吉報を待つ


あつくて苦しくて、どうにもできない喉の痛みを何とか誤魔化そうと、私は手を伸ばしていた。四方八方で焔が揺れている。どろどろと形容しがたいなにかがとけてゆく。痛みは何も感じない。とけているのは自分ではない何者かだ。そう思い込み、もしくは信じていなければ、おそらく全て消えてしまうという予感がした。漠然とした恐怖で体を支配される感覚だけが、いつまでも残り続けるだろう。
そんなのは嫌だ、また私は何も為せない。まだ彼のために何も出来ていない。それとも、もう諦めて眠りについて、夢の中で祈りを捧げるだけでいいのか。だって、誰の力も及ばない桃源郷でなら、愛すべき世界で彼が幸せになれるかもしれないじゃないか。冗談だろ? やめてくれ。ふざけたことを言うな。
なんて、先程から胸に浮かぶ数々の想いは、いったい誰のものだ?
そこでぴたりと思考回路が途切れる。支離滅裂な思想は私の元を離れて、とうとう果てのない旅に出た。何もかもが燃え尽きて、朱に飲み込まれて直に消える。そうして全てを飲み込んだ色は、やがて黒に近づいていく。

暗転。まぶたを閉じていると暗闇に色とりどりの模様が点滅した。紫、青、次いで緑、そして黄色、そのうち形容しがたい色彩が、追いかけたり、飛び越えたり、波になったりして私の瞳の上を泳ぐ。こういうの、なんて言うんだったっけ。とうの昔に忘れてしまった豆知識を脳みそからひっぱりだす前に視界が白む。
「主、おきてる?」
襖越しにくぐもった声が聞こえる。朝が来たのだ。起こしに来てくれたのは、おそらく今日の近侍の蛍丸だろうか。なぜか背中に冷や汗をかいていて気持ち悪かったものの身体を起こした。良くない夢を見た気はするが、覚えてもいない何かに気を取られているわけにもいかない。
今日は彼が本丸に顕現してから365日、つまり1周年の記念日をお祝いしなければならないのだから。

今日も今日とて弟たちに囲まれている彼に声を掛けると、人の良い笑顔を返される。お祝いをするから、出陣が終わったら寄り道せずに帰ってくるように、と告げて、頷いたのを確認してから、私は執務の準備に向かう。肩越しに聞こえるのは、ゆっくりで大丈夫ですよ、という朗らかな声だ。早く仕事を終わらせて祝いの席の手伝いをしたい。そんな単純な考えは、本人に直接言っていないのだが、やはり伝わっていたらしい。そそくさとその場を離れると、粟田口短刀のかわいらしい笑い声も遠ざかっていく。
一期一振という刀といっしょにいると、常に心中を見透かされている気分になる。しかし、決して不快な気持ちにはならない。なぜならば、彼は心中を知ったところで、相手を傷つけようとはしないからである。敵であれば容赦はしないだろうが、彼の聡明な思考は、おおよそシンプルな道のりをたどる。それは優しさだ。誰かを思いやる心だ。弟たちが彼を慕うのも、その長所をよく知ってのことなのだろう。

昼時、木漏れ日の散る縁側を眺めていると、こんのすけがやってきた。新しい仕事と、既に手続きを終えた書類を交換して、また戻る。初夏の爽やかな風が草木を揺らす。まさに風薫る、といった気候で心地がいい。池に咲いている紫色の花の名前、以前歌仙か宗三に教えてもらったはずなのについ忘れてしまった。唸りながら思い出している間にもゆるやかに時は流れる。執務室から望む景観は変わらず美しいままだ。
しかし、突如として朝の目覚めの悪い気持ちが蘇ってきた。なぜかこのまま机に向かっていてはいけない気がするのだ。もやもやと頭に霧がかかったような心地はひどく落ち着かない。近侍にはひと足早く祝いの席の手伝いをするようにと伝えたため、既に室内にいない。相談する相手もおらず、夕刻になって仕事がようやくひと段落つくと、私は真っ先に玄関へ向かうことを決めた。出迎えをしよう。そうすれば何も不安などないはずだ。部屋から出る前に窓越しに外の様子を確認すれば、曇り空から雨が降り始めていた。

かつて正式に審神者になる前、まだ指導を受けていた際に聞いたことがある。刀は自身の記憶やトラウマを、ある拍子で思い出すことがあるらしい、と。物事の節目では特にそれが起こりやすい、とも。
本丸は無刀でないはずなのに、廊下には誰もいない。眺めているとまるで永遠と続いているような錯覚を起こす。苦しい。なぜ苦しいのかわからない。私は審神者で、相手は刀で、私は彼の幸せをいつだって祈っているのに、気の遠くなるような重たい感情が、ふとした瞬間に溢れだしそうになる。まるで今踏み出している一歩から、床下にじわりと真っ黒な染みが広がっていくように。感情の正体のしっぽも掴めないし、正しいことかどうかも判断できずにいる。迷って途方に暮れている、なんなら暮れなずむほどに。

「ただいま戻りました」
あるじ、と声をかけられて、ようやく我に返る。目の前の彼は、微笑んでいた。朗らかにやさしく、そして、少しだけ寂しそうな声。前の主の影響だと言っていた衣服は、紅から黒に変わりつつある血でところどころ染められていた。彼から出たものでないとわかると、胸を撫で下ろして、そっと肩に手をかける。壊れていないか、壊してしまわないか。私にとって恐ろしいことが、起きていないか。
「……おかえりなさい」
彼がどんな表情をしているのか、私は目を伏せていたからわからなかった。顔を合わせる資格もない癖に、目を今すぐ合わせたいと思ってしまう。情けない主だ。それでも応えてくれた。呟きにも満たない声や不安を汲み取って、彼も壊れ物に触るように私の手を取った。それを皮切りに、やっと胸のざわめきが無くなっていく。どくどくと正常な拍動を打つようになった心臓は、新鮮な血を体内にめぐらせる。濡れそぼった彼の髪から雫が次々に落ちていく。ずっと震えている指先を包み込むように、彼の大きな手でそっと握られた。まるで大丈夫と言われているみたいで涙腺が刺激される。帰ってきてくれてよかった。そんな気持ちもきっと、彼には見透かされているに違いなくて、私はしばらく黙り込んでいた。

一期一振の帰宅後、祝いの席はほどほどに楽しまれ、早々に締めくくられた。
「まだまだ飲み足りないとごねている刀もいましたが、よいのですか?」
「うん、大丈夫。むしろ勝手に仲間同士で酒盛りすると思うから」
今日の主役を独り占めしてもよいのかと当初は迷ったものの、こういうのは騒ぐ理由が必要なだけの時もある。それでも優しい彼はとことん付き合うのだろう、と思い、こっそりと連れ出したのだ。加えて、話したいこともあった。どちらかというと、そちらが大きな理由でもある。
まだお酒が完全に抜けておらず、ふわふわとした感覚がそこかしこに残っている。すでに雨は止んでおり、星空を眺めながら縁側に腰掛けていると、いつの間に用意したのか、湯のみに入ったお茶を進められたので有難くいただくことにした。ご丁寧に菓子もついている。
「これは、……柏餅?」
「はい。茶を用意する際、光忠殿が明日の八つ時にと仕込みをされていたのですが、味見をするよう頼まれまして」
このことはご内密に、と小声で告げられると、何だかいけないことをしているようで少々むず痒い。ただし、いたずらっ子のような顔をしている彼を見て、心が踊ってしまったのも事実だ。秘密の共有はあまり得意ではないが、なるべく善処することにしよう。葉を取ってから頬張ると、ほどよい甘さと共にもちもちとした食感に次のひとくちを誘われる。もう少し、あとちょっと、と食べているうちにいつの間にか残りわずかになってしまった。明日も食べ過ぎに注意しなくては。
粟田口の子はもうみんな寝たのかなと考えていると、弟たちは既に寝かしつけてきました、とタイミング良く告げられる。相も変わらず素早いはたらきの兄上に、私は感心するばかりである。隣を向けば、いつもはぴんと伸びた背筋がゆるやかな曲線を描き、月光に照らされていた。落ち着いた彼の姿を見ていると、言葉がするりと自然に吐き出される。
「今朝ね、ちょっとこわい夢を見たの」
「悪夢ですか?」
「そう、でも内容は覚えてなくて。漠然と不安な気持ちだけが残ってて、不思議といち兄が心配になったんだ」
餅の最後のひとくちと、もし帰ってこなかったら、なんて言葉をお茶で一気に飲み干す。息を吐いて、彼の双眸をちらりと見やる。
結局、私が彼を出迎えた時、同部隊にいた子らにはかなり混乱させてしまった。青白い顔をした主がずっと刀の手を握って固まっていれば、一体何事だと思うのも無理はないだろう。あの鶴丸殿を驚かせるのは主くらいのものですよ、と冗談めかして言われると、気恥ずかしさと同時に反省の念がつのる。
大勢を率いる者として、常に心を強く持たなければいけないのに、たった一時の感情に振り回されるなんて。
「まぁ、あまり気落ちせずに。私は熱烈な歓迎をされて、結構嬉しかったのですよ」
「うぅ……」
「はは、主の不甲斐ない姿は普段見られませんから」
少し安心したとも言えますな、とまた微笑んで、彼は茶を煽る。彼の動きにつられて、私もお茶をすする。正直、味なんてわかったものではなかった。親指で何度も湯呑みを撫でてはみるものの、手持ち無沙汰という言葉がしっくり来るくらいには落ち着かない。
「本当はさ、夢のせいだけじゃなくて、最近ずっと考えてたんだ。私は、元の主と比べて頼りなくないかな、ちゃんと君の主でいられているかなって」
口に出してからこれはただの愚痴だと気がつく。どうやら軽く口を滑らせるくらいには、お酒が頭に回っているみたいだ。ほら、彼も何とも言えない顔をしている。やってしまった。先ほど一時の感情に身を任せるなと、反省したばかりだというのに。
「……私も同じように悩むことがあります。あなたの刀として、家臣として尽くすことができているかと、日々鍛錬に励むばかりです。案外、我らは似たもの同士かもしれませんな」
けれども、こんな風に彼が頷いてくれるから、から回って宙ぶらりんな気持ちもつい落ち着かせることができそうになる。つくづく思う。彼がこの本丸に来てくれてよかった。

お茶もだいぶ温くなってきた頃だ。そろそろお暇しようかと思えば、ポツリ、と独り言ちるように一期一振が話し始める。
「そういえばこの時期になると、かの過ぎ去りし日を思い出すのですよ。夢敗れて永々燃え続けた、あの日を」
「……そっか」
「それで……もし私の記憶が悪さをしたのでしたら、大変申し訳ありません。本当は最初に謝るべきでしたのに、主が何を言うか逡巡しているような気がして、遮るわけにはいかんと思いまして」
刀の心境が主に影響を及ぼす、というのはわりとよくある話で、私自身も何度か経験したことがある。もし原因がそれだとすれば、私が見ていた夢というのは、おそらく彼の記憶の一部なのだろう。つむじから綺麗に生え揃った水色の髪が、川の流れのごとく揃って下を向く。頭を垂れる姿まで美しいんだな、なんてぼんやりと思った。
「いいよ。過去に囚われてるって話すの、かなり勇気が必要だったと思う。それなのに、気がつかなくてごめん」
「いえ、遅かれ早かれ話しておくべきことだとは思っていたのです。その時期が丁度いまだったというだけですので」
徐ろに顔を上げた彼の瞳に、私の姿が薄く映り込む。私の瞳にも、彼の姿が同じように映り込んでいるのだろうか。決して無色透明などではなく、有形の存在として。
いつもは弟たちに囲まれて、頼れる兄としての姿しかほとんど見ることがなかったから、私もつい忘れかけていた。彼もまた、ひとふりの刀なのだ。人間と同じ、とまではいかずとも悩むこともあるし、俯いてしまう時もあるのだ。神としての目線を私は理解することはできないかもしれない。けれども、知ろうともせずにいるのは、やはり寂しいことだ。土足で踏み込むような真似はしたくないが、彼が望むなら、否、私がここにいる限り、きちんと彼らを見守りたい。それが、私の審神者としての大事な使命のひとつではないのか。
「突然なんだけど、今から言うことが不快に思ったらごめんね」
「ええ、構いませんよ。何でしょう」
「その、……記憶がフラッシュバックするのって、やっぱりつらい?」
言ってから私はそんなことも慮ることができないのかと頭を抱える。考えるまでもなく、つらいに決まってるだろう。しかし、私が他ならぬ彼の口から聞きたいと思ってしまった。応えてくれるのであれば、どうか。いやでも、やはりやめておくべきだろうか。臆病な私が這い上がってきそうになる。
「ごめん、やっぱり忘れてほし……」
「大丈夫です、主。……そうですね。焼けてしまって、苦しい気分は勿論味わいました。しかし、その炎が未だ心中で燃えているからといって、悪いことばかりでもありません」
だって、そのおかげで私は、人間として生きるということがどのようなことなのかを、身をもって実感しているのです。
そう言った一期一振は、やっぱりどこか物悲しい目をしていた。しかし、決して自分の状況を悲観しているのではないだろうし、心を持つということがどれほど痛くて苦しくて、それでも幸せなことかを雄弁に語っている。彼は神様で、私の刀で、そして私と同じく心を持つもので、揺るぎない過去の事実さえも、それを否定することなどできない。故に、彼は優しく、強いのである。心を燃やされてなお、記憶を踏みにじることはできないのが、この刀なのだ。
彼に、私はどんな言葉をかけるべきだろう。こんな時にちょうどいい言葉が何も浮かんでこないのだ。伝えたいことは山ほどあるけど、口にするのは恥ずかしいから無難な言葉になってしまう。ええいままよ。
「いつもありがとう。これからも、……よろしくお願いします」
「ふふ、こちらこそですな」
慈しむように細められた瞳は、すっかりいつもの琥珀色に戻っていた。

「そうだ、いち兄はあの花の名前知ってる?」
「あぁ、花菖蒲ですな」
私が庭に向かって指をさすと、小気味よい返事を届けられる。目線の先にあるのは、昼間にどうして思い出せなかった紫色の花だ。付け根に黄色い模様があって夜でもコントラストが目立って美しい。文字通り膝を打つ私に、あっはっはと軽やかな笑い声があがる。
「よく似ている品種に杜若、あやめなどがありますが、見分け方を覚えれば簡単に区別できますよ」
覚えられますかな?とこちらを振り返る彼の心遣いに、これから幾度お世話になるだろうか。それは未来の私が嫌と言うほど味わってくれるはずなので、風にそよぐ花の名前を覚えることに注力するために、今の私は勢いよく頷く。
「それではもう少しだけ、夜更かしにお付き合い願いましょうか」
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