深深


 かつ、と伸びた爪がスマホの画面に当たった。そんなんだから、たった三文字の数字を押すことすらままならなかった。
 心臓が煩い。指先の震えが止まらない。なんとか1を二回打つことができても、最後の0だけはどうしても押す勇気がなかった。もう何度目かもわからない躊躇の末に、全てがいやになった私は呼吸を止めたオブジェから鍵を引き抜くと、それを扉に刺して部屋から飛び出した。胸が熱くって、走っていると息がとまりそうだった。
 夢中で廊下を走っていると、曲がり角で誰かにぶつかった。

「廊下を走るのは感心しないなあ、なまえさん」
 顔を上げた先で、溌剌と笑う男がいた。その顔を見て、私の顔はさっと青ざめていく。三毛縞さん、と呟いた声はひどくか細いものだった。
 彼は狼狽する私を見ると、安心させるように微笑んだ。
「随分ひどい顔をしているなあ、ひょっとして誰かにいじめられたのかな?何があったか知らないが、ママが来たからにはもう大丈夫!ママにぜんぶ話してごらん!」
 その言葉を間に受けたわけではないけれど、彼の明るさに救われたくて、つい口が滑ってしまったのだ。
「××ディレクターを、殺しました」
 私の言葉に、三毛縞さんは静かに瞠目した。
 もちろん、わざとではなかった。相談があると部屋に連れられて、鍵をかけられた時にようやく罠に嵌められたことに気付いた。狭い部屋で、どうにか逃げようとした私に××ディレクターが抱きついてきて、それに抵抗して突き飛ばした時、ディレクターは部屋に置いてあった撮影用の機材に頭を打ち付けて、それで、
 ――それで、
 ……こんな話、ほんとうは誰にもしてはいけないのだろう。けれど、そんなことも考えられないくらい、頭はもう冷静ではなくなっていた。ぶつりと回路が切れたみたいに、脳みそが考えることを放棄している。そんな頭で思いつく言葉は取り留めのないものばかりだった。
 三毛縞さんはただ黙って私の話を聞くとぐっと身を屈めて、私にだけ聞こえる声量で話し始めた。
「……そこに、なまえさん以外の人は?」
「い、いません」
「俺に会うまでに誰かとすれ違ったりは?」
「それも、三毛縞さん以外まだ……」
 なぜ、そんなことを聞くのだろうか。三毛縞さんは私の言葉に考え込むように目を伏せたが、すぐに視線を上げた。
「なら、大丈夫だ」
 そう言うと、安心させるように私と目線を合わせて、優しく微笑んだ。
「なまえさんは××ディレクターのいる部屋に鍵をかけて待っていてくれ。俺が来たら三回ノックをするから、それ以外の訪問には扉を開けないように、出来るかなあ?」
 その言葉には有無も言わさない雰囲気があって、私は無言のまま小さく頷いた。三毛縞さんはそれを確認すると、「良い子だなあ」と子供をあやすような手つきで頭を撫でた。
「なまえさんのことは何があっても俺が助けてみせる。だから、少し待っていてくれ」
 それだけ言うと、彼は昏い廊下の先へと消えてしまった。
 私は言われた通り部屋に戻り、鍵をかけて三毛縞さんが帰ってくるのを待った。一時間ほど経った頃、ノックが三回されて扉を開けた。約束通り戻ってきた彼の手には、大きなスーツケースがあった。
「死体はこれに入れて運ぼう、これだけ大きければ詰め込めるはずだ」
「どこに、運ぶんですか?」
「それに関してはアテがある。車も借りてきたから、まずはそれに乗せて……」
 ちらりと、死体を見る。これを、スーツケースの中に――。
 それを想像しただけで吐き気がした。そんなことをしてしまったら、もう、私は、
「こんなこと、やっぱり……」
「なまえさん」
 言い終わる前に、三毛縞さんは叱るように私の名前を呼んだ。視線を上げた先で、彼は真っ直ぐ私を見ていた。それは、人を殺した私よりも、よほど覚悟のある瞳だった。
「ママがついてるから、大丈夫だ」
 三毛縞さんはただ一言、そう言った。それに私はもう何も言えなくなって、黙ったまま二人で死体をスーツケースに詰め込むと部屋から出た。幸いにも移動中に人と会うことはなかった。
 外に出ると、雪が降っていた。もう冬も終わる頃だというのに、昨日から降り続けるこの雪は未だ止む気配がない。
「ケースを後ろに乗せるから、なまえさんは助手席に乗ってくれ」
 そう促され、私は助手席に乗り込んだ。その後、スーツケースを後部座席に乗せた三毛縞さんが運転席に座ると、静かに車のエンジンが掛かる。去年、免許を取ったばかりだと言っていたけれど、ハンドルを握るその手は随分と手慣れているように見えた。
 走り出した車は、賑やかな交差点を抜けてどんどん人気のない道へと進んでいく。街灯の一つもない真っ暗な闇の中を、心許ない車のライトが照らしていた。
「そういえば、あの部屋って監視カメラとか」
「ないだろう。あったら、そんな場所に君を呼ばない」
「……そう、ですよね」
 それが、道中でした唯一の会話だった。それを聞いて安心してしまった自分が人ではなくなってしまったように思えて、嫌になった私はまた黙り込んだ。
 そうこうしているうちに車は山の中へと入っていく。夜の山は恐ろしく不気味だった。車は暫く走ったあと、入り組んだ道の前で止まった。
 車から降りてスマホのライトで辺りを照らしてみる。薄らと積もった雪に光が反射して、それがサーチライトのようだった。ライトで一層昏い木々の奥を照らすと、何もなかった闇の中から崖が浮かび上がってきた。スーツケースを車から下ろした三毛縞さんが、当たり前のようにその崖の方へと進んでいくので、私も慌ててその後を追った。
 崖の先には重石が乗せられた四つ折りの手紙が置いてあった。だが、私がその存在を口にする前に、それは三毛縞さんの足によって蹴散らされてしまった。
「この辺りでは有名な、自殺の名所だそうだ」
 三毛縞さんはなんてことのないようにそう言ったけど、その一言で、私の足はその場に縫い付けられたように動かなくなった。
「……木を隠すなら森の中とは、よく言ったものだろう?」
 振り返った三毛縞さんは、拍子抜けするくらいいつも通りで、私にはかえってそれが恐ろしく感じた。
「幸いにも死体は綺麗だ。頭を打って死んだのなら、ここから落として××ディレクターの自殺と見せかけることもできる。まあ、彼には親しい友人もいなければ、妻とも一年ほど前に離婚しているそうだから、失踪届が出されるのも、そこから死体が見つかるのもずいぶん先の話になるだろうがなあ」
 どうして彼がそんな情報を知っているのだろうと疑問に思ったが、生憎と言葉にするまでの余裕はなかった。
「さて、おしゃべりはこのくらいにして、さっさとこれを捨ててしまおう。なまえさんはそこで待っていてくれ」
「……いえ、私も手伝います」
「熱心だなあ、なまえさん。でも、ほんとうに無理はしなくて良いんだぞお?」
「そういうわけにも、いきません」
 震える身体に鞭をうち、崖へと近付く。そんな私を見て、三毛縞さんは「頑固だなあ」と困ったように笑った。
 二人でスーツケースを開けると、なんの躊躇もなくその中身を崖に向かって落とした。落としてからしばらく後に、ごとり、と底にぶつかる音が聞こえてきた。
 その音を聞いても、私は「終わった」とは思えなかった。寧ろ、取り返しのつかないことをしてしまったという後悔の方がむくむくと膨れ上がってくる。罪が大罪に変わったような気がして、寒気が増した。
「帰ろうか、なまえさん」
 彼は空になったスーツケースを抱えると、崖から目を離し私の方を向いた。辺りが暗くて、そこにあるはずの微笑みは見えなかった。まるで月の裏側にでも来てしまったようだった。
「もし、このことが誰かにバレたら、三毛縞さんも……」
 もはやこの罪は、私だけのものではなくなっていた。死体を入れたスーツケースや、ここまでそれを運んだ車の出所は分からないけれど、彼が手配したものである以上、彼はこの件とは無関係ですは通らないだろう。共犯となった三毛縞さんは、私の言葉を聞いても動じることはなく、むしろ、そんなこと分かりきっているとでもいうように笑ってみせた。
「だから、これは二人だけの秘密だ」


 深深しんしんと降る雪が、暗い崖の底へと吸い込まれるようにして消えていく。
 この雪が、私たちの罪を隠してくれるというのなら、春なんてもう一生来なくたって構わないから。

 どうか、これがやまない雪でありますように。
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