた記憶は、とある日の出来事だった。あまりにも衝撃的な出会いだったから忘れられるはずもない。咄嗟のことで断定できるほどの自信はなかったけれど、きっと彼女だと思った。
そんな俺の答えに、わかりやすく驚きを滲ませた彼女は数秒間押し黙ったままなものだから少し不安になってくる。なんとなく気まずい沈黙が訪れ、どうしようかと考え始めたときだった。

「なんで、わかったんですか?」
「あはは、あんまり自信なかったんだけどね」
「わからないと思ったんですけど、そっかぁ……」

どうやら俺が言い当てたことに驚いたようで、それまで少し緊張した面持ちだった彼女は、そこでふわりと微笑んだ。

「それで、どうしたの?」
「ご迷惑になるかも、とは思ったんですけど……どうしても、羽風さんの最後の言葉が忘れられなくて」
「あ〜…今思い出すと、随分勝手なこと言っちゃったよね」
「とんでもないです!あのとき羽風さんが声を掛けてくださらなかったら、そのまま死んじゃっていましたから」

そう言って、微笑んだまま彼女は濁すことなくあの日ことを切り出した。……それは、ちょうど1年程前のことである。

*

それは偶然だった。なんとなく、海に行こうとそう思った。暦の上ではつい先日春を迎えたとはいえ、夜の海はまだまだ冷たい。でも、どこかの誰かとは違って決してぷかぷかしたいわけではないから、それで良かった、はずだった。

予想通り人気のない浜辺で、ふと目線の先に独りの女の子が佇んでいた。それが浜辺だったならば折角だし声を掛けようかな?なんて悩むところだが、彼女は腰のあたりまで海に浸かっていた。その光景が咄嗟に飲み込めなくて思わず足を止める。真っ直ぐ海の方を見つめる彼女はきっと俺のことには気づいていなかったのだろう。少しして彼女がより深い海の方へ進もうとするから、打ち付ける波の冷たさも忘れて慌てて駆け寄る。波に邪魔されて届きそうで届かなかった彼女の腕をどうにか掴んだ。

「ちょっと、何してるの!?」
「誰、ですか」

パッと振り返った彼女は、驚きを含みつつ警戒心に満ちた声で小さく返す。
さっきまでは彼女の腰のあたりだったというのに、数歩進んだだけで随分深さも変わるようで、もう胸のあたりに差し掛かろうとしていた。掴んだ腕が揺れるのは、波のせいか、それとも彼女が抵抗するせいか。なんにせよ、絶対に離さないでおこうと強く思った。

「俺は羽風薫。ただの通りすがりの人間だよ」
「はぁ……それで、どうして邪魔したんです?折角、決心したのに台無しじゃないですか」
「確かに、俺は君のことを知らない。だからといって見過ごせるような状況じゃないでしょ。ほら、戻ろう」
「……初対面ですよね」
「そうだけど、それがどうかした?」
「他人がどこで死のうと知ったことじゃない、とか思わないんですか?」

この状況に納得できない様子の彼女は、そう吐き捨てる。すっかり顔を背けて尚も歩を進めようとするけれど、波もこちらへ打ち寄せてきて彼女の行く先を阻むものだから思うように進めないらしかった。

「う〜ん、例えば俺の知らないようなずっと遠い場所とか、あとは男なら他人事だと思っちゃうか
もしれないけどさ。でも、目の前にそんな子がいて他人事だ〜て無視するのは違うと思う。見て見ぬふりをした人もいじめてるのと一緒じゃない?」
「……ふうん、優しいんですね」

噛み締めるようにそう呟いた彼女は漸く抵抗をやめたから、軽く腕を引いて浜辺に向かった。
勢いで彼女を助けたものの掛ける言葉は見つからなくて、ただ波の音だけが辺りに響く。いつの間にか水面は遠くになって、たっぷりと海水を含んだ洋服が忘れていた重力を思い出させる。いつまでも腕を掴んだままでいるわけにはいかなくて、そっと離れて彼女に向き合う。
ぼたぼたと、ひっきりなしに落ちる滴が大きな水溜まりを作る様子をぼんやりと見ていると、彼女が先に沈黙を破った。

「あの、お見苦しいところを見せてしまってごめんなさい」
「えっ、ああ、うん……俺こそ、なんかごめんね?」
「いえ、羽風さんが謝ることなんて何もないですよ」
「それならいいんだけど。このあと、どうしようか?」

咄嗟に気のきいたことを返せなかった俺をみて、彼女は可笑しそうに笑う。これは俺の根拠のない直感だけれど、先程までの彼女に纏わりついていた影がまるで波に浚われたように引いていて、なんだか少し晴れ晴れしているように見えた。
そんな彼女は俺の問いには答えず、ぽつりと溢す。

「何も、聞かないんですか」
「あはは、敢えて触れなかったことを言うね〜?俺は別に聞かないよ。他人にあれこれ言いたくないでしょ?」
「……変わった人」
「え〜酷くない?周りが奇人変人ばっかりだから、俺はかなりまともな方だよ?」

きっと彼女が言いたかったのはそういうことではないのだろうけれど、敢えてそう返してやった。やっぱり彼女はそうじゃなくて、と口を開く。

「ええと、悪い意味じゃないんです」
「うん、知ってる」
「だから、その……ありがとうございました。止めてくれたのが、羽風さんで良かったなって」
「俺も、君が無事で良かったよ。あっ、怪我とかはない?大丈夫?」

彼女は俺の問いに苦笑しながら頷く。確かに先程の行為を考えれば、怪我なんて小さなことかもしれないけれど海は案外危険が多いものだから念のためだ。

「はい、何もないですよ。そんなところまでお気遣いありがとうございます」
「それなら良かった」

弾むような話題も切り出せなくて、会話は宙ぶらりんになる。
暫くするうちに落ちる滴はなくなったけれど、それでも肌に張り付く布は水分を含んでいる。加えて、時折吹く風は決して暖かくはないから、いつまでもこのままでは風邪を引きかねない、そう思って迷いながらも口を開いた。

「家、帰れそう?」
「……帰れなくもないです」

なんとなく予想通りの歯切れの悪い応え。きっとあまり帰りたくないのだろう。彼女の事情は知らないけれど、そんな気はしていたから驚きはなかった。

「う〜ん、ずっとこのままだと風邪引いちゃうかもしれないから……どうしようかな」
「あっ、ごめんなさい……!そうですよね、考えが足りませんでした!」

けれど、半ば独り言のように呟いた俺の言葉に何かハッとしたらしい彼女の提案には驚きを隠せなかった。

「どうしよう、良ければ一度家に来ます?そのままでは帰れませんよね?」
「いや、それは大丈夫なの?」
「この際私のことはどうでもいいんです、勝手にやったことですし。羽風さんは私が巻き込んでしまったせいなので」
「それこそ、俺が勝手にやったことだから。そんなに気にしなくていいってば」
「でも〜!?」
「ほんと、ほんと!大丈夫だからね」

家に帰りたくないわりには随分と大胆なことを口走っていたが本当に大丈夫なのだろうか、なんて思いながら、まだ何か言いたそうな彼女をなんとか宥める。

「申し訳ないので、何かさせてください」
「じゃあ、良ければ名前だけ教えてほしいな」
「あっ」
「どうしたの!?」
「私、今まで名乗りもしないで本当にごめんなさい!花月なまえです」
「……なまえちゃん」
「はい?」
「ううん、良い名前だなって。呼んでみたくなっただけ」
「はあ」

今の彼女はきっと、海に消えたりなんてしないように見えるけれど、ただ彼女がそこにいることをなんとなく確かめたくて名前を呼んだ。

「ねえ、なまえちゃん。帰ろっか」
「……そうですね」
「大丈夫そう?なんなら送っていくよ」
「いえ、有難いんですけど大丈夫です。これ以上ご迷惑を掛けるわけには」
「そっか、なまえちゃんがそう言うなら今回は引き下がろうかな」

どちらともなく海に背を向けて歩を進めた。踏み出した先の砂は随分と冷えている。
それ以上の会話はなくて、ただ無言で歩いた。だんだんと見える地面が白から黒へと塗り替えられる。砂浜とコンクリートの境界線を越えたとき、彼女が足を止める。

「私こっちなんですけど……羽風さんは」

そういって指した方角は俺とは反対だった。

「そっか、俺はこっちなんだ」
「そうなんですね 」

また静寂が訪れる。彼女との別れの言葉の正解は、俺にはわからなかったけれど、彼女に伝えたいことはあった。砂浜から帰る途中、ずっと考えていたことだった。

「ねえ、なまえちゃん」
「なんでしょう?」
「いつか、また会おうよ」
「へ?」
「また君と話したいからさ。今日はあんまり落ち着いてお話できなかったし」

それが、いつかまた彼女が今日のような行動を思い付いたときの抑止力になればいいなんて、浅はかで勝手な考えだった。
数秒固まった後に彼女は微笑んだ。多分、今日初めての表情だった。

「……私も、またお話したいです。また、いつか」
「ほんと?なんか、ごめんね。俺の我が儘みたいになっちゃって」
「いえ、そんな我が儘なんかじゃないですよ。私も嬉しいですし」
「そっか、じゃあ……またね」
「はい、また」

そんな曖昧な、約束ともいえないような約束を交わして、彼女が帰るところを見送ったのを覚えている。


*

「……ちょっと声掛けるの不安だったんです。あのときのこと、私の思い込みだったらどうしようかと思って」
「確かに。俺も、もし会えたとしても一方的に覚えてるだけだったらどうしようと思ってたし」
「はい、でも羽風さんのおかげで色々気づいたのでちゃんとお礼を言わないとって思ってたんです。今更ですけど、本当にありがとうございました」
「やだなぁ、大袈裟だよ。たまたま通りすがったのが俺だっただけで、誰もあんなの見ないフリなんかできないでしょ?」
「そうですか?結構勇気のいることだと思いますよ?」

1年ぶりに出会った彼女は、自然な笑顔で、随分と大人びて見えた。制服をきていなかったら、きっと学生には見えないだろうなと関係のないことを考える。

「ともあれ、元気そうで良かったよ〜。(名前)ちゃんさえ良ければ、お茶でも……と思うんだけど、日を改めた方がいいかも?」
「そうですね。折角なのでゆっくりお話したいですし……あっ、羽風さんがよければなんですが!」
「勿論、俺も同意見。じゃあ、明日とかどう?」
「明日なら空いてます」
「そっか。じゃあ、また明日だね」
「……はい!」

薄暗くなった路地に、明るい声が響く。
1年越しに交わした約束は、あのときとは違って確かな約束だった。

*

そういえば、彼女と再会してもう2週間程だろうか。まだ早い時間なこともあるけれど、あのときにはまだ冷たさを含んでいた風もだいぶ暖かさを帯びていた。

「おはようございます。……もしかしてお待たせしましたか?」
「おはよう〜。いや、全然?俺も来たところだし、時間より早いしね」
「それなら、いいんですけど」

あの翌日、軽くお茶でも〜と訪れたカフェでは思いの外話が弾んだ。なんでも、彼女は海というか海洋生物が好きらしく、そのときの彼女は随分と生き生きとした表情で語った。それならば、と今日水族館へ行くことを提案したのだ。

「そうそう、細かいことはあんまり気にしないの♪ほら、行こっか」

つい、いつもの癖で手を差し出してしまう。彼女は少し戸惑ったようにこちらを見上げた。

「あっ、いきなり嫌だったよね!?ごめんね」
「ち、違います!こういうことが初めてだっただけで、その、嫌なわけではなくて……!」

お互いに慌てるものだから、なんだか可笑しくなって顔を見合わせて笑ってしまう。そんなこんなで、目当ての場所へと向かった。

「す、すご……大きい……」

入り口を潜って直ぐの大水槽。ここ___あおうみ水族館は初めてらしい彼女は一目見た瞬間に悠々と泳ぐ生き物たちに釘付けのようだった。ちなみに、俺は何度か訪れたことがあるから大体把握してしまっていた。そのおかげで、今日のエスコートの予定は完璧なのだけれど。

「そういえば、なまえちゃんは水族館の中だと何が好き〜とかある?」
「う〜ん、そうですね。みんな好きなんですけど、強いていうならクラゲです!」

そう言い切った彼女は、ふわりと笑う。その様子をみて、なんだかわかるなぁと独り心の中で頷いた。
それから、いくつか見て回ったときだった。足取りも軽く少し先を行く彼女がふと立ち止まって俺に向き直る。

「あの〜羽風さん」
「どうかした?」
「なんか、ごめんなさい」
「えっ、俺何かしたっけ?」
「そうじゃなくて!折角付き合ってもらっているのに、羽風さんそっちのけで水槽ばっかり見てるなって……今更……」
「あ〜、そういうことか。気にしなくていいよ、なまえちゃんが楽しんでるなら俺はそれで満足だし」
「本当ですか……?」
「ほんと、ほんと!だから、ゆっくり見てて大丈夫だよ」

余程、好きなのだろう。俺がそう言うと、彼女はどこか安心したように微笑んで頷いて次の水槽へと向かう足を進めた。

「ほんとに好きなんだね〜」
「うっ、ごめんなさい……すごく時間掛けてしまって」
「ううん、俺も楽しかったから。クラゲってさ、いろんな種類あって面白いよね」
「そうなんです!最近は、色んな子をみるより成長過程を見る方が好きなんですけどね」
「あ〜あれね、生後何日〜とか書かれてるやつ」
「はい、すごくないですか?あんな小さい体でエサを食べて大きくなるクラゲも、お世話してる飼育員さんも!」
「確かに、おたまで掬うのとか面白いよね」
「いいなあ、私も掬ってみたいです」
「それいいかも、金魚すくいならぬクラゲ掬いみたいな」
「それやりたいです!……でも、掬うのも楽しそうなんですけど、私クラゲになりたい気持ちもあるんですよね」
「えっ、なまえちゃんがクラゲに?」
「はい!ここは狭いですけど、広い海を漂ってるのって自由で羨ましいんです」

やっぱりふわふわと笑う彼女は、いつになく楽しそうだった。存外広い館内は、ゆっくり回ればそれなりの時間になる。いつの間にやら高く昇っていた陽は傾いていた。閉館の時間に追われて、名残を惜しみながらも館を後にする。

「どうだった?」
「す〜っごく楽しかったです!沢山見れました!」
「うんうん、俺からみても満喫してるように見えたもん。楽しかったらなによりだよ」
「羽風さんこそ、今日つまらなかったり……?」
「もう、心配性だなあ〜。俺は(名前)ちゃんが楽しめたならそれで十分嬉しいよ」
「……やっぱり変な人」
「はは、またそんなこと言うんだから」
「褒め言葉です!」

ふとした瞬間に笑顔を見せることが増えたり、初めはどこか緊張が解けないようで固いイメージがあったもののだんだんと砕けた口調で話すようになったり。彼女との距離が縮んだようで嬉しかった。
帰路に着くふたつに伸びる影がゆらりと揺れる。先程までと違って、足取りが重い彼女の様子が気になった。

「羽風さん」
「ん、どうしたの?」
「また、会えたりしませんか」
「いいよ、いつがいい?」
「……30日に前に会った海、とか」

別れ道は少し手前、なにもないところでぴたりと足を止めた彼女がそう言った。妙にはっきりと決まっている日時や、どこか影のある様子に違和感を覚えてしまって、なんと応えるべきか咄嗟に判断できなかった。

「ごめんなさい。やっぱり急になんて難しいですよね」
「……ううん、大丈夫。何もないから」

ただ、どうしてそんなに後ろめたそうなのか気になっただけ、なんて言えるわけなかった。なんとなく、それを聞いてしまったら彼女が消えてしまいそうな気がしたから。

「あの、本当に……気が向いたら。大したことじゃないので」

そう彼女は言うと、小さく一礼して走っていった。慌てて伸ばした腕は少し届かなくて、小さくなる彼女の姿を茫然と見つめた。最後にちらりと見えた表情は、あのときを思い出させた。まさか。信じがたい可能性が頭をついて離れなかった。

*

来る30日。そういえば、場所ははっきりとしていたけれど、待ち合わせの時間について彼女は何も触れなかった。そのことに気づいて待ち合わせというには少し早い朝から、あの場所を探した。太陽が水面に反射して眩しい。清々しい朝には似つかわしくない気分だった。目当ての彼女の姿は見つからなくて、流石に早いようだと納得し、かけた時だった。

綺麗に揃えられた靴と手紙のようなものを見つけた。ちょうど干潮の時刻で、きっと誰にも見つけられずに時が経てば流されていただろう。
それが誰のものであるかなんてわかるはずもないのに、心のどこかで彼女のものだと思って、恐る恐る手を伸ばす。

封のされていない封筒からは数枚の手紙が出てくる。

“羽風さんへ”

そう始まる文章は、間違いなく彼女から俺に宛てたものだった。

“羽風さんへ

きっと、この手紙を貴方が読むときには私は海の藻屑となっているのでしょう。結局、こんなことになってしまってごめんなさい。

初めはこんなことを知らせるつもりはなかったのですが、何も言わないままあのときみたいに「またいつか」なんて言えそうになかったので。本当は直接お話するべきなのですが、きっと頭がぐちゃぐちゃになって何も言えなくなるので、お手紙を書きます。

1年前、私が死のうとしたときに声を掛けてくれたこと、今でも本当に感謝しています。
折角あのとき事情を聞かないでいてくれたのに、暴露するのもどうか、とも思いましたが全て書こうと思います。ですから、もし嫌な気分になったら破り捨ててくださいね。

あの日は余命宣告をされて数日後のことだったと思います。病状を書くと長くなるのでここだけは省略しますが、私の病気は治療困難で進行を遅らせるのが精一杯で恐らく1年程だろうと言われました。
私はあまり人付き合いが上手い方ではなかったので特別親しい友人もいないし、家族との関係も正直良くなかったので、パッと思い付くような未練はありませんでした。だから、漠然と伝えられた死期に怯えて生きるくらいなら、いっそ死のうと思ったんです。
でも、貴方は見知らぬ私に声を掛けてくれました。初対面であんなに暖かい言葉を掛けてもらえるなんて思ってもいなくて、とても嬉しかったです。なんだか、私の存在を認められたような気がしたのです。
別れ際の約束、貴方にとっては些細な言葉だったかもしれないと思いながら、私はずっと忘れることができませんでした。貴方に助けてもらった命は、大事にしようとそう思いました。

医療技術は日々進歩するから、もしかしたら……と担当医は励ましてくれましたが、やっぱり駄目だったみたいで年明けくらいから診てもらう度に覚悟はするように言われ始めました。だから、死ぬ前にもう一度だけ貴方に会いたいと思って探して。
私が無知なせいで、アイドルだなんて知らなくて……。そういえば、一度だけライブにお邪魔したんですけど、すごくすごく格好良かったです!
脱線してごめんなさい。それで何度かあの道で見かけることがあったので、そこで待っていたらいつか会えるかもと思って、あの日も待っていました。

きっと、貴方は覚えていないと思っていましたけど、覚えていてくれて、名前を呼んでくれて。そのことが何より嬉しくて、幸せでした。あのとき、欲を言わずにお礼だけして終わりにすれば良かったのかもしれません。
優しい貴方に甘えて、私のやりたかったこと全部付き合わせてしまいました。ありがとうございました、そしてごめんなさい。でも、あのとき私は間違いなく世界一幸せだったと断言できます。貴方に助けてもらわなかったら作れなかった最高の思い出でした。

貴方と過ごした日はとても楽しくて、もっとこんな日が続けばいいのに、なんて思ってしまいます。1年の間に随分と未練がましくなってしまいました。駄目ですね。

まだ、もう少し生きられるのかもしれません。でも、そのいつかが怖くてたまらないのです。不安と恐怖でいっぱいのまま最期を迎えるよりも、楽しかった思い出で満たして最期を受け入れたいと思います。
だから、貴方と出会った日から丁度1年の今日を選びました。こんなことに巻き込んでしまって本当にごめんなさい。優しい貴方は、もしかしたら自分のことを責めてしまうかもしれませんけど、貴方が悪いなんてことは一切ありません。

今更、こんなことを書いても貴方を困らせてしまうだけなのは重々承知しているのですが書かせてください。
羽風くん、私は貴方のことが大好きです。楽しい時間を、生きることの喜びを教えてくれて本当にありがとう。

思うままに書いていたら長くなってしまいましたね。こんな乱文を最後まで読んでくれた貴方に心からの感謝を。そして、貴方の幸せを願っています。


花月なまえ”


読み進めると、思わず涙で目の前が滲んで文字が追えなくなる。手紙のはずなのに、まるで彼女が本当に話しているかのような気がした。

先日の彼女の歯切れの悪さはそういうことだったのだと、今更気づいた。いくら彼女が言いたくなかったとはいえ、少し話して、出掛けただけで、彼女の抱えていた大きな悩みの一片も察してあげることができなかったのは、やっぱり悔しかった。少しだけ、怒りもあった。
それでも、好きだと思うからこそ、彼女の選択を受け入れるべきなんだと心のどこかでそう思った。

「……俺もさ、君のこと、好きだよ」

彼女の姿はもちろん見えなくて、残された文字をなぞりながら、そう溢す。
時折吹く風は、決して暖かくはなかった。


*

「……さん、羽風さん?」
「あっ、すみません。少し考え事をしていて」
「いえ、全然大丈夫なんですけど!その……よろしければ取材の方始めさせていただきたいなと思って」
「はい、全然大丈夫ですよ」

そう控えめに声を掛けてきたのは、今日の取材の担当で、あまり見覚えのない人だった。新人さんだろうか?そう思えば、なんとなく緊張しているようにも見えた。

「今日は今度発表されるソロ曲についてなんですが、今回は羽風さん御自身で作詞されたんですよね」
「はい」
「作詞にあたって、なにかテーマや意識されたことなどありましたか?」
「この曲、今度出演させていただくドラマのEDになるんですよね。そのドラマのテーマが『卒業』なんです」
「では、曲の方も卒業をテーマに?」
「う〜ん、卒業……というか、俺は別れを意識しましたね」
「……別れ、ですか?」

早速、山場のような質問だった。聞かれるだろうと予想はしていたが、実際に尋ねられるとどう答えたものかと一瞬悩む。そんな俺の出した答えに担当は、ぱちりと瞬きをしてそのまま繰り返す。どこか意外だったらしい。

「はい。これはプライベートなことなのであまり詳しくは言えないんですけど。学生時代の最後に忘れられない大切な人との別れがあって」
「それは、卒業ではなく?」
「はは、卒業といえば卒業かもしれませんね。とにかく、今まで当たり前に会えていた人ともう会えない、その寂しさを伝えたいと思ったんです」
「確かに、静かな曲調で語り掛けるような印象がありました」
「ありがとうございます」

すらすらとペンを走らせて取材は続く。その後はたわいもない話だった。大方聞き終えたのか、とんとんとメモを整理した担当は、それではと前置きして最後の質問を飛ばした。

「この曲はどなたへ届けたいですか?」
「そうですね、性別や年代問わず色んな方に響くものがあればいいなと思いますが……」
「やはり、意識された方ですか?」

決して俺の言えることではないのだろうけど、ここでこのような質問をするあたり、きっとまだ経験が浅いのだろうなと思った。けれど、俺自身そんな思いがあったのも事実であるから、正直に応える。

「そう、ですね。届けばいいな、と思います」
「きっと届きますよ!」

何も知らない担当は屈託なく笑って、そう言った。
そのとき、俺が上手く笑えていたかは自分ではわからなかった。
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