拾
あの日、オレは"兄"を斬りつけた。
正確には、兄のように慕っていた男を、だけれど。
愛用の刀が、隊長の体を切り裂く。服の上から肉を切り裂く感触は、やはり身に覚えがあった。返り血が、春千夜の体に降り注ぐ。計画通りの深い傷を与えられ、少し安堵した。情でも湧いてうまく終わらせることができなかったら困る。そう思っていたせいか、いつもより余分な力が籠っていたような気がして、失敗したなと、春千夜は内心顔を顰めていたから。
顔にへばりついた血液は、生暖かくて気持ち悪い。鉄の匂いと人の脂の匂い。それから、埠頭近くの海の匂い。それらが混ざり合った不快で強烈な香りが漂ってきて、マスク越しでも吐きそうだった。
武藤は、何が起きたか分からなかったのか、血走った目を大きく見開いていた。
人は追い詰められると、本性を見せる。
いつか隊長から聞いた言葉。もしも、それが事実ならば、今がまさに隊長の本性が現れる瞬間だ。
だからなんだ?たとえそうだとしても、ここから何を読み取れば良いのか、春千夜には分からなかった。だってもう、隊長はまともにしゃべれない。逆流する血液で、喉が塞がる。血に溺れる中でも、どうにか生命を維持しようと本能的に抗い、生理的反応を返すだけ。でも、もしも、隊長が驚いているのなら。春千夜に殺されることを想定してなかったのなら。ずっとずっと曖昧だった二人の信頼が、今ここで証明されたのかもしれない。
そんなの、今更遅すぎる。
「三途」
武藤が、名前を呼んでいるような気がする。うまく聞き取れないのは、隊長がうまく喋れないから?それとも、春千夜の鼓動がうるさいから?
「"あの日"から、この為にお前を欺いてきた」
激痛と混乱に苛まれている隊長に、春千夜は丁寧に説いてやる。春千夜の人生において、"あの日"と形容される日はたくさんあった。人生の岐路や、節目と呼ばれるような日。だからあえて、この言葉を選ぶ。この強く、賢く、優しい男に、悟らせないように。もっと上手に。あいつも、自分も欺くように。橋を落とせ。未練を残すな。手を伸ばす暇を与えるな。
焦る脳を叱責し、懸命に口を動かす。
「言ったろ?"王"が何よりも大切だってよぉ」
春千夜は声も出せない隊長へ向けて、用意してきた台詞を一方的にぶつけた。
可哀想な隊長。かわいがっていた腹心が、こんなくそ野郎だとも知らないで。そんな想いを込めるように、春千夜はマスクを外しニヤリと笑った。思いつく限り、悪辣に魅せた。春千夜は、笑うことが得意だった。どれだけ退屈でも、痛くても、悲しくても、春千夜は口角をあげる。だってマイキーはそれを望んでいて、そうすれば喜ぶのだと、"あの日"知ったから。
この傷跡は、笑うためのものだ。
武藤は、強く目を見開いたかと思うと、頭をぐらりと後ろにのけ反らせた。身体を時折痙攣させ、動物じみた呻き声が彼の喉の奥から吐き出される。それから間もなく、体の力が抜けてぐらりと前に倒れ込んだ。春千夜は汚れないように、血濡れた死体を軽く避ける。鈍い音がして、武藤は硬いコンクリートの地面に頭を強く打ちつけた。この勢いでは骨が陥没したかもしれない。計画外の傷は厄介だなと、春千夜は努めて冷静であろうとした。陸に打ち上げられた魚のように、武藤の体がびくびくと動いている様子を、ぼんやりと眺める。特に何か思うことはなかった。劇的な変化というのは、なかなか訪れないものだ。
傷口から血が流れ出し、辺りにじわりと広がる。赤い水溜りが春千夜の靴を汚したが、そんなものは気にならなかった。鼻はバカになっており、口から脳を貫くような痺が残っている。不快な匂いは感じられないが、頭は締め付けられるようにひどく痛んだ。思考がまとまらないのはこの頭痛のせいだろうと、ひとり結論づける。
数刻して、武藤の体が完全に動かなくなったのを確認してから、春千夜はようやく、自分が息を止めていたことに気がついた。いつの間にか流れ出していた汗が海風によって冷やされて、火照った顔を戻そうとする。急に寒さが自覚され、ぶわりと鳥肌が立つ。体の芯は冷え切っているのに、皮膚はやけに熱かった。寒くて熱い。心臓の音が、うるさく鳴り響く。自分の体がチグハグで、ふわふわと落ち着かない心地だった。何もかもが、他人事のように思えた。全部、悪い夢であって欲しいとさえ思った。もう一度、世界が作り変わったら、なんて。そんなことあるはずないと、他でもない春千夜が誰よりも知っているのに。
春千夜は、後片付けをしようと死体を抱えようとして、自分の手が見て分かるほど震えていることを理解した。一度認識すると、カチャカチャやかましいく鳴り続ける音が耳に入るようになり、それが震える手が刀を揺らす音だったのだと、今更ながらに分かったのだ。
恐怖と不安の波がドッと押し寄せる。欺く相手が居なくなった今、被っていた仮面が自然と外れていた。残ったのは飾り気のない、ただの明司春千夜だった。そいつには兄が居て、妹が居て、口の端に傷跡があり、どうしようもなく弱く、泣くような奴だった。あぁきっと、そいつじゃ耐えられない。この罪に、現状に、未来に。これから先ずっとずっとずっと、オレが辿り堕ちる終着点――修羅の道に、明司春千夜は耐えられない。だからまた、押し込んで、隠して、殺して、"三途春千夜"であろうとした。明司春千夜が生き返ることは、未来永劫在り得ない。
マスクはもう、要らない。
明司春千夜は今日ここで、確実に殺す。
隊長をひとりで逝かせるなんてこと、オレがするわけないじゃないですか。なんて、くだらないことすら考えてみる。
いつものようにギュッと力強く両手を握ると、震えは少し収まった。が、ビリリと痺れる感覚が残っており、手はしばらく使い物にならないなと判断した。手が使えない以上、春千夜は足で死体を軽く蹴飛ばした。反応はない。そのままぐるりと死体をひっくり返すと、瞳孔を開いたままの武藤と目があった。黒く、一切の光のない、濁った瞳。うんと昔、まだばあちゃんが居て、父が居て、兄と妹が居た頃。みんなで食べた尾頭付きの鯛が思い出されて、胃液がせり上がるのが分かった。食道が焼ける。どうにか抑えようと思ったが、匂いで麻痺した頭ではうまく体が動かせず、そのまま嘔吐した。朝から何も食ってないせいで、胃液に交じって胆液も吐き出される。鼻が曲がりそうだ。頭が痺れる。思わず目から、生理的な涙が溢れだした。それは一切の感情を伴わない、生物としての涙だった。
目が染みるので一度強く目を瞑ると、ほろほろと二粒、両の目から雫が流れ落ちた。目を擦ると、世界が明瞭に見えるようになる。睫毛が一つ抜けており、濡れた指にぺたりと張り付いていた。深呼吸をして、少し落ち着かせてから、春千夜はもう一度、武藤の顔を見た。
「隊長、こんな顔してたっけなぁ」
武藤の顔はふっと力の抜けたような、どこか諦めたような表情のまま硬直していた。派手に斬りつけたせいで、喉から頬にかけてべったりと赤い血が付いている。すでに酸化が始まっており、所々黒く乾燥したものがこびりついていた。
「まぁ、長いこと会ってなかったからな」顔の側にしゃがみ込む。「元の顔なんて忘れちまいましたよ、隊長」返事はなかった。
春千夜は武藤の目から逃れるように、じっと腹の方を見るようにした。いつか昼寝をしていた隊長は、呼吸に合わせて腹が上下に動いていた。だけれど今は、どれだけ待っても、腹が動くことはなかった。当たり前だろ、と乾いた笑いが零れる。もう一度、視線を顔へと向けた。暗闇がこちらを睨んでいるような気がして、再び胃の辺りが締め付けられる。春千夜は強く目を瞑り、吐き気の波が収まるのを待った。
痛いくらいに目を閉じると、瞼の裏にじんわりと何かが滲み、浮かぶ。白い何かがちらつく。
雪だ。白く、つめたい、雪。"あの日"、最後に隊長を見た日。数か月前の夜。同じ場所。なのに、やっぱりどうしても隊長の顔だけは、うまく思い出せない。
目を開く。隊長だったものが、こちらを見ている。春千夜は記憶を頼りに、見様見真似で死体の瞼に手を伸ばし、そのままそっと彼を眠らせてやった。今更ながらに、アイツが黒川の目を閉じさせてやった気持ちが、少し分かったような気がした。隊長の閉じた目尻からは、枯れた涙の跡が見えた。怒りなのか、苦悶なのか、悲しみなのか。今となっては知る由もない。知らなくて良い。知りたくもない。後ろ髪を引かれないように、無理やり思考を断ち切った。
春千夜が武藤を抱える。彼は、早くも死んだように冷たかった。死体に触れるのは初めてではなかったけれど、あれは葬儀屋が腐敗防止も兼ねた温度だと思っていた。思ったより硬直は早いし、すぐに冷たくなるのだと、また一つ余計なことを知る。いつか役に立つ日がくるのだろうか。
抱えた体は、見た目の割には軽く感じられ、少し驚いた。武藤の力強い戦い方からは想像できないぐらい、持ち運ぶのは容易だった。少年院での健康的な生活が、隊長の体重を落としたのかもしれない。それか、春千夜に力がついたか。
もしくは、彼の王の死。
死して尚、マイキーを苦しめ、隊長の心を蝕む男。ひどく腹が立った。
あぁ死ぬほど殴ってやりたいのに、それすら叶わないなんて。
「死者に縛られるなんて、バカですね」と隊長を揶揄うことは、春千夜にはできなかった。
武藤の遺体は生気のない抜け殻のようなもので、計画よりも苦労せずに遺体を台車に座らせることができた。上から大きめの布を被せて、隠す。それから、スーツのまま作業するのもおかしな話なので、車内から用意していた作業着を取り出し着替え、髪は帽子の中に入れ込むと、春千夜は埠頭に溶け込んだ。
このくだらない儀式めいた何かを、さっさと終わらせてしまおう。
そう思える程度には、落ち着きを取り戻していた。
カラカラと鳴る車輪の音と時折伝わる揺れを感じながら、死体を乗せた台車を押し進め、コンテナの山を潜り抜ける。何度も下見に来たおかげか、迷うことなく目的地に辿りつくことができた。
ガチャンと大きな音がした後、錆びで軋んだ音を立てながら、自分よりもうんとでかい扉を押し開く。ひんやりと冷たい空気が、こちらに向かって吹き込んできた。独特のさらりとした乾燥した空気が、春千夜の頬と頭を冷やす。
いくつもの荷物が積みあがった中から、春千夜が探していたのは冷凍コンテナだった。今はあまり使われていないそこは、死体を置いておくのにぴったりだと、前々から目をつけていたのだ。寒くて暗いコンテナの中は、春千夜の心をほんの少し和らげる。冬の冷たい倉庫を思い出す。台車から死体を下ろしてから、引き摺るように奥の方へと仕舞い込んだ。それから、死体の側に空き箱や発泡スチロールを積み重ねる。それなりの重労働だったけれど、これだけ動いていてもまだ少し、寒い。両手で自分の体を抱きしめるように、腕をさすった。肌にひやりと冷たい温度が伝わるが、それでも死体に比べたら温かい。
こんなところに居て隊長は寒くないだろうか、と一瞬考え、もうそんなものは関係ないのだったと思い直す。遺体を隠すために、上からブルーシートをかぶせた。どうしても雑には扱えず、昼寝した妹にやっていたように、優しく空気を含むようにかけてやる。これでもう、ただの荷物の山にしか見えない。もっとも、冷凍コンテナに死体があるとは、誰も思わないだろうけど。
とりあえず死体に関しては、ここで冷凍させておけば良い。数日置いておいてから、海に放り投げるのだ。そのまま海に入れ込むよりも、凍らせた方が腐敗が遅いため浮きにくく、魚の餌になりやすい。
あとは血や汚れも処理しなくてはいけないのか、と思うと気が滅入る。これが一番面倒なのだと、経験上知っていた。特に血は、早くしないと落ちにくい。あのスーツは一張羅なのだ。別に、これから先、隊長の生き血を纏って暮らすのも悪くないが、さすがに足が着くのは困るな。などとぼんやりと考えながら、春千夜は隊長を背に冷凍コンテナを後にした。錆びついた扉が再び大きな音を立てる。外の生暖かい風が吹き込んだ。
不意に、背後で物音がして、春千夜は慌てて振り返った。鋭く早く目を走らせ、周囲を警戒する。誰も居ない。ただ、真っ白な顔をして眠る隊長の顔が良く見えた。風に吹かれたのか、被せたはずのブルーシートが飛ばされたらしい。遺体の側に、青いくしゃくしゃの布が落ちているのが見えた。思わず飛び出た舌打ちが、誰も居ないコンテナに響き渡る。春千夜は、体の向きをくるりと変えて、そのまま死体の方へと戻った。薄暗いコンテナの中で、血の気の引いた白い隊長の顔がぼんやりと浮かび上がり、幽霊みたいで、少し笑えた。ブルーシートを足で軽く蹴とばすと、ぐしゃぐしゃと特有の耳障りな音が脳を貫き、顔を顰める。仕方がないので、春千夜はかがみ、ブルーシートに手を伸ばした。
「三途」
名前を呼ばれたような気がした。ここには、春千夜以外の生き物は居ないはずだ。ひと段落ついたことで気が緩んでいるのかもしれない。聞き間違えだろうと思い、努めて冷静に飛ばされたシートを拾おうとする。
「居場所を見つけたんだな」
春千夜の動きがピタリと止まった。中途半端な空に浮いた手が、動かない。聞き覚えのある声は、滔々と話し続ける。
「オマエは悪くねぇよ。王の為に、やるべきことをしたまでだ」それから、ふっと優しく息が零れる音がして、あろうことか「オレと同じだな」と続けた。
春千夜は決して、死体の方は見なかった。視線をブルーシートから離さないように集中する。脳裏に浮かんだのは、嬉しさを噛みしめながらも、困ったように笑う隊長の顔だった。たとえば、そう。「兄みたい」と伝えた日の隊長とか、「隊長について行きますよ」と告げた日の顔とか、誕生日のこととか。どうしようもない奴だと呆れながらも、振り払うことはなく、不器用ながらにも手を伸ばしてくれた時の、胸の内がくすぐられるような、隊長の顔。
春千夜の手が震え始める。体は硬直し、思うように動かない。
ちがう。隊長はそんなこと、絶対に言わない。ちがう。ちがう。
これは、ちがう。
ここが夢だと気がついたとき、人は、目を醒ます。
春千夜はだんだんと、自分の置かれた状況を理解し始めていた。春千夜の髪は長く伸ばしておらず、前髪を重たく切り揃え、襟足だけが伸びているはずだ。ここは冷凍コンテナではないし、肌寒いのは錯乱しながら窓を全開にした記憶がある。手にした布はブルーシートではなく、己の涙や唾液、その他体液でぐじゃぐじゃの毛布だった。
これまでの全て過去の記憶で、幻想で、逃避のための幻覚だと理解したとき、春千夜の心の支配したのはとてつもない嫌悪感だった。
「きもちわる」ちいさなちいさな独り言は、明かりもつけない薄暗い部屋に、吸い込まれる。胃の辺りがぐっと重く、暗く、沈む。体の中心に風穴が空いたような、不安と緊張と不快感を織り交ぜたような何かが、体内を蠢いた。
あの日、オレは隊長を殺した。
ただそれは、「隊長が裏切ったから」という理由だけでは説明不足で、言うなれば、あれは儀式だった。不良の世界でよくある儀式。かつてのチームを抜けて、新しいチームへと移るのであれば、信頼を勝ち取るために"行動"で示さなければならない。だから、東卍を抜けた場地は、千冬を殴った。マイキーを裏切る隊長は、伍番隊を連れて派手に暴れた。天竺についた九井は、乾を相手取った。そうやって、みな忠誠を示していた。そういう仕来りだった。
じゃあオレなら、どうする?
オレの椅子に残っているのは、マイキーと隊長だけ。
ならば答えは、言うまでもねぇだろ?
あの日、オレはマイキーに忠誠を誓った。
唯一の友と同じ道を進むために、その身を修羅に投じたのだ。