柴大寿の悪夢𝐈




物心着いた時には、マンションの廊下ですれ違いざまに挨拶するのがオレの生活の一部になっていた。



5つ上の、(元)お隣のお姉さん。歳が離れていて性別も違うオレとあの人の関係をこれ以上適切に表す言葉はないだろう。




自分の人生の中の1番昔の記憶から今日まで続く初恋の人との希薄な関係性は、オレの意地によって延命措置を受けている。

















──────────




オレの初恋の人は、私立の女子初等科5年生で、一言で言うなら高嶺の花である。顔良しスタイル良し学力良し、信じられないほど詰め込まれた習い事は全て優秀な成績を収め、それを鼻にかけることも無くいつも優しく微笑んでおり、それでいてどこか抜けた様な人だ。


隣の家から時たま聞こえてくるあの人のピアノの音が、弾いている人間の内面を表しているのか、とても居心地が良かった。


憧れだった。








7時19分、買って1年も経っていないデカいランドセルを背負い、家の玄関でお気に入りの靴を履く。


7時20分、隣の家の玄関の開く音がする。
足音がオレの家の前を過ぎたら母親に「行ってきます」と声をかけ、なんとなくを装ってエレベーターホールに向かう。


「おはよう♡」
「おはよう」


これ以上に何も会話はないし、そもそもオレは集団登校でマンションの下で同じ学校に通う奴らを待たなくてはならない。正直こんなにもクソ早い時間にエントランスに降りても暇なだけなのだが、なにやらニコニコした様子のオレの母親は特にオレを引き止める様子もないし、7時20分にエントランスに降りて30分待ちぼうけるルーティンを4月からずっと守っていた。



放課後、一旦家に帰って宿題をやってから近所の公園へ向かう。力の強いオレは近辺のガキを従えて遊んでいた。…マンションの公園は使わない、もしあの人が通りかかったら恥ずかしい。

その日もいつも通りそれなりに暴力を振るい家に帰ってきたのだが、なにか様子がおかしかった。母親の返事がない。電気が付いていてなにかが煮えている音のするキッチンに向かえば、倒れている母親が目に入った。

焦ったオレは頭が真っ白になり、隣の家のインターホンを押して助けを求めた。

出てきたあの人は焦るオレを宥めつつ119番に電話をかけ、オレの手を離さず一緒に救急車に乗ってくれた。



母親は急遽入院となり、家ではほとんど帰らない父親の代わりに1番上のオレが下2人の面倒を見なければならなかった。










優しいあの人はオレと一緒に早朝保育のバスに柚葉と八戒を預けてから登校してくれたし、学校から帰ればオレと一緒に2人を幼稚園まで迎えに行ってくれた。習い事の時間になるまで宿題を見てくれたし、時間が許せばご飯も作ってくれた。


オレが柚葉と八戒の面倒を見れば、その分オレはあの人に面倒を見てもらっていたのだと思う。



だから、全く寂しい思いをしなかったことだけは覚えている。








「ねーねー、お姉ちゃん、そのお歌なぁにー?」


クリスマス、訪れた教会でピアノを弾くあの人に柚葉がたずねた。


「これは、"主よ、人の望みの喜びよ"ってお歌よ♡」
「「へ〜!!」」
「そんなに喜んでもらえて嬉しい♡」
「ねぇ!もう1回!もう1回!!」
「……ききたぃ、///////」
「うん、」


心が洗われるような気がして何回でも聴けた。今でもオレが1番気に入っている曲はこの曲だ。















入院から幾ばくもせず、母親は呆気なく死んだ。久々に姿を見た父親が暗い顔をしていた。柚葉と八戒はなにも分からないまま泣いていたが、オレの涙は出なかった。





漠然と、オレがしっかりしないといけないという責任感だけが頭をグルグルとしていた。







オレが小学2年に上がって、あの人は初等科6年生になり、柚葉も小学生になったが生活は何も変わらなかった。


相変わらず甘ったれのアイツらは、ロクに便座も下げられないし、部屋の電気は付けっぱなしにする。



あの人は、日々怒鳴り散らす荒れたオレの限界がきたタイミングで別の部屋に呼び、こっそりチョコパイを渡して言うのだ、

「たぃちゃんは頑張ってるから、これはご褒美。2人にはナイショね?」
「……アンタも食べるンか」
「うん♡」

普段とは違う笑顔だった。初めて見た時は、「高嶺の花も人だったのか」なんて思ったことを覚えている。イタズラに笑うからドキっとした。
悪い事もたまには悪くないのかもしれない。エラく歳上に見えている人の幼い部分をオレだけが知っているような気がして、なんというか、
…不愉快ではなかった。



帰って来ない両親の代わりにアイツらを叱るオレと、オレたちの面倒を見てくれる優しいあの人の日常はこれからもずっと続くのだと思っていた。















2月の冷え込む頃、あの人はオレだけを呼んで、しゃがんで両手を握り、綺麗な微笑みで「明日引っ越すの」と言った。


「は?」
「えっと、引越しっていうのは、」
「なんで、急に、」
「それは、……うーんと、」
「いや、お隣じゃ無くなるのか…?」
「そうなの」
「………いつも通り、来るんだろ?」
「……遠くへ行っちゃうから、その、…来れないの」
「嫌だ!!」



絶望だった。母親が入院した時も母親の葬式も「嫌だ」とは思わなかったが、この時ばかりは明確に「嫌だ」と思ったし、仕方がないのはわかっているのに大声で口に出してあの人の手を握り返した。


困った顔で笑うあの人を怒鳴りながら引き止めた記憶がある。いつもなら習い事に行く時間を過ぎても、ずっとオレの相手をしていた。


帰さないと言いながら抱きついて朝まで離さなかった。だか遂に時間の限界が来たらしい。
オレに謝りながら「行かなくちゃ」などと言うどこまでも大人なあの人と、駄々をこねる幼い態度の差が恥ずかしくなり、しぶしぶ体を離した。




あの人はなんの荷物ももたず、身一つで駅に向かった。オレは改札口でも手を離せなかった。乗る気のない電車の切符を無駄に買ったのはあの日が最初で最後である。



「どうしても行くのか」
「ごめんね、」
「…………」
「………………」
「どこへ引っ越すんだ」
「……言ったら、来ちゃうでしょう。危ないわ?」
「…………」
「…………」
「…オレは、待ってる」
「…………、」
「……もう、会えないのか…?」



あの人は、今までの自分の生活のありがたさを理解した、やはりどこまでも大人な人だったのだろう。



「……いつか私がたぃちゃんとすれ違っても、きっとたぃちゃんは私に気が付かないでしょうね…」
「そんなことなっ……なっ!!!?!」




オレのことを抱きしめた人間は母親以来だった。




何故か肩口が湿る。





「ありがとう」


何に対するお礼かは分からなかった。昨日からオレは迷惑しかかけていないはずなのに。






「全部、無くなっちゃったかと思った」


あの人が泣くのを初めて見た。人生であれほど驚いた瞬間はない。







あの人が電車に乗る。駅員が笛を吹く。


ドアの窓越しに目が合った。あの人の暗い笑顔が見ていられなくなって、オレは無理やり笑い手を振った。


あの人の乗った電車がホームから完全に姿を消したあと、次の電車がやってきてやっとそこでオレは自分が泣いていることに気がついた。











どうやって帰ってきたかも覚えていないままマンションのオートロックを潜る。

エントランスで聞こえてきたのは別の階のおばさんたちの話だった。



「じゃあ引っ越されたの?」
「DVだって」
「奥さんのお父様が会長の会社だったのに…亡くなられたとたんに」
「身一つで追い出したらしいわ」
「不倫相手に息子ができたって聞いたわよ」
「ひどいわね、…奥さんに自分の母親の世話までつきっきりでさせてたんでしょ?」







不可解だったことは全てハッキリした。



次の瞬間には全身の血が逆流して煮えくり返った。



あの、素晴らしい人を殴っていただと?




どこに殴る要素がある、




…つまり、オレとあの人の大切な時間は理不尽な暴力に潰されたのか…!!





















こうしてオレはDVが地雷になった。

















──────────────


「う"、……ぅ"あ"、…………ん"っ…」
「たぃちゃん、たぃちゃんどしたの?」
「ぐ…、ぁ、………あ?」
「起きた?…魘されてたわ?大丈夫?」
「、あぁ……、嫌な夢だった…、ここどこだ?」
「え?私のカレシの車よ?…たぃちゃん病院まで来てくれたでしょ?…覚えてない?」
「…………」←チベットスナギツネの顔




言っておくがこれはまだ序の口である。柴大寿の悪夢はまだまだこれから真髄を発揮するのだが、まぁそれは別の機会にでも。



>>