わたしの見たパレイドリア




 朝陽と共に訪れる日々は、なまえにとって掛け替えの無い、自分を自分たらしめるものであったのだ。

 ルーナ家第一王子の小姓であるなまえは太陽がその頂点を淡く海の表面へと光を滲ませると同時に目を覚まし、王子の身支度の準備を行うのだ。
 使用人達の住む下城郭と王家の住まう上城郭は真っ黒な鉄の門や灰色の分厚い壁とに挟まれており、なまえはその下を潜ることの出来る資格を持った数少ない身分の内の一人だった。かと言って常に王子の元へ自由に行き来出来るかと言えばそうではなく、こうした朝の身支度、と夜の就寝前の身支度だけが公式に取り決められた仕事であり、その他は下城郭で仕事をしなければならない、と一応はなっている。一応は。
 
 なまえは元々農民の子だった。鄙の端に産まれ、隣国との国境の麓の子だった。つい先の戦乱に巻き込まれ、名前が炎と煙と泥と血に塗れ喘いで転がっていたのを何を思ったかは知らぬ王子に助けられたのだ。
 彼女を女と知っていたか知らないか、周囲に止められつつも「こいつをおれの小姓にする」と言いのけた王子の、春に芽吹くどんな若草よりもみずみずしい瞳に、今までどれだけ見上げた物よりも美しい命をなまえは見た。

 自分の主君。
 差し伸べられた手のひら。
 この世の何よりも尊い葉。

 卑しい鄙産まれ、駑馬、散々な言われを、時には暴力として受けつつもなまえは決して逃げ出さず王子の使用人として城に居る。性別を女から男へと偽り、城に居る。小姓は女の仕事では無かった。王子となまえの歳は同じであり、今年で十一になるところであった。
 なまえは王家の紋が袖口に刺繍された自身の服に手早く着替えるとベットが一つと書き物机が一つで埋まってしまうほどの小さな狭い自室から出て各部屋を回り出す。
 桶を取り、布を取り、櫛を取り、調理場の端の方を使わせて貰い水をケトルで沸かし始める。以前はこの時間に物を取りに行っていたが、最近は目を離した隙にケトルごと窓から捨てられていることも屡々であったのでシュンシュンと口から湯気を出し沸くまで見張っている必要があった。
 調理場で忙しなく働く料理人達は端の方にいる自分になど構っている暇が無いようにしつつもまるで存在を忌諱するみたいにして視線をやったり敢えて避けたりする。
 王家の使用人とは元々ある程度の身分がある者が採用される事が多く、なまえのような立場は異例中の異例なのだ。

「ほら、邪魔だよ」

 自分の足元に位置する棚に用があったらしく、しっしと手の甲でなまえに避けるよう言ったシェフが居り、なまえは無言で避ける。
 それが気に食わなかったのか。否、恐らく存在ごと全てだろう。苦々しげに舌打ちをする。

「全く、どうして王子もこんな卑しくて穢らわしい子供なんか……」

 なまえは自分に悪意が向けられる事に対しては何ら感情を抱きはしなかったが、自分を理由にして主君を貶される事がいっとうに許せなかった。言う相手も、言わせてしまう己自身も。
 シェフをぐっと下からなまえが睨み付けると、相手は少しだけ怯みながらも棚から取り出した鍋を強く握り背を向けた。

「な、なんだよその目。本当に気持ちが悪いな!」

 吐き捨てるように言葉を吐かれた後、ケトルが白い湯気を吐き出し始めたのでなまえもその背から視線を外して用意した桶にお湯を張る。
 揺らぐ水面に気を付けながら両手で桶を持ち、厨房を出る。そうして下城郭から上城郭の門を潜るのだ。
 ここで真ん中の王子の部屋まで続く直通の道や階段を上がって行こうとすればこれみよがしに他の使用人達に衝突されたり脚を掛けられたりする事は明白なので、なまえは遠回りをして緊急時用の外壁に取り付けられた螺旋状に張り付いたような階段をそろりそろりと登っていく。
 王子の部屋へは窓から入る事になるが、それは王子にも承諾を得ている為まあ二人の間では問題では無い。
 この国は欧州の北西の方に位置していて、六月の今は一年の中でいちばん気候が安定していたが、朝も夜も酷く冷える。冷たい風が容赦なくなまえの身体の周りを通っていったけれど、熱いお湯がこれでちょうど良い温度にもなるのだ。
 なまえはその真っ黒な目を縁取る睫毛を揺らし、寒さで潤む目を瞬きをする事でやり過ごす。

 王子の部屋の窓枠部分まで辿り着き、片手で一度桶を持ち空いた手でコンコンコンコンと窓の硝子を叩いた。
 返事も無ければ窓が開けられる様子も無い。
 なまえがもう一度叩くも、返答は無い。
 カーテンが閉められている為に中の様子も確認できず、普段であれば一回のノックで開けられる窓に不信感を抱きなまえは失礼を承知で窓を外から開けた。
 なまえがこうして窓からやって来るので、王子はいつも鍵を閉めずに居るのだ。なまえは度々閉めておくよう伝えるも、今日ばかりはその癖に感謝した。
 窓枠に足を置いて部屋の中を確認するも、中に王子は居なかった。
 一体どうして、と名前の胸の中の不安が大きく塊になり渦巻いた。もしや王子の身に何かが、とそれが体外に出ようとした時。

「あぁなまえ! ごめんごめん!!」

 聞き慣れた声を城中に響き渡るのではないかと思う程の声量で部屋の中に駆け込んで来た。
 ぶわりと、開け放たれた窓の外から風が勢いよく舞い込み、カーテンとなまえの濡場色の少し長く細く癖毛の髪を揺らす。顔を見せたくないばかりに伸ばされ表情を隠すなまえの前髪も舞い上がり、王子の安否を確認出来たなまえは安心したように笑った。

「殿下、良かったです。本当に」
「……あ、うん」

 名前は窓枠から降りながら持ってきた桶やら布やらをテーブルへと並べて行く。冷えるので窓も閉めた。王子の部屋は広く、なまえの部屋の何倍もの広さがあった。
 王子がベットの方へと歩いて行き腕を差し出したのと荷物を置き終わったなまえがその腕を軽く取り袖口の釦を外し始めたのはほぼ同時だった。
 釦を外し、上着を脱がせ、シャツを肩から抜き取り、上半身に纏う布が無くなった王子に、温くなったお湯で固く搾った布で背中の汗を拭いていく。王子が朝に行われる剣技の稽古が終わり部屋に戻って来る時間に合わせて身支度を整えに来るのがなまえの仕事だった。

「今日遅れてごめんな。心配かけた」
「いえ、へ、平気です」
「師範が妙に今日は気合い入っててさ? レオ王子! もう一本! って何回も何回も言うんだよ。終いにはおれが吐くぎりぎりまで絞られてさ。流石にもう無理ですーってなってようやく解放されて。なまえが待ってるのよく知ってたし、剣も握られない程疲れてたしで困った〜!」
「っあはは、それは大変でしたね」
「……なぁなまえ」

 なまえが身体を拭いている最中も身振り手振りで物真似も交えつつ話す様が面白く、なまえが声を出して相槌を打ちながら笑っていれば、王子を正面に向かせ向き合った状態になった際にふと声を掛けられる。
 先程とは変わった声質になまえはぴたと手を止めた。肩辺りに置いていた布が冷えただろうか。もう一度布をお湯で絞ろうとして、その手を掴まれる。
 王子が表情を顔から落とし、なまえをその翡翠色の萌黄を煮詰めた瞳にただただ映していた。手を掴まれているいないに関わらず、その目に魅入られるようにしてなまえは途端に身体を動かせなくなってしまう。

 自分の手を掴んでいない方の王子の手のひらが名前の表情を隠す長い前髪に移り、中を覗き込もうとするみたいにしてさらと避けられた。
 普段よりもよりはっきりと見える王子の葉の瞳と真夏に地中海で実るオレンジの皮をより凝縮してなお伸ばした髪とが、やがて誰もが振り返る美丈夫になるであろうと想像の容易い整った顔が近付けられる。
 
「で、でで殿下」
「なまえ」
「は、はい」
「お前髪切った方がいいよ」
 
 に、と悪戯好きの子供のように微笑まれる。どうしてだかその顔を見ていられなくて、なまえは身動きが取れないままに目を固く瞑った。
 目を瞑るなと言われたが、なまえはぶんぶんと首を横に振るばかりで何が面白いのか王子は喧しい笑い声を城内に響き渡らせていた。

 支度を終えた後は王子の用意されている朝食の毒味を行う。王子が移動する際半歩後ろを歩き王子一人だけの為の広間の中心に置かれた白い布の掛けられた長テーブルの主賓席に座る王子の横に立ち、並べられていく料理のひとつひとつを目で見て香りを嗅いで口に含んで嚥下する。
 王子はその間手持ち無沙汰なのだとは思うが、口にしている最中こちらをじっと見てくるのはどうも居た堪れないのでやめて欲しいとなまえは思う。伝えた事が無いわけでは無いが、ただ「すまん」と言われた。言われただけだった。つまりは改善しなかった。

 朝の仕事を終えた後は上城郭を出て下城郭に戻り別の仕事をする、ように一応はなっている。一応は。しかし例えば、このように。

「なまえ!」
「で、ででっ殿下!?」

 窓からノックも無しに部屋になまえの部屋へ転がり込んで来ては、王子はなまえを連れ出すのだ。
 これもまた他の使用人達にはよく思われていないが、王と王妃は自分らの子供に変な方向に甘いようで特に何も言わず手放しにしているのが現状だ。
 王家直属の騎士の子供達の家や別国の王族の子供達を見ていれば自然と理解は出来たが、この歳であれば両親や周囲からの愛をふんだんに受け成長する子供が自身はどうやら少し違うようだぞと知った時に何をしようとするか、思うかは個人に委ねられるとは思う。
 しかしなまえは、そう言った奔放な愛を正しく受け取りここまで来た王子が自分を拾い上げ近くに置いているのはきっと自分を友人として扱い、自分の居場所として置いておきたいのだと思っている。
 けれどもどんなに王子が自分を友人としたくとも自分達の身分の上ではこの主君と小姓と言う主従関係で精一杯であり、何より自分自身、なまえ自身がそれ以上を願っていないために叶えられないことを薄らと自覚しているのだった。

「今日さ、刀礼があるらしいんだよ」
「とうれい?」
「騎士叙任式! おれの父様が騎士見習い達に佩剣の儀式を執り行うんだ」
「騎士見習いが騎士になる儀式ですか」

 王子は頷いた。

「見に行こう」
「えっ」

 なまえは止めた方が良いと思った。そう言った儀式に子供が参加する事は無いし、参観する事もその場にいる事も許されない場合の方が多い。お子様は邪魔なのだ。
 
「で、でもそう言うのってボ、ボク達にはまだ早いんじゃあ」
「だからこっそり忍び込むんだよ」
「えぇ……バレたら怒られますよ」
「そん時はそん時!」

 ただでさえ狭い部屋に二人で床にしゃがみ込んでコソコソと小声で頭を突き合わせて話す。それでも煮え切らない態度をする名前に、王子は突然立ち上がったと思えば名前のベットにジャンプして登った。
 ベットの上で仁王立ちし、腕を組んで床にいるなまえを見下ろす。

「おれの母様だってな、やりたい事はやった方がいい、友達は大事にしなさいって言ってた!」
「王太后が」
「なあなまえ、行こう。こんな所に居なくとも。おれはおまえとなら何だって出来る気がする」

 王子はそう言って上からなまえに笑って手を差し伸べた。
 なまえには、あの炎の中でその手を取った時から、この手を取らないという選択肢が無い訳が無かったのだ。

 騎士でも友人でもないただのものであった自分に、自分たらしめるものを差し出された、その時から。

 叙任式は城の敷地内に置かれた聖堂の中で行われた。一夜中祭壇に置かれた剣に祈りを捧げていた若者達の元に王が歩いて行き、儀式を執り行うのだ。
 王子となまえは儀式が行われる寸前で聖堂の司祭達専用の出入口から滑り込み、祭壇の前から後ろにずらりと並べられている横長の椅子たちの一番後ろに背中をぴったりと付けるようにして隠れた。
 そのままおそるおそる頭だけを出すようにして、王に跪いて口上を述べる若者達を見た。ステンドグラスを通り染まった光たちを浴びる王の背と剣達に二人は言葉を忘れて魅入った。
 赤と青と黄と緑と橙と桃と、鮮やかに光りを浴びるその刀身と頬に。

 儀式が終わり騎士となった見習い達も王も居なくなった聖堂で、なまえと王子は顔を見合わせる。

「なんだかとても厳かな感じがしましたね」
「ああ!」
「あれ、その内殿下がやる側になるんでしょ?」
「そうなる筈だぞ、多分」
「そしたらボク、またこうして見に来ます」
「見に?」

 王子の問に、きらきらとした目のままでなまえは頷いた。

「殿下があのステンドグラスの下に立って、跪いた騎士たちに剣を授けて首打ちする所。絶対かっこいいと思います」
「……そうか」

 王子はそう何処か思うような生返事をする。なまえがどうしたのかと尋ねる前に、王子は立ち上がった。なまえの手を引っ張って。
 無理矢理立たせるようにした為によろめきながらだったが、王子がなまえの手を引いて椅子の影から出て中央の道を走った。紅い絨毯が引かれており、その上を。ステンドグラスの光が降りている祭壇の前まで走る。

 王子がなまえの手を離し、振り返る。ステンドグラスの光を背に浴び逆光になった翡翠の瞳が、名前を捉える。
 その神々しさに、思わずなまえは片脚を床に着けた。つい先程、騎士達がそうしたように。
 王子の視界の中でなまえが跪く。
 ステンドグラスの光が彼女の四肢に沿うように染まっている。鮮やかな赤も青も緑も、全てひとつひとつ触ってなぞってやりたい感覚に襲われたが、王子にはその理由が分からない。

 ただ触れたいと、幼い王子は思った。
 何も言わず王子のは一歩近付き距離を詰め、前髪を攫うように手を伸ばした。
 顕になった白く陶器の様な肌に、薄いそばかすが付いている。丸い黒の目は美しく、夕陽をとっぷりと包み込む夜の帳さえも自身を恥じて降りては来ないだろうと思った。
 その目を縁取る長い睫毛が震え、濡場色の少しばかり癖毛で肩口まで伸びている髪の数本が首に張り付いている。薄い桃色の唇がほんの少しだけ開いて、中の赤い舌がちらと見えた。
 王子は不思議と口内に溜まった唾液を飲み込む。やけに粘性の高い唾液だった。
 前髪を掬う手を頬に移す。耳元から頭を支えるように移せば、その手首をなまえの病的な程に白く鮮やかに色とりどりに染まる手のひらで押さえられた。
 まるでその手を離すなと言わんばかりに。
 なまえは無意識か意識的か、王子には知り得なかったがしかしその自身の頬を支える手のひらに自分の頭をやんわりと擦り付けるようにした。
 王子の手を掴み、二、三度。
 柔らかい髪の感触をひらに感じる。

「っ、あ、なまえ」

 言葉を受け伏せられていた睫毛が上を向き、黒玉が空を見上げた。
 王子は再度唾液を飲み下さねばならなかった。
 空いている方の手を知らず知らずの内に握り締めており、王子はゆっくりと手を開く。手汗が酷い。

「殿下」
「なまえ」

 なまえが王子を呼び、それを遮るようにして王子は小姓の名を呼んだ。名を呼ばれた小姓は一度睫毛を震わせ、そして乞うような視線を向けた。
 王子は喉の奥の奥まで、身体中が乾いたような気がしていた。

「おれを、殿下と呼ばないで」
「で、殿下?」
「レオと」

 王子はそう呟いた。声変わりが始まりかけた、少し掠れた声だった。
 線が細く、ステンドグラスの光の中に毛先を溶け込ませてなおその色を失わない真夏の太陽を思わせる橙の髪に、その丸い瞳に閉じ込めた萌黄色。どんなに厳しい冬を乗り越えた葉だって、自身の色を恥じて土に戻るほどに燦爛としている。鮮やかな色を背中に浴びた彼の姿は天からの使いと言われたとしても何の疑いを誰も持つ事は無いだろうと思えた。
 なまえは自身の口の中が乾いていることにその時気付いた。いっそ神神しいその姿を見て、口を何度か開けたり閉じたりした後に、喉から声を絞り出そうとする。
 期待するような視線が交差した、のちに。

「そこに誰か居るのですか?」

 教会の入口の方から、ひとりの神父が顔を覗かせていた。なまえと王子をその視界に映すなり、少し呆れたように近付いてくる。

「もう、勝手に忍び込んではなりませんよ。今日は特に。ほら王には秘密にして差し上げますから静かにお戻りなさい」
「はーい」
「は、はい」

 王子が差し出した手を軽く取りながらなまえは立ち上がる。その手を直ぐに離してしまった後に、王子はぱたぱたと中央を走って行ってしまう。慌ててなまえが追い掛けようとしたところで、神父が呼び止めた。

「きみ」

 はい、と返事をしてなまえが振り返れば何処か憐憫を帯びたような表情をした神父が見つめている。

「いつまでそうしているつもりなんだ?」
「いつ、まで」
「分かっているんだろう。そこは君の居場所では無い」

 なまえの睫毛が震えた。喉から言葉を絞り出そうとして、何も出て来ない事を察したところで後ろから王子がなまえの名を叫んだ。何してるんだー? と呼び掛けられたのを起点に意識を取り戻すようにして、神父には一度礼をしてから背を向けて走り出した。
 二人の足跡を残すみたいにして、ステンドグラスの華やかな色がカーペットに落ちていた。
 


 その日は王城で諸侯会議が行われる日だった。親に連れられた騎士の子達にとっては、王城に王子への謁見と名を打ってただ遊びにやって来るだけなのだが。
 朝からよく晴れていて、過ごしやすい気温と日差しは常に微細な雨を空より賜るこの国では珍しいひと月に相応しい天気だった。
 稽古もそこそこに(どうせそのうちその辺に脱いで投げ捨ててしまうであろう)来賓用のマントと礼服を着た王子が友人と会うことへと期待を抑えられずに駆け回るので、なまえは服が縒れる都度直してやらねばならなかった。
 昼になり掛けたあたりで城の外が少しばかり騒がしくなったので、諸侯らが到着したのであろうことが分かる。本来ならば城の者としてなまえも門の方へと出迎えに行くべきではあるが、王子の傍に仕えるものとして例外を賜っていた。
 王子に行きましょうと伝え、下郭の方へと降りていく。

「よ! 元気してた?」

 客人用の談話室に集められていた子供たちは、王子が室内に入ったと言うのに思い思いの体勢で、思い思いに過ごしていた。れおくん、と辺境伯の嫡男であるセナが返すくらいで。他の者たちが見たら卒倒物である。すぐさま頭を掴んで下げさせるだろうが、これが彼らの普通だった。彼らは普通の友人であったのだ。
 貴族の子息達でありなまえと王子と同い歳であるセナと、ひとつ下のリツとアラシが王子に笑いかけるのを見てなまえは部屋を後にする。昨晩のうちに用意しておいた茶菓子と飲み物を用意して、再度持って行った。

「あんたもこっち来たら?」
「いえ」

 朱に染まっている香り高いお茶を淹れた後に扉の方にぴったりと背を付けるようにして立っていれば、セナがちらと視線を向けてなまえに言う。

「別に俺たちはなまえのこと嫌ってないよ〜ほらほら」
「……いえ」

 火が灯されていなくとも、暖炉前に置いてあるたっぷりの綿を柔らかな布で包んだ椅子はリツの居場所だった。行儀悪く頭を持たれ掛けさせたまま手をひょいひょいと子招いたが、なまえの態度に「そ、」と返したきり頭を引っ込めてしまった。背もたれの奥で寝ているのかもしれない。
 彼らは互いに使用人達から着せられた六月の気候に見合わない分厚く重たいマントや上着を脱いでその辺の椅子やら机やらに放り投げてしまっている。この国を表す刺繍であったり貴族の家紋であったりがのさばっている状況を、なまえも慣れたとは言え少しばかりくらくらしてしまう。仲が良いならいいんですよ、えぇ、大丈夫大丈夫……他の人が来たら無理やり被せでもすれば、うん……なんて。

「今日ってお前たちの父上方は何しに来たんだ?」
「なんか下水の設備がどうとか言ってたよ、資金がどうしても足りないから国に下ろしてもらうしかないって」
「最近海の向こうから海賊が多いから、防衛の方法? こないだウチからも新しく騎士に任命されてる人が増えたから人の割り当て、みたいな」

 へぇ、と聞いておきながらもう興味無さげに窓の方へと王子は意識を向けてしまっている。かと思えば、ガタッと立ち上がって窓へと駆け寄ってしまう。そのまま張り付くようにして外を見て、嬉しそうな声を上げた。

「ルカたんだ!」

 ちょっと行ってくる〜! と王子が部屋を出て行こうと駆けて行くのでなまえは慌てて追い掛けなくてはいけなかった。殿下! と叫んで、脱ぎ捨てられているマントを引っ掴んで。けれどもあっという間に大きな扉を抜けて廊下の向こうへと去って行く橙に溜息を吐いた。
 その様子を見ていたアラシが、持っていたカップから口を離しソーサーに下ろしてなまえを見詰めた。人からの視線に聡かった故に、そちらの方を見てなまえは目を逸らす。もう、と揶揄うように笑った後に立ち上がった。そうして入口で立つなまえの腕を軽く叩く。

「行くんでしょ、ほら。一緒に行ってあげる」
「あ、えと。いえ、必要ありません」
「ほんと言葉選びが不器用ね、はいはい」

 あうあうと呻いているなまえの向きをくるりと変えてやって、アラシは季節に見合わない外套を羽織り直してから部屋を出る。後ろからリツが「トイレ?」と聞くので「お花摘み」と返したアラシだったが「それ違いある?」とセナが窓の外を見ながらぼやくのを聞いた。
 抱えた重たい布の上で、ちらちらと舞う埃が窓から差す陽光で輝いては空気に溶けるように消えていた。深い紺色の生地に銀色の細い糸で編まれた刺繍は、いつも彼を王族たらしめんとする。

「悩んじゃって」
「え」
「聞いて下さいって言ってるみたい」

 家族も兄弟も友人も居ないなまえにとって、王子の友人らは皆々等しく王子の友人、また自身が仕える身である。けれどもこのようなただの小姓にさえも友人と同等の距離感で話をしようと声を掛け視線を合わせて下さるものだから、なまえはなんとも居た堪れなくなる。
 何処かお姉ちゃんだの、お友達だの、兄弟だの、そう言い表したくなってしまうのだ。それが酷く恐ろしくて、酷くこそばゆい。この感情を上手く表す言葉が見当たらず、なまえは口を微妙に歪めて閉じた。
 彼等がこの城に来る度にかけっこだの隠れんぼだの騎馬試合ごっこだのに巻き込まれるのは、なまえにだって尊い時間であるのだ。

「無理にとは。言わないけれど」
「……無理に、なんて」

 アラシの少し気落ちしたような声色に、なまえはパッと顔を上げた。菫色より青の深い目がこちらを見据えていたので、なまえも喉を固く強ばらせた。数回力の入った口を開けて、閉じて、開ける。

「ボク、いえ……わ、私。いつまでも殿下の傍で仕える事が出来ないって、知ってるんです」

 わたし、と発音された音を聞いてアラシは少しばかり目を大きく開いた。自身の靴擦れの音が、自身の袖が擦れる布の音が、何処か蛹が裂ける音のように聞こえた。

「やめるの?」

 アラシの言葉に、なまえは恐怖に似たような顔をしたが、すぐに目を閉じると緩く首を振った。

「やめなくちゃ、いけない」

 なまえが知らず知らずの内に力を込めた指先は白く色が変わってしまっている程だった。抱えているマントに皺が寄るのすら気付かずに。
 コツコツと、石の床を歩く音だけが簡素な廊下に響いていた。やがて庭へと続く門の前に辿り着いて立ち、なまえが取手へ手を伸ばすとアラシが口を開いた。

「……それは、誰が望んでるの? 少なくともアタシ達はアナタを友人と思うし、何より彼だって」
「だから駄目なんです、私が居てはいけない。貴方達だって騎士だもの。主君の身に起こる何某かがあって、それの原因が私ではいけない」

 それに、となまえは扉に掛けた手を一度下ろしてからアラシを見た。自嘲気味に頬を吊り上げて。

「私は、佩する剣を持てないんです。私では、貴方達の様に殿下の剣にも盾にもなれない」

 女だから。と、春風に薄く攫われる葉よりも薄い声でなまえは呟いた。

「やっても無いのに言うんじゃない!」

 けれども突然後ろからまるで蹴るようにして投げ掛けられた凛と張った声に、なまえは驚いてしまう。慌てて振り返れば、そこにはギュッと口を絞ったセナが立っていた。トイレ長くない? と不機嫌そうに。待たされた故に探しに来たらしい。

「アンタ勘違いしてるでしょ。別に俺たちはアンタがれおくんの小姓だから仲良くしてやってるんじゃないの」
「あんまり卑下されてもなぁって感じはするよね」
 
 いつの間にやらリツも来ていたらしい。セナが軽くなまえの手首を掴み、自身の腰に佩してある剣の柄の部分を握らせた。見習いとは言えど、騎士の分身とも言えるそれに。

「腕の良さも必要だよ。でも結局の所主君に仕えるってのは心の方がどれだけ研磨されるかってこと。アンタがれおくんの剣になれるかどうかなんて、わかんないでしょ」

 今は。とセナの形の良い唇が言葉をなぞった。窓から差し込んでいた光が柄に反射して眩しかった。そうですね、と薄ら微笑んで返したなまえに、セナは手を離した。
 なまえが扉の方を再び向いて、丁寧に扉を押して出れば、中庭に続く薔薇の生垣が真っ直ぐ続いている。花と青々とした香りが息を吸う都度鼻と肺を満たしていく。

 奥の方から、人の話し声がする。
 歩みを進めれば、茶会用の白いレースみたいに編まれた椅子とテーブルに腰掛ける王と王妃。そして姫様、その前に立つ王子が居た。
 軽やかの穏やかに広がる談笑と、普段ははちゃめちゃな動きばかりする王子の手足がぴんと伸ばされ騎士らしい佇まいがどうも頭で一致しない。まるで別人の様に、王家様スイッチが入る王子を見るとなまえの脳内はいつだってちぐはぐになる。いい加減慣れなければならないと言うのに。
 きっとこういう小さな齟齬すら噛みきれないからこそ、自身は。と考えたところでやめた。隣に立っていた子らが行儀よく王夫妻に跪いて挨拶をしていたので、なまえは視線だけで王子が忘れたマントを持ってきたことを示す。
 猫のように一瞬だけ瞳孔を開くようにした王子が背筋を伸ばしたまま歩み寄ってきてからなまえに背中を向けたので、そのまま肩に掛けてやる。釦と紐を正しく結び、皺を取る。普段ならマント位自分で着れるよと王族らしからぬ言動と行動をする王子も、家族の前ではこうして"弁えた"行動をするものだから不思議だ。

「それでは私達は先に戻ります」

 アラシが王子の方を見て微笑んだのでそれを見て王子はいや、と理知的な笑みを浮かべた。

「俺も戻ろう。待たせるにも忍びないからな」

 妹の前だとカッコつけたがるんだから、とその場に居た姫君を除いた全員が心中で含むように笑ったがそれは勿論当人以外の預かり知らぬところである。
 適当に話を切り上げた王子は子らを引き連れ小姓を引き連れ、元の部屋に戻ろうとした。庭を通り、扉を開けて、廊下を歩いている最中に、突然前を歩いていた王子がかつんかつんと床を鳴らして小走りするようにしていちばん後ろを歩いていたなまえの目の前にやって来る。

「なまえ、お前にだって握れるよ」
「え」

 王子は自身の腰にある剣を軽くなぞった。

「誰にだって平等なんだ。だから平民にだって革命を起こすことが出来る。勿論稽古を付ける場所だとか人だとかには差が出るさ。でも、剣を取るのは意思一つで充分だ」

 扉の前での会話を聞いていたのかと、なまえは訪ねようと思ったがしなかった。愚問であると知っていたから。自身がきっとわかり易すぎたのだ。その内容を知ろうが知らまいが、悩んでいるとそう主君に見通され気を遣われた。
 これではいけないなと、なまえは自身の頬を弱々しい力で叩いた。小さな火花みたいな音が廊下に鳴る。

「またそうやって自分を責める」
「いえ、もう、大丈夫です」
「……おれの傍に居る為には、一人の騎士として居てもらわなきゃ困るんだ。ここはそう言う国だから」
「はい、殿下」

 なまえの言葉は廊下の空気に烟って消えた。輪郭をぼろぼろにして消えた。目の前の男が受け取らなかった為である。
 少しばかり眉を顰めて、不機嫌そうに目を細めて口を捻らせてなまえを見ている。あのさぁ、と今にも叱りそうであった。

 殿下? と、どうなされましたか、と声を掛ける度に眉間の皺は深くなっていくのでどうしたものかとなまえが慌てていれば、ふと数日前の掛け合いを思い出す。
 そうして、王子の求めるものを理解した途端に顔が羞恥の熱で燃えるような気持ちになった。同時に首筋から背中の方まで凍ってしまいそうな程に悪寒が襲った。喉が渇いて仕方がない。唇はこんなにも乾燥していなかった筈だ。
 縺れる舌をどうにかこうにか抑えて、なまえは口をゆっくりとひらく。

「レ、レオ、殿下」
「違う」
「レオ王子」
「変わってない!」
「……レ、レオ様」
「わざとやってる? そろそろ怒るぞ」

 勘弁してくださいと顔から煙と冷や汗を存分に出し尽くしそうななまえに、王子は一歩距離を詰めた。なまえが驚いて一歩下がり、その分王子は前に進んだ。
 再度なまえが下がろうとしたので、王子はその両手を相手の肩に強く乗せて固定する。

「友達だろう、おれたち」

 お前は変われるんだから、とその黄緑がなまえをぐっと見詰めた。
 その眩しさをなまえは見ていられなくて、視線をうろつかせる。どうにかこうにか下を見れば、王子の腰に佩してある剣の柄が見えて、あぁ成程と思う。

 自身がどうして王子の友人等とのさばる事が出来るだろう。そして王子も何故そのような事を言うだろう。
 この城で産まれてしまったが為にある運命とその道の中で、泥まみれで転がり込んでしまった自身を、何故友人と言うだろう。
 なまえには到底理解が出来ぬ事だった。

 理解する必要も無い。何れなまえはこの城を出て、王子から離れる必要があるのだから。自身には王子と共に歩む資格が無いから。

 けれども、この剣を取る覚悟を決めてしまうのならば、少しだけ、少しだけだが理由となるのだ。
 王子の友人であることの。王子の傍に居ることの。

 王子と自分との関係を、断ち切る必要があると言うのに、だのに、何故なまえ自身はこうして覚悟を決めてしまおうとしているだろう。

 それは当然、なまえ自身が王子と歩みを進めたいと、心の奥底でそう在りたいと願ってしまっているからに違いないのであった。
 それを本人は理解していた。だからこそ、なまえは未だにこうして悩みを晴らせないままでいる。

「レオ」
「……なまえ」

 身分が鎖となるだろうか。
 性別が鎖となるだろうか。
 まだ幼い二人は気付かないフリをしたままに、互いの目を見て笑いあった。無邪気に。

「見ていて下さい」
「勿論!」

 夕方の、薔薇色の光が石畳の暗い廊下に差し込み始めている。花の香りが、薄らぼんやりと鼻腔をくすぐった。


 
 それから数年が経って、なまえと王子は共に十五になる頃だった。その日は六月のある日で、またも珍しく一年の中で湿気の無い気持ちのいい日だった。

「おはようございます、って、わ、うわっ、ちょ!」

 その日もなまえが湯の入った桶を持って王子の部屋の窓を開けると、吹き込む風に煽られた紙が部屋中に舞った。視界いっぱいに広がる紙、紙、紙。
 その内の一枚が外に飛び出して来たので、なまえは桶のお湯がこぼれ落ちない様に必死に抱えながら腕を伸ばしてなんとかキャッチする。

「な、なんですかコレ」
「楽譜」
「楽譜?」

 慌てて中に滑り込むように入って窓を閉めながらなまえが問えば、大量の紙や本に埋もれた部屋の主は飄々と答えた。
 まあ以前からちょっと(オブラートに大変包まれた表現である)人とは違った行動の多い王子であったのでなまえもそんな王子の姿になんら疑問も持たずになるほど、と答える。

「最近おまえも稽古でこっち来るのちょっと遅くなったろ。その時間使えるなって思って」
「すみません……」
「なんで謝るんだ? まあおまえの時間がどうこうって無くても多分おれは曲書いてたよ」
「え」

 書く? 曲を? なまえが布巾を絞りつつ振り返れば、バサッ! と紙と本の間から人が一人出て来たかと思えばその人物は黄緑の目を細め、にやりと口端を吊り上げて笑っている。

「おれはどうやら天才らしい」

 舞い散る紙。ばさばさ落ちる本。ぼさぼさの頭に、満足気な表情で山の中から手を伸ばし、一枚の紙を見せ付けてくる。
 五線譜に描かれた連続する蛞。

「……これを、レオが?」
「そう!」

 どうだ見てみろ、どうだ驚いただろうと鼻息を荒くして期待している王子。
 
「申し訳ないけれど私に楽譜は読めないです」

 学んだことが無いので、となまえが付け加えれば王子はやはり得意げに、にんまりと笑った。

「おれも!」
「え、でも、書かれてますよね」
「うん」
「歌って頂けますか」
「もちろん! おまえの為ならいくらでも」

 そう言うと、王子は散らばった紙の中に手を伸ばしてざかざかと束を作っていく。どれがいいだろうな?  と目をきらきらと輝かせている。

「これは六月の曲! これは我らが祖国の曲! あ、これは」

 この短時間で一体いくつの曲を書いたのだろう。次から次へと掘り出していった王子だが、一枚の譜面をじっと見詰めた後にその黄緑の葉の色をなまえへと移した。
 先程までにこにこと笑みを浮かべていた顔からすとんと表情が落ちた。数年前より精悍になった輪郭が、妙にはっきりと見えた。なまえが少々落ち着かない気持ちになっていれば、またにぱりと王子は笑った。

「なまえの曲だ!」
「わ、私の?」
「そう。曲名は〜、まだ決めてない!」

 歌ってしんぜよう、と妙に咳払いをしてから王子はその形のいい唇を開いた。初めて聞いた旋律は何処か馬の走る足音の様でもあり、風が柔らかに葉を撫でていく様でもあった。時折冷たく感じる気配が何処か、そう、この雨と雨の間にある現在の季節のようでさえあるような気がした。口遊みやすく、けれども何処かこの曲を形取る物に軛を使っているような気配を感じた。そこがどうも厳かで、そして自由にも聴こえるのだ。
 なまえは主の声によって紡がれる自身とその音とを聞いて、あぁ確かに、と呟く。

「……天才だ」
「だろ?」

 王子は珍しく天真爛漫に笑わず、奸計を含むような笑みをした。

「おまえも歌ってみればいい。この曲には続きは無いんだ、まだまだおまえが続くから。今のおれじゃ書けないおまえが沢山沢山あるから」
「それじゃ、まるで続きをレオが書いてくれるみたいですね」
「何言ってんだ、当たり前だろう!」

 いつの間にかすっかり布巾やら桶やらのことは忘れて王子の前に立ち尽くしていたなまえの両手を取りながら、王子もなまえの目の前に立ってやった。かしゃ、とちょっとだけそれに抗議するような音を紙束達が奏でた。
 驚いている表情のなまえに向かって、王子は燦爛とした光を目に湛える。言っただろ、と。

「おまえの為ならいくらでも!」

 幼い頃、まだこの城に招かれたばかりの頃に、一度秘密だからと王子に果実水を分けてもらったことがあった。
 あれは恐らく桃や林檎やオレンジやらが蜂蜜と砂糖とで煮込まれたものをよく冷やしたもので、喉にへばりつくようで爽やかな甘さを流し込んだ時の胸にたっぷりと満ちていく何かの感覚に、それはそっくりだった。
 喉が震えるほどの甘美さを、喉が焼け付く程の幸福を、頭の上から足の先まで満ち溢れた気分だった。己の生きてきた意味を見つける、とはまた違っていた。

 この世に生まれてきたことを恐ろしくなるほどに贅沢に感謝してしまうほどの、幸福だった。

「……ありがとう、ございます。レオ」

 王子は笑った。その小姓、否、友人も、また笑った。

「あ、忘れてた。身支度も整えてしまいましょう」
「わ! ほんとじゃん! 今日なんかあったよな!? なんだっけ!」
「城下町のご視察ですね」
「完全に忘れてたな」

 わはは! と王子が笑い、なまえと王子は同時に床に散らばる紙たちを見た。まあ確かに忘れてなきゃ集中も出来まいて。
 なまえが先程贈られた自身の曲のフレーズを、脳内に残っていた部分を無意識のうちに口遊む。

「〜♪、〜♪」
「いいね、そのまま続けててくれよ」

 王子はそう言って、主旋律はなまえに任せたままで対旋律を鼻歌し始めた。先程は聞けなかった。なまえが王子のカフスを踊るように取って、王子は軽やかにもう片方の腕を差し出して。
 朝の青い空気の中でこんじきの光が差し込む部屋の真ん中が、まるで二人だけの照明の当たるステージのようでもあった。
 二人にしか知らない曲の、二人にしか出来ないめちゃくちゃなダンスの、二人にしか作れない空気の中。
 なまえがもうとうに冷たくなってしまった桶のお湯で絞った布巾をそれはそれは大変不敬にもまあいいかえいやと王子の肌に当てれば当たり前の如く王子は冷た! と叫んだ。

「いや冷た!」
「っはは、我慢してください。レオにも責任がありますから」
「おまえ一応おれに仕えてる身だろう、お湯くらい張り直して来いよ! ほら!」
「わぁーっ!? つめたい!!」
「わははは! なんだなまえ大きい声出るじゃんか!」

 水になったお湯を掛け合うだの、歌を歌い合うだのをしていれば、それがあんまりにも楽しくって、二人は時間なんか見ていなかった。
 気付けばもう門の方に支度をして出て行かなければいけない時間になっており、大慌ててでなまえは王子に服を着替えさせて約束の時間十五分後に出迎えの馬車の前に駆け込めば、付き添いの騎士や馬主やらに、やれやれと肩を竦められたのだった。こんな二人で居られては先が思いやられると。
 小言を食らった二人はすみませんと素直に謝った。頭を下げて、軽く目を合わせて笑いあって軽く肘で小突きあった。

 石畳の上を走る馬車の乗り心地は良いとは言えず、街に着く頃にはようやく止まった馬車の座席から、もう懲り懲りだと痛む尻を押さえながら王子となまえは飛び降りた。

 街では珍しく厚ぼったい雲が上空を覆っており、黒の濃い雲が影を落としていた。土埃や石の合間から香る匂いが、この街への雨の訪れを予感させている。
 王子の出迎えにやって来た街の役人や貴族達が路肩に付けられた馬車の脇に並んでおり、なまえが王子の服の乱れを直してやれば王子は淑やかに微笑みその表情のままで貴族達の前を歩いた。

「御苦労、世話をかけるな」
「いいえ。ようこそいらっしゃいました、殿下」

 出迎えの者達は恭しく王子に近付き、胸に手を当てて深深と礼をした。それを王子は目を細めて見ており、相手が顔を上げるのを静かに見届けていた。

 出迎えの列はふと顔を上げればどんどんどんどんと長くなっていた。どうやら王子が訪れた事に気づいた庶民らも王子を一目見ようと、出迎えようと集まってきていたらしい。
 殿下、殿下とか細く呼ばれるそれらに、王子は優しくやさしく微笑んで受けて答えた。街の視察とは名ばかりで、いつもいつもこうだ。王子が街へと降りる時は民達の謁見の場となってしまう。これらを良ぬ思わぬ者だって当然居たが、それが王子の、レオの在り方だった。一人の王族として、一人の少年として、一人の人間として、王子は酷くやさしく在った。

 年老いた女が、破れた部位を何度も何度も縫ったのであろう。継ぎ接ぎで溢れたスカートの裾を地面へと着き、王子のマントに恭しくキスをした。
 周囲の人間らが目を丸く見開いた。見咎められるその行為に、護衛の騎士が剣の束に手を伸ばす。
 王子は真夏に採れる果実みたいな細い髪の間から覗かせた視線のみでそれを制した。

「殿下、あぁ殿下、貴方の国を、貴方のわたしを……おぉ、殿下…………」

 ぽつぽつと、雨が降り始めた。
 その粒はあっという間に大きくなり、あっという間に空気中にたくさんたくさん広がった。地面に落ちた水が小さな水溜まりを作り、それらは砂や泥と混ざりあって大きくなっていく。
 けれども老婆は王子のマントに縋り着いたままだった。なまえは雨が降り始めた際に馬車に詰んだ乾いた布を取りに行っていた。王子に被せる為の布を抱えて戻った時。

 王子はその濡れた地面に自身の膝を着けていた所だった。
 跳ねる泥水が顔に掛かるのも気にせずに、服の裾が水を含んでいくのも気にせずに、ただただそうした。老婆に、片目を眇めて嫣然と微笑んで。
 
 城を出る際に、何かがあってからでは遅いのだと鎧を着せようとするなまえに必死に抵抗していた人物と同一であると誰が思うだろう。雨が降らなくて涼しくないから嫌だとか重いから嫌だとか動きにくいから嫌だとかなんとかぶつくさぎゃーぎゃー喚きながら馬車でも言い続けていたあの少年と。

 初めの方こそ自身を農民の子と穢れた物と扱っていた者達からの数年も経てば視線や非難の数も減っていた。未だにその辺のトラブルは跡を立たず、無くなったとは言い難いが。確かに減っていた。
 自身も主君に仕える身として少しは認めて貰えているのだろうか、と並ぶ貴族達に礼をしながら歩く。普段は年相応の子供のようにはしゃぐ彼とて王家の血を引く正しく選ばれた者である。こう言った、彼の凛とした部分を見せつけられるとよく気付かされる。
 自分とは何もかもが違うことを。

 付き添いの一人が、民と向き合う王子に王子と同様跪いた。王子は視線を少しだって目の前の民からずらさない。

「殿下、鎧が錆びてしまわれましょう。一度屋内へ」
「いや。いい」
「ですが」
「皆雨の中こうしておれを迎えてくれている」

 理由はこれで十分かと。本人は一度も口を開かなかったが、そう物語る視線を付き添いに王子は向けた。付き添いはバツの悪そうな表情を浮かべた後に顔に掛かる水を手で雑に拭ってから失礼しましたと立ち上がる。
 なまえはレオ、とその背に呼び掛けようとして大衆の前であったので口を一度閉じた。

「殿下」
「あぁ、ありがとう」

 抱えていた乾いた布を王子の肩にかけてやり、そのままなまえは後ろへ避けた。王子の頭に降り注いだ雨粒は毛先を通り地面に滴って、顎を伝って地面に落ちた。
 それがどうしてだかほんの少しだけ、羨ましい気持ちになった。

 王子は適当なところで取りやめることだって出来るのに、出迎えのひとりひとりにきちんと礼を返している。だからあまりにもゆっくりな道のりの途中で、なまえはふと視線を感じたのでそちらへと目を向ける。
 並ぶ庶民たちに紛れ、自身らと同じような年頃の少年が立っていたのだ。彼は一心にその力強い視線を王子へと向けている。
 花のように華やかな赤土の色の髪に、鮮やかな砂糖漬けの菫のような目。透き通る白い肌によく生えていた。薄い唇を強く強く結び、拳を握るようにして真っ直ぐに立っている。
 王子はまだ気付いていないようだ。何故だか異様にその少年が気になったなまえは、そちらの方へと歩いて行った。

「何処の家の方でしょうか」
「っ、わ、わたしですか」

 驚き方の仕草が何処か猫のようだと思ってしまったなまえだったが、気を取り直しはい、と答える。

「何処の家、と聞きましたか。私のことを貴族だと思いに?」
「確かに。何故私はそう聞いてしまったのでしょう……ああ、恐らく貴方の立ち方がとても綺麗だったから」
「そうです、か……」

 相手の少年は近くで見ると少し顔が幼く童顔気味であり、なまえよりも身長は高かったが歳は二つは離れているのでは無いだろうかと思った。
 何かを考え込む素振りをする少年は、ふと顔を上げる。

「失礼、貴女はルーナ家の方でしょうか」
「縁あって今はレオ王子に仕えています」

 そうですか、と少年は頷いた。ざあざあと雨が降っている。そうしてその赤土の髪の下から、憐憫と怒りの混ざった視線を突然に向けて来たのだ。

「私の名前は、ツカサ」
「つ、かさ」
「またお会い出来るでしょう。なまえ」

 感情を丁寧に丁寧に折り畳んで腹の底に押し殺して隠して、それでも滲み出て伝わって来るような声色だった。けれどもその震えた声が雨音に滲む事は無く、なまえの耳にこびりつくように残った。
 何故私の名を、と問う前に少年、ツカサは走り去って行ってしまう。
 雨で烟ってぼやけた街の向こうへ、駆けて行った。

 水に呑まれるような街の中で、何処かから香った花の香りが噎せ返る程に濃厚だった。



 騎士叙任式が執り行われる。
 式を息子に任せると、数日前に王は突然決められた。
 王子は十八になるところだった。
 外は雨の降らないひと月だった。

「レオ、寝ないと明日に響くよ」
「皆が寝ずに祈りを捧げてるんだ。おればかりがすやすやと寝ている訳にもいかないだろ?」
「まあ」

 きっと寝てしまったって誰も気付きやしないし、寝なかったとしても誰も気付きやしないだろう。なまえは書机の上に水差しを置いて、散らばった楽譜を集めたりついこの間変えたばかりだと言うのにもうすっかり減ってしまったインクを変えたりした。
 王子が受けている音楽の教養は作曲までは手が伸びていない。だのにこうして自身の頭に浮かんだからと、本を読み独学で書き方を学び髪に連ねていく姿を見てやはりこの方は別のくにの存在なのだと思う。 
 何の曲か、どんな曲かを横目で見たくらいではなまえには分からなかったので、なまえは近くの椅子に座って王子を見ていることにした。作曲中の王子に何を言ったところで止まらない。傍に居たこの長い間で、もうとっくに理解していた。
 ランプから漏れる橙の暖かな光が、滲むような暗闇の中で王子の白い肌をぬらぬらと照らしていた。伏せられた睫毛の影が頬に落ちている。
 ペン先が紙の上を走る音と、時折聴こえる紙の擦れる音、布擦れの音、そしてランプの頼りない光だけがこの場で二人を確かめるものに違いなかった。

「おまえはどうして叙任式に出ないんだ」
「え?」
「セナもアラシもリツも出る」

 王子は楽譜から目を離さず、手を止めずに問うた。この中におまえが入るのは当然だろうと言うのだ。

「出る訳に行きませんよ、こんなただのいち小姓が」
「まだそんな事言ってたのかぁ? おまえ」
「まだ、じゃないんです」
「今更何を……」

 言葉を続けようとしたところで、王子はその手をぴたりと止めた。頬に浮かべていた笑みを引き攣らせて振り返る。

「おまえが考えていることの少しはわかるようになって来たつもりなんだ、それが誇らしいとも。でも、今は違ってくれとそう思うよ」
「レオ、私は騎士にはなれない」
「ほら見たことか!」

 やっぱりだ! とわはは! と散々笑った後に、王子は顔の笑みを全て落とした。答えを間違えるなよ、と暗に伝える空気を纏って。
 王子から犀利なその空気を感知して、なまえの背が泡立ち冷えた汗が伝ったがこれで引いてはいけないと、よくよく理解もしていた。

「レオ」
「ああ」
「私は叙任式が終わった後に貴方との契約を解約する」
「自分で何を言ってるか分かってるか?」
「勿論」

 今まで築き上げてきた全てを捨てること。ただの農民に戻ること。私がボクの価値を詰る事。けれども、それらすべて違うだろう。

「君の友人ではいなくなるよ」

 王子は顔を歪めた。人が傷ついた時の表情をした。なまえも同じような類の笑顔で笑っていた。苦しみを押し込める人の笑い方だった。
 この数十年で、彼らは互いの傍でどれだけの時間を過ごしたろう。どれだけ互いの胸の内を理解し合ったろう。
 正しく彼らは友人であったのだ。例えどんな身分だの性別だのの差があろうとも。

 けれどもなまえは炎の中で息倒れたこどもであったし、王子は王とその妃から産まれた城のこどもだった。

 空が白み始めている。叙任式が始まるだろう。
 騎士の祈りが祭壇にて捧げられている。



 礼服に着替えた王子が教会へと足を踏み入れた。身体を清めた後夜通し祈りを捧げていた騎士見習い達が立ち上がり王子を出迎える。
 歳は王子やセナらが一番低いだろうことがひと目で伺える。一部を除き、皆は現王の為にと日々剣を研いで来た者達だった。その王が決められたことと言えど、自身に刀礼を行う者がまだうら若き青年の王子殿下となれば少しは不満もあるだろう。
 皆は自身の刀礼と、騎士への叙任の期待と共にこの若き青年を自身の主君とし認めるかどうかの思いだって込めていたのだ。

『ならおまえはおれを見届けてくれよ』
『なにとして?』
『残酷なことを聞くなぁ……』

 中心に敷かれ、祭壇の方へと真っ直ぐに伸びた赤い絨毯の上を歩いて行く。
 いつの日かの祭壇と同じように、ステンドグラスは朝の光を存分に浴びてその赤や青や緑や橙や黄に色を染めて柱や床やらに落ちている。空目をすればそこに硝子細工が落ちているのではと勘違いする程に。

『おまえが決めていいよ、なまえ』

 顔を軽く背けた王子の顔はランプの光の影になった部分に隠れてしまって見えなかった。
 なまえはそれを少しだけ惜しいと思った。けれど同じくらい、よかったと思った。昨晩のことだ。

 なまえは今現在教会の中に横並びになっている椅子の一番後ろの一番端に座っていた。王子の背中が見える。
 祭壇に捧げられている一本の剣があり、王子はその前に立った。朝日が髪を透かして金色にその繊維を変えている。透き通るようで空気中に溶けだしそうな細い髪の毛を緩く風に纏わせて、王子はその剣を両手で丁寧に取る。
 そうして剣に祝別を送るのだが、突然王子はその剣を思い切り投げた。細かく言えば、なまえの方へと。

「落とすなよ!」
「っ、えっ、えっ、う、うわぁ!?」

 くるくると回る剣を、必死に一晩かけて祈られそして投げられた剣が空中を舞う。
 なまえは座っていた椅子から弾け飛ぶように立ち上がり、椅子の外を回っていては追い付かないと察したのでそのまま背もたれに乗り上がり、外枠の木の上を飛びながらあんぐりと口を開けている騎士見習い達の横を駆け抜けた。
 剣が床に落ちるその寸前で飛び降りて、その柄を掴みながら床に転がり落ちた。

「っだ、ッハ、よ、よかった」
「見事〜!」
「み、見事じゃ、無い! 何してるのレオ!! これは巫山戯た儀式なんか、じゃ」

 周囲の目も気にせず王子の名を呼び捨てたなまえは、その事に気付かずに言葉を続けたが思わず口を噤んだ。誰かが彼女を咎めたからでは無い。王子の表情を見て、思わずその場の誰もが口を固く閉じた。
 玲瓏な笑みを浮かべた王子を見た時に、憂懼することなど何も無いというのに何故だか嫌な冷たい汗が身体を伝って行った。

「鞘を抜け」

 静かに王子はそう言った。なまえは震える手で頷いて、鞘を抜いた。白銀に光る刀身が現れる。
 どうかその続きを紡ぐなと願わずにはいられなかった。

「それを、上に。先程のおれと、同様に」
「っ、レオ」
「何を恐れてるんだ?」

 王子は何ら変わらぬ表情と平坦な声色でそう言った。ごくごく普通の声色で。今日は雨が降っているかと、そう朝に尋ねる位の声色で。
 剣など、頭上に、投げたら。
 なまえの顎を汗が伝っていった。周りの見習いよ騎士らも予想していなかった事だ。どうにか止めなければと、しかし、何処か期待するような眼差しだった。

「柄に刻まれているのは何だ? 王章だ。誰の? おれのだ。今日日この朝この日に、おれがおまえたちを騎士と認めよう。おまえたちに、伏すべき主君と見定められよう。そして剣に選ばれよう」

 牢乎とした瞳だった。
 なまえの喉にせり上がった言葉は出てこようとして、突っかえてしまって、そうして結局出て来たのは言葉でもなんでもない、ただの息の塊だった。

「信じられないか」

 狡い、と、そう思った。
 出来るか出来ないかでは無く、信じられないかと。

 おまへはそいつの何を見て来たのだと。
 おまへはそいつの隣で何をして来たのだと。
 おまへはそいつの何なのだと。
 問われているのはおまへのこころ。
 問われているのはおまへの覚悟。

 あ、と誰かが口から音を零した。

 なまえは汗をだらだら流して拭き取りもせず、濡れた手汗を拭きもせず、その手で剣を王子の頭上に高く投げた。
 ぐんぐん空に登った刃はくるくる回って下へと落ちる。
 なまえは瞬きのいちどもせず、その行方を見守った。刀身が向きを変える度に白銀に金銀に輝いて、赤だの黄色だの青だのの色を反射した。それはあんまりにも美しくて眩しかったけれど、なまえはもっと美しくて眩しい橙と黄緑を知っていたから、目は閉じなかった。

 刃は真っ直ぐに王子の頭上へと落ちて行き、そうしてまるで息をするみたいにくるりと刃先を祭壇の方へと向けて__落ちた。
 
 たん、と軽い音がした。
 神への供物が捧げられるべき祭壇に、うつくしく整えられた祭壇の真ん中に、剣が突き刺さっている。

 あ、と誰かが口から音を漏らした。

 寂寞とした教会の中で、一斉に音が鳴った。それは人が地面に膝を付けた時の音だった。鎧が金属と石との間で音を鳴らし、跪いた際に擦れた布が掠れる音を鳴らした。なまえは膝の力が抜けてしまって、その場に座り込んだ。

 この空間の中で二本の足を地につけて立つのはただ一人のみだった。
 伸ばされ美しく整えられた髪が下の方で小さく結ばれて、その毛先まで愛しげに緩い風が撫でて行く。

「彼が、教会、寡婦、孤児、あるいは異教徒の暴虐に逆らい神に奉仕するすべての者の保護者かつ守護者となるように」

 王子は、一度自身に垂れている頭を眺めてから、祭壇に近付き剣を引き抜いて淡々と述べた。

「まさに騎士になろうとする者に、真理を守るべし、公教会、孤児と寡婦、祈りかつ働く人々すべてを守護すべし」

 王子は剣を持ち、一番手前に居た若者の前に立った。それはセナだった。

「汝、我が剣となり我が盾となり、世の全てを守りし愛でし騎士とならんことを」
「……っ、我が身、フォンターナ=セナの全てを余すこと無く我が主君に捧げることを、誓います。守護者となり、すべてを」
 
 王子は剣を構え、平たい面をセナの露にされている項に打ち付けた。
 すると式の補佐役が端から出てきて、今王子が持っている物と同じ紋の入った剣を授ける。
 セナの長い睫毛が震えた。水色の瞳を一度閉じ、次に開いて立ち上がる。そうして三度、空の鞘に続けて引き抜いて収めた。
 次に、補佐役はセナの胸元に騎士の証となる釦を付けた。
 それは小さいながらもきらきらと朝日を必死に照り返しており、明日を見る子供のように綺麗だった。
 頬を蒸気させ顔を上げたセナに、王子は嫣然と微笑んで返した。

 そうして儀式は恙無く進み、見習い達は皆正式な騎士となったのだ。
 新たな主君と新たな剣をその心に見定めたのだ。
 見定めさせた、と表した方が正しいだろう。王家の血を引くものだからではない。王子はレオ=ルーナを主君足るものとして表してみせたのだ。

 
 王子となまえを残して誰も居なくなった教会で、王子は祭壇の前に立っていた。なまえは最前列の椅子に座っていた。
 
「どうだった?」
「凄く立派だった」
「子供の遊戯会を見る親の感想みたいだな」

 わはは、と楽しそうに、けれど嬉しそうに無邪気に王子は笑った。凄く立派だったと、それ以外に形容する言葉がどうにもなまえの中では見付からなくて、ただその無邪気な笑みが今は有難かった。
 王子がなまえの方へと向きを変え、なぁ、と声を掛ける。

「それ抜けよ」
「……レオ?」
「ほら」

 それ、と言った王子の視線はなまえが腰に佩していた剣のことだった。いつだったか、子供の幼い日に握ると決めた剣だった。
 あの時だって、迷いに迷って握ることを決めたのだった。王子の隣に友人として立つべきか、仕える者とした立つべきかを迷ったあの時の。
 己は依然と昔から、後者しか選ぶことは無かったが。

「勝った方が負けた方になんでも命令出来るってのはどうだ? 面白そうだろ!」
「っ、レ、レオ」
「ほら」

 王子はとっくに自分の剣を抜いてしまって、そのままなまえの方に歩いて来る。主君に真剣を向けるなんて、と、一体何故、と困惑した。
 稽古を評して隠れて模造刀で打ち合いをしたことは幾度かあった。正直言ってなまえ勝率は三割が良いところで王子の勝ち越し。

 王子の表情を見る限り、怒っていると言う訳でもなさそうだった。微笑を浮かべているのが少しキミが悪かったくらいで。
 それにどんなにとっ掴み合いの喧嘩をした所で、いつもしばらくした後にどちらからとも無く普段通りの距離感に戻っていたのだ。
 二人は話したいことは何だって話したし、話したくないことは話さなかった。それくらいの距離間がいちばん丁度良かった。
 話さないことがあっても、なんとなく察するのがお互い上手かった。それは相性の良さであったり長い間の年月がそうさせていたことも理解していた。

「ほら。死ぬぞ?」
「なっ、な、何考えてるの!」
 
 王子が座ったままのなまえに剣を横にひと凪した。
 なまえは横に倒れ込むようにしてそれを避けて、転がって椅子から落ちるみたいにして王子から距離を取った。

 王子は本気なのだとなまえが察し漸く剣を抜いたのを見て、いくぞ、王子が声を発した時には既にその脚の筋肉は動いており床を軽やかに蹴り出していた。
 なまえの前に飛び込んで来るような動きを目で捉え、咄嗟に後方へと飛び退いた。飛び退いた距離も読んだ王子の刃が同時に横凪され、なまえは刃の切っ先と柄を持って縦にする事でそれを受け止め、払って流す。
 流した力を利用し横へと移動するが、読まれている。
 流された力を利用し振り被った刃が美しく円を描いて頭上に降ってくる。陽光がその側面に弾き返されて眩しい。照らされた王子の顔は酷く愉しそうだった。
 ぎ、と奥歯を噛み締める様にして身体に無理を言わせて重心を落とす。体勢が低くなったなまえを警戒し、振り落とそうとした刃の向きを変え飛び退きながら前方に横へ腕を振る。
 違う、もっとだ。なまえは身体を落としながらサーベルを持たない手を床に着き支え、そして手を離す際に勢いよく押し付けてから離した。手から伝わった瞬発力を生かし、今度は此方から相手の懐へと飛び込む。
 王子の視線がパッと下から潜り込む自分の法へと向いたので、なまえはニヤリと笑ってサーベルを振り被った。

「フェイントに弱いな、正直者」

 王子の牢乎とした声と共に、膝がガクンと崩れ落ちた。足払いを掛けられようとしたのを既の所で視界に捉え、何とか回避した物のそこを詰められ自身の踏鞴を踏んだ足の間に王子の片脚が入り込む。

「隙だらけだったぞ、相棒」

 突如間合いが縮まった事でバランスを後ろに崩したなまえは、そのまま首裏の襟を捕まれ引き倒される。
 人が二人分倒れ込む音と、なまえの手からサーベルが離れてカラカラと何度か床を跳ねた。
 王子はなまえの首のすぐ横に、サーベルを床に突き立てるようにしていた。

「自分のチャンスは相手にとってもチャンスだって、この前の稽古で言ったよな」

 なまえは自身の横に突き立てられている刃に視線をやってから、口角をぐっと上げた。

「えぇ。よく、よく覚えてますよ!」

 なまえは自身の首横にある刃に、思い切り頭をぶつけた。腕も脚も抑えられていた為に、可動域が首から上しか無かったので。

 ほんの少し拘束の弱まった所を狙い、渾身の力で抜け出してやる。そしてなまえは自身の腕の中に仕込んでいたナイフを手の内へとスライドさせ、よく手に馴染むそれをしっかりと握り、王子の肩に掴みかかるようにして刃を向けた。
 尻もちを付くような体勢になっている王子に、その首元になまえ向けた刃は燦爛と陽光を跳ね返し輝いている。
 そして片膝を着き、王子に刃を向けたなまえの腕に交差するように伸ばされた王子の手に握られたサーベルが、その首元に向けた刃は燦爛と陽光を跳ね返し輝いている。

 互いの荒い息遣いが、教会で唯一の音だった。

 なまえがカラン、とナイフを床に落とす。王子はそれを見て、口端を吊り上げた。

「いつの間にそんなん覚えたんだよ!」
「……ずっと、前からです。剣を覚える時に」
「うっわー! ずるいな」
「へへ、そうでしょう。ずるいんです。正々堂々してなくて、生き汚くてカッコ悪くて、騎士らしくない」
「あ! こら!」

 そういう所治せって何度も言ってるだろ、と王子はなまえの額を軽く叩いた。

「うっ」
「自分を卑下し過ぎるな。おれの価値も下がる」
「それを言うのはずるいって」
「おれもずるいか? ならおあいこだな」
「……良くない、そういうの」
「だろうな」

 王子は楽しそうに笑った。そしてその黄緑の瞳を眇める。

「おまえはかっこいいよ、どんな方法だろうとおれを護るための剣ならそれは誰が何と言おうとかっこいい」
「それを言うなら、レオ。貴方だってかっこいい。今日も、本当にかっこよかった。民であれ何であれ全てに等しく優しい貴方が、凛と導く者である貴方はかっこいい」

 二人で互いの目を見詰めあって、そんでもって笑った。照れ臭そうにして、頬を赤らめて少年と少女は笑った。

「ところでさ、これどっちの願いを聞くことになると思う? おれの勝ちだよな?」
「いや、私の勝ち」
「なんだって!? おれの勝ちだろ!?」

 暫く二人であーだこーだ言い合っていたが、やがて話のつかない平行線に飽きたのか王子はその場に仰向けに倒れてしまった。
 服が汚れるからやめてくれとなまえが言えば、王子は聞く耳も持たずに自身の手の甲の骨の部分で床をこんこんと叩いた。ここに寝っ転がれと仰るのだ。
 はいはい、となまえが呆れたように言いながら王子の横に仰向けに寝た。

「じゃあ引き分けってことで、お互いの命令を聞きましょう」
「……まあ、いいだろう」
「なんでそんな不遜な感じなの、まあいっか。私の方からでもよろしい?」
「うん」

 なまえはくるりと身体の向きを変えて、王子の方を向いた。王子も同様にそうした。
 向かい合った状態で、なまえが微笑む。
 殿下、と。

「必ずしあわせになって」

 王子は、なまえの目元を流れていく滴を拭いながら笑った。

「ありがとう」

 拭っても拭っても溢れてくる滴が無くなってしまうまで続けたかったが、王子はそうしなかった。
 なまえ風に言えば、自分には、資格が無いので。
 否、たった今、これから。無くなるので。

「おれの剣、おれの盾、おれの小姓、おれの騎士。おれの相棒。おれの、友人であった人……どうか、しあわせにな」

 どうかって言わずに必ずって言え莫迦。
 おまえのさいわいはおれが決めるものじゃない。
 少なくとも、私にとってあの炎の中から差し伸べられた貴方の手を取ってからは、確かにさいわいその物だった。

 知ってる。知ってる。

 教会の外で、雨が降り始めた。
 六月が終わるのだ。



 その日は王子の戴冠式だった。
 国中が祝いの声を上げ、あちこちで甘いやら辛いやらの食べ物が配られ、記念品のコインなんてものまでが路上で売りさばかれている。

 雨の降らないひと月を選んだのは王子だと言う。
 
 その店は服飾屋だったが、この祭りの状態ではその辺の草だって売れる。ようするに忙しく働いていた。

「……この曲」
「あぁ、これな」

 街を歩く楽団が弾く曲に、そんな店で働くひとりの女が首を傾げた。店の店主がそれに答える。

「殿下……んにゃ、もう陛下か。自分で作曲したらしいぜ。ほんと我らが王様は天才だよな」
「そうですね、ええ、本当に」

 女が口遊んだのは、続きの旋律だった。なんだお前さんこの曲知ってんのかいと感心そうに言った。
 女はちょっとだけ笑った。幸せそうに笑った。

「はい。よく、知ってます」
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