玖
あの日、オレは兄貴を斬りつけた。
顔面を狙ってナイフを振るう。ナイスヒット。
もっと良い気分になれるかと思っていたけれど、実際は、特に何の変化もなかった。もっと劇的な何かを期待していたのに。クソ。衝動的にやってしまったのが悪かったかもしれない。
何が起きたのか理解できなかったのか、武臣はたっぷり三秒ほど停止した後、じわりじわりと湧き上がる痛みに悶え始め、じろりとこちらを睨みながら、大声で何かを喚いていた。たぶん「なにしやがる」とか「ふざけるな」とか「誰がここまで育ててやったと思ってる」とか、そんな感じのことだろう。この時点で春千夜は、音だけ拾い中身は聞き流す体勢に入っていたので、詳細は分からない。だけど、アイツの言うことはいつも似たような話ばかりだ。
武臣の顔から赤い血が滴り落ち、彼の服を汚す。傷口を庇うように前屈みになったせいで、床にもこぼれ落ちていた。木造の家が、人の血を吸い上げる。傷口を直接手で押さえていたが、それでは雑菌が入り込み悪化するだろうに。ナイフが狙い通りの傷を残したのを見るに、だいぶ腕が鈍っているのだろう。よくそれで、チームのNo.2に収まろうとしていたなと、春千夜は心底呆れた。正確には、呆れるという感情すら湧かないぐらい、この実兄である男には失望していたのだけれど。
無反応な弟を「生意気だ」と判断したのか、鼻息を荒くした武臣が殴りかかってきた。力んだ足で一歩踏み出すと、ばあちゃんの古い家が軋む音がした。春千夜は、飛んでくる拳を最低限の動きだけで躱す。遅い。腕が空を切り、風が巻き起こる。そんな次男の態度が、更に長男の怒りを煽る。もう一度殴ろうとしてきたので、また受け流す。拳が柱にぶつかり、鈍く大きな音を立てる。兄妹の身長を刻んだ柱に、新たに兄貴の怒りが記録として残された。家主を亡くしたこの家は、図体のでかい男が二人、殴り合うためにはあまりにも小さすぎた。窮屈でいるのも、家を傷つけるのも嫌だったので、春千夜は手にしていたナイフをちらつかせると、はっとしたように兄貴は大人しくなった。情けない奴。武臣は視線を彷徨わせ「どうしたらこのクソ生意気な弟よりも自分が上に立てるのか」を考えていたのだろうが、とうとうやれることがなくなったのか、「オレの家から出ていけ」と叫んだ。「オマエの家じゃねぇだろ」という正論は、心の中に留めておく。兄は、普段は弁が立つくせに感情的になりやすく、私欲や怒りに呑まれると途端に弱くなることが多かった。そういう弱さを含めて、真一郎君は気に入っていたのを、春千夜は最近になって何となく理解した。納得は、していない。
何としてでも、春千夜より上の立場になりたくて必死な武臣の姿はひどく滑稽で、ようやく心が軽くなる。思わず乾いた笑いが春千夜の口から溢れた。笑えるくらい情けない奴。こんなのに振り回されていたのかと自嘲した。そんな態度が癪に触ったのか、兄貴は取ってつけたかのように「二度と帰ってくるんじゃねぇ」と、唾を飛ばしながら大声で付け足した。
「最初からそのつもりだよ」
春千夜はにやりとわざとらしく笑いながらそれだけ言い残すと、その場を立ち去った。武臣に背を向ける時、わざとナイフを見えるように持ったおかげか、背後から襲われることはなかった。それがさらに、春千夜を苛立たせた。
春千夜の家は、少し、歪だった。それは、どこにでもあるようなありふれた歪み方で、わざわざ他人に言いふらしたり、どこかへ駆け込んだり、誰かに助けを求めるほど大袈裟なものでもない。衣食住に困ることはなく、日々を生きることはできる。誰も死じゃいない。日頃から暴言や暴力が飛び交うわけでもない。だけれど歪は明確に存在していて、緩やかに、確実に、春千夜の心を蝕んで、明石春千夜を食い荒らした。それは白蟻みたいに、誰にも見えない内側からじわりじわりと侵食し、今にも崩れ落ちそうになっていた。空洞だらけの柱では、家は支えられない。そして今日、ついに最後の柱が壊れたのだ。決して、梵が結成されたからではない。それはきっかけでしかなく、長い年月をかけてゆっくりと蝕まれた何かが、とうとう限界を迎えた。ただ、それだけのことだった。
自室に戻った春千夜は、前々から準備していた自分の荷物を手に取った。念のため、忘れ物がないか確認する。もう二度と、戻らないつもりだから。悪いコトをしていた証拠も、可能な限り消しておいた。荷物といっても、私物は鞄一つ分しかない。この家に春千夜の所有物は、ひどく少ない。それよりも、愛用の刀と手入れ道具の方が場所を取っていた。日本刀をそのまま持ち歩くわけにはいかず、カムフラージュとしてギターケースに入れておく。自分の容姿を加味した上で、これが一番違和感なく刀を運べる鞄だった。実際に、今のところ人にバレたことはなく、警察に飛び止められることもなかった。
日本刀は、昔からばあちゃん家に置いてあった物だった。倉庫の奥のさらに奥に、埃をかぶってひっそりとしまわれていたそれは、レプリカではなく、紛れもない本物の刃物だった。隠しているつもりだったのだろうが、春千夜は昔からひとりで倉庫に居るのが好きだったから、どこに何があるのかなんて、この家の誰より知っていた。冬の冷え切った倉庫は静かで、薄暗くて、人を寄せ付けない。ここに居れば春千夜はひとりになれた。兄でもなく、弟でもなく、ただの明石春千夜としていられる。この家で唯一、呼吸がしやすい場所だった。今思うと、ひどく惨めで虚しい思い出だけれど、当時の春千夜にとっては一大事で、息継ぎをするために必要な空間だったのだ。それももう、お別れだ。
春千夜が荷物をまとめる間、勢い良く水を流す音が時折聞こえた。武臣だ。今頃、傷口を洗い、絆創膏でも貼っているのかもしれない。今日、千壽が居なくて良かったと心底思う。アイツが居たら、もっともっとうるさくて、面倒だったに違いない。いや、どうなんだろう。少しは成長したのだろうか。分からない。
春千夜の記憶にある千壽は、幼い姿が多かった。年を重ねるにつれて、春千夜は家に寄り付かなくなったから、当然だ。家に居る時間よりも隊長の家や、他の奴らとつるんでいる時間の方が圧倒的に長かった。そっちの方が、完璧ではないにしても、息がしやすかったから。記憶の限り最後に千壽を見たのは五条ジムで、自分よりもずっとずっと大きな相手に飛び蹴りを食らわせている、その後ろ姿だった。久しぶりに見た妹はとても軽やかな動きをしていて、ほんの少しマイキーに似ているような気がした。実力は足元にも及ばないにしても、小さな体を活かして素早く動くという点では、「系統が似ている」と言えそうだ。まぁマイキーの方がずっとずっと強いけど。
春千夜は元々ワカとベンケイに用があってジムの前を訪れたはずだった。正確に言えばただのお使いで、片手にぶら下がっている紙袋を渡すだけで良いはずだった。どちらかに声をかけようとドアノブに手をかけた時、ジムの窓からちらりと見えた、癖のある短い髪に思わず目を向けてしまったのが、間違いだった。本来なら五分もかからずに終わるはずの使いが、どうだろう。どれほどの時間眺めていたのか分からない。両の目が、あの桜色を捉えて離さない。千壽はふわりと跳ねた。彼女の周りだけ重力が小さいのではないかと錯覚してしまうくらい、ゆったりとした動き。一瞬、妹の背中に大きな羽が見えた気がした。白鳥のような、白く、大きく、悠然とした翼。カルガモは白鳥でした、なんて童話みたなこと。いやあれはアヒルだったっけ。昔、昔、まだ春千夜が兄だった頃、何度もせがまれて読んだ絵本。あんな暗い話のどこが良いのか、今でも分からない。居場所のないアヒル。それは、どちらだったのか。なんて、思わず舌打ちをして、あれを視界に入れないように、気配を消してそっと背を向けた。居ないフリをするのは慣れている。頼まれていた紙袋は、ドアノブへと引っ掛けた。それが最後の思い出だ。
曖昧な妹とは反対に、兄貴のことは長い間忘れられずにいた。常に、春千夜の側にあった。蛆虫みたいに、記憶が纏わりついていて、どうやっても離れない。最悪だった。武臣は、真一郎君の右腕だったはずなのに少なくとも春千夜にとっては最低の人間だった。兄貴は千壽を贔屓にすることが多くて、馬鹿な妹は兄貴に良いように使われていることを、知っているようで知らない。クソみたいな関係の、三兄弟。おそらく今は「千壽を嗾けてオレをぶっ飛ばそう」とか考えているのだろう。今のままではオレに敵わないと、つい先ほど身をもって知ったから。武臣にとって千壽は、かわいい妹であるのと同じぐらい、都合の良い駒なのだ。チームの名前を決めたのは、兄か妹か、どちらだろうか。生贄と犠牲の力、だなんてまさにオレたちの家にぴったりじゃないか。笑えてくる。
春千夜はすべての荷物を手にして、その身そのまま家を出た。別れの挨拶なんて、誰にもやらない。
外は澄み切った空気に満ち溢れ、ひんやりとした風が頬をなでた。爽やかな空気は今の春千夜の心を表しているようで、過ごしやすかった。日が落ち始めた空は、赤く燃えるような色ではなくて、淡いピンクと紫を混ぜたような不思議な色をしていた。上からピンク、黄色、青と全く違うバラバラな色が入り混じりながら並んでいる、ちぐはぐな空だった。薄明と呼ばれる曖昧で不確かな時間。不意にぶわりと吹いた風が春千夜の長い髪を巻き上げ、視界を遮った。おぼろげな色をした空に、白金色の髪が入り混じる。
あぁ、あの色がいい。
直感的にそう思った。今の色とはかけ離れていて、場地の青には至らず、だけどマイキーの赤に最も近い色。春千夜は、風で乱れた髪を耳にかける。いっそのこと、結んでしまうのもありかもしれない。なんて、少し先の未来のことを考えると、ちょっとだけ足取りが軽くなった。
そんないつかの記憶が、しゃぼん玉みたいにぷわりと浮かんで、はじけ飛んで、あぁ、あ?今、何を考えていたんだっけか。忘れてしまった。最悪な何かだったことは、何となく分かる。だって最悪の気分だから。毒々しいピンク色が視界で揺れる。なんだこれ。頭を傾けるとピンクも揺れる。ついて回る。あ、オレの髪か。こんな色だったか。もっと淡い色じゃなかったかぁ?でも、今ここにあるのだから、きっとこれだ。そうだ。そうに違いない。錠剤と共に吞み込んだ空気が喉の真ん中にへばりついていて、酸素はあるのに息苦しい。頭が痛い。微睡みたいに気持ちいい。最悪な気分だ。吐きそう。楽しい。あれ、なんだっけ。まぁどうでもいいや。
暗い。寒い。冷たい。さむい。痛い。ここは?ぐるりと見渡す。目が回って気持ち悪い。見慣れない場所のようにみえて、よく知っている場所。清潔感のある殺風景な部屋。そうだ、家だ。オレの、三番目の家。最近めちゃくちゃ忙しくて、荒れてて、でもちょっと立て直したから、見かねたアイツらに家に帰されて、それで、それで?
不意に、窓の外の影が落ちた。文字通り、落ちた。ドン、と鈍くて軽い音がした。何もない箱の中に、重たい石を落としたみたいな、遠く遠くまで響く音。波紋みたいに、真っすぐ落ちて、決まった形で広がる音。ぴしゃりと跳ねる液体。パカリと割れる頭。何かが落ちた音。何が落ちた?
マイキーの名前が浮かんで、風船みたいにどんどん膨らむ。やめろ、と叫んだところで、変わらない。心の内で、マイキーの存在がどんどんと大きくなって、鮮明になる。壊れたビデオみたいに、同じ場面を繰り返す。
風船が、弾ける。
バン。