七月七日になると思いだす。
草いきれの匂い、川のせせらぎ。夏の陽射しに反射して、輝く銀色。
父が死に、母方の実家がある田舎へ移り住んだのは私が九つになる年だった。
汽車を降り、母の実家へ顔を出したあと、私は近所の散策に出かけた。
母は都会から田舎の生活を強いられた私がグレてしまわないか心配していたが、そんなことはなかった。
汽車の窓から見えた美しい風景に、たちまち私の心は奪われた。
目にもまぶしい緑の木々に降る蝉時雨。白いヤマボウシ。かすかに風に乗って、堆肥の匂いが漂ってくる。
田舎ののどかな空気をまといながら、ヤマボウシの並木道を歩いた。頭上には木漏れ日を浴びるたくさんの白い花。ため息がでるほどに美しい。汽車の中で読んだ小説の主人公のように、喜びの白い道と呼ぼうか。そんなことを思いながら並木道を通り抜けた。
さらさら流れる川のせせらぎ。太陽に反射した水面がきらきら輝いていた。それ以上に輝いている銀色があった。青草の匂いを運ぶ、川風にそって揺れる小さな綿毛。
それは銀色の髪の毛をした男の子だった。年はたぶん私と同じくらい。川岸の大きな石に腰を降ろして釣り竿を垂らしている。捲った袖から見える腕は細く、肌は雪のように白い。
異人の子だろうか。好奇心が溢れ、やにわに声をかけた。
「なにしてるの」
「みてわからねぇ? 鮎釣ってんだよ。今夜の夕飯の」
「お魚いるの?」
「おー。いるぜ、いるぜ。って、おいおめぇそんなに身を乗り出したら」
私は男の子が注意するのも聞かずに、岩に登って、川の中をよく見ようと身を乗り出した、その瞬間。
「んぎゃあっ!」
ついた手が滑って私は川の中に落ちてしまった。幸い、落ちた高さもなく浅瀬であったため溺れたり怪我をすることはなかったが、銀髪の男の子に大笑いされてしまった。
「んぎゃあってなんだよ、んぎゃあって」
「笑わないでよ、ひどいなぁ」
「わりぃ、わりぃ」
そう言って男の子は白い小さな手を差し出した。私がその手を掴むと、思いの外強い力で引っ張りあげてくれた。子供特有の柔らかい感触のなか、指の付け根に蛸のようなものがあった。
「みかけねぇ顔だな」
「今日から、ここに越してきたの。緑の切妻屋根のお家よ」
「マジか。うちの近所じゃねぇか」
「ほんとうすっごい偶然ね! 私、千草です。あなたは?」
「俺は銀時。まぁ、近所だしこんな狭ぇ田舎ではなにかと縁があるだろうよ。よろしくな」
男の子、銀時は白い歯を見せて笑った。これが私と銀時の出会い。帰り道、銀時は教えてくれた。ここは天の川がよく見えると。
星空よりも街の明かりが勝る江戸に住んでいた私は本物の天の川を見たことがなかった。
とても楽しみにしていたのだけれど、その日の夜は突然の雨に降られ天の川は見えなかった。
十歳の七月七日、曇り。塾のみんなで七夕会を開くことになった。晋助と競って流し素麺を食べ過ぎた銀時はお腹を壊し、それから二日間寝込んでいた。
十一歳の七月七月、晴れのち曇り。風邪を引いた私は七夕会には参加出来なかった。翌日、銀時が七夕会で余ったスイカをお見舞いがてらに持ってきてくれた。風鈴の鳴る縁側で銀時と並んで食べるスイカはやけに甘かった。
十二歳の七月七日、父方の祖父が亡くなり、父の実家がある田舎へ帰省したため七夕会は不参加。帰ってきたら、銀時と小太郎と晋助は身体中に痣を作っていた。なんでも、松陽先生を貶めようとしていた剣術道場へ道場破りに行って、暴れ回ったらしい。先生からみっちり説教と拳骨を食らって、地面に半日埋まっていたとか。
十三歳の七月七日、台風に見舞われて七夕どころではなかった。嵐の過ぎ去った翌日、銀時が壊れた雨戸を修理しにきてくれた。
十四歳の七月七日、今年から七夕祭りが開催されるようで女の子たちは色めき立っていた。綺麗な浴衣を着て、好きな男の子とお祭りデート。晋助や小太郎は女の子たちから絶大な人気があってひっきりなしに声をかけられていた。
「なんであんなチビとロン毛がいいんだよ。趣味悪ぃな。今時、チビとロン毛なんざ流行んねぇよ。これからはお洒落パーマの時代だろーが」
誰からの誘いもなかったらしい銀時は拗ねていた。
「寂しい銀時君や。私とお祭り行きませんか?」
「おめーだって誰からも誘われなかった寂しい女の癖に。いーぜ、残り物は残り物同士仲良くしようや」
銀時は私も残り物だとからかうが、実は別の男の子からお祭りに誘われていたのだ。よく知らない子だったので断ったが。
それに、銀時とお祭りに行きたいとなんとなく思っていた。
銀時が女の子からお祭りに誘われていたら、と不安でいっぱいだったが、それは杞憂に終わる。
銀時には悪いが、彼が誰からも誘われなかったと知って心底ほっとした。同時に銀時とお祭りに行けることが嬉しくて、母に頼んで新しい浴衣を新調した。
慣れない手で髪を結って、薄くお化粧も施した。指と足の爪を桃色に染め、からころ下駄を鳴らして待ち合わせ場所へと向かう。
銀時はいつもの藍色の着物で待っていた。
おや、いつもは遅れてくるくせに珍しいと目を瞬かせていると、「遅ぇよ、ばか」と文句を言われた。
「女の子は支度に時間がかかるの。覚えておきなさいよ。せっかちな男はモテないわよ」
「へーへー。どーせ天パはモテねぇよ」
頭を掻いて投げやりに返した銀時はそれから黙った。神社までの道のり、私の歩調に合わせて歩いてくれる銀時の優しさに知らずと笑みが溢れる。
人でごった返す神社の中に途端、私はひとの並みに呑まれそうになった。
先を行く銀色の頭に助けを求めようと手を伸ばす。すると、武骨な手が私の手を握って、人混みから引っ張り出してくれた。
「ばか。はぐれんじゃねぇぞ。迷子になって探すのめんどくせぇからな」
「ご、こめん……」
私の手を掴んだ銀時の手。九才の頃と違って、大きくなっていて骨っぽく、硬い。あの頃とはまるで違う。銀時はここ最近で急激に背が伸びた。私と同じぐらいの目線だったのに、今では顔をうんとあげないと視線が合わない。声も低くなって、体つきもがっしりとしてきた。塾内の男の子たちのなかでも飛び抜けて精悍な体躯に育っていた。
大人の男に少しずつ近づいてゆく銀時に、めまいをおぼえた。
「なんだか曇ってきたね。それに雨が降りそう。去年は台風だったし、織姫と彦星は今年も出会えないのかなぁ。なんだか、可哀想ね」
神社の境内に腰掛け、銀時はりんご飴を、私は胡瓜を噛る。宵闇に包まれた空は灰色に染まり始めていた。
「そーでもないらしいぜ。七夕の夜に降る雨は織姫が彦星に会えた嬉しさで流す涙っつー話だぜ」
銀時は意外なところで博識だった。授業中はいつも寝てる癖に、ずる賢く頭の回転は早い。
「すごくロマンチックな話じゃない」
感心したような眼差しを向けたら、銀時はニヤニヤ笑って人差し指と中指の間に親指を挟んで
「今頃、ふたりは突っつきあってるんだろうけどな」
と下品な言葉を吐いた。感心した私が馬鹿だった。銀時は昔から下品な言葉を吐くのが趣味な男の子だった。見た目はそこまで悪くないのに、品の無さが女の子たちから嫌煙されている最大の理由なのだろう。
後から塾のみんなと合流して、小さな花火大会を催すことになった。
ネズミ花火をまき散らしてゲラゲラ笑ったり、両手に花火を持って晋助と小競り合う銀時。図体は大きくなっても、やはりまだまだ子供だった。
大騒ぎする男子や、きゃあきゃあ笑う女の子達から少し離れたところで私はしゃがみ、ひとり線香花火を楽しむ。他の手持ち花火と違って地味な花火だが、ぷくぷくと震える花火の玉が光の線を飛ばす様が好きだった。
線香花火はひとの人生を表すという。人生の始まりの蕾、青春を謳歌する牡丹、人生の中間地点の松葉、人生の後半の柳、そして人生の終わりを告げる菊。
起承転結になぞられて可憐に燃えて儚く尽きる線香花火の輝きは、蕾のままの私を魅了する。
何本目かの線香花火を点けた時。
「火ィ貸してくんね?」
銀時が私の隣にしゃがみ込んで、返事を聞かずに花火の火を移す。
銀時の手にある線香花火がパチパチと弾け、直ぐに燃え尽きていく。
「儚過ぎんだろ、線香花火。一瞬だな。俺ぁやっぱスパークがいーわ」
「風情が分かってないなぁ。だからモテないのよ」
「それ関係ねぇだろ。おめぇは一生線香花火やってろ。俺ぁ打ち上げ花火になって大輪の花を咲かせてやっからな。埋蔵金堀当てて一攫千金よ」
ドヤ顔をして親指を立てる銀時に呆れて物も言えなくなった。私が黙っていると、銀時は自分の言動に恥ずかしくなったのか、頭をボリボリ掻いて、それきり口をつぐんでしまった。
線香花火は嫌いと言っていた癖に、銀時は動かない。それどころか、立て続けに線香花火を燃やしては散らすを繰り返していた。
「あの、あのよ……その…………」
銀時が口の中でモゴモゴと話す。周りの喧騒に呑まれてよく聞き取れず、「なあに?」と銀時の顔に耳を近づける。銀時は俯いたまま、何本目かの線香花火に火を点けて、小さな声で囁いた。
「……に、似合ってんじゃねぇの、それ。…………浴衣……新しいやつだろ。う……ん……いつもより女らしくみえる、かもしれない」
誉めているというより、貶しているに近い言葉なのに、浴衣に気付いてくれた嬉しさで私の心臓は大きく爆ぜた。
「あ、ありがとぅ」
咄嗟に俯いて、火照る顔を隠す。あまりにも突然のことに焦り過ぎて噛んでしまった。恥ずかしさで穴があったら入りたい。気を紛らわせるために、私も慌てて線香花火を点ける。
「とぅってなんだとぅって」
銀時が喉を鳴らして笑っている。いつもなら言い返しているのに、早鐘を打つ心臓が煩くて言い返すことが出来ない。
ふいに、顔にかったほつれ毛を武骨な指が掬い上げた。頬に触れた熱い指先が擽ったくて、思わず視線を向けた。
「髪、いつもと違うじゃねぇか」
「に、似合ってないって言いたいの?」
「いや、こっちのほうがいい」
大人っぽくて、と付け加え、銀時はゆるりと唇を緩めた。淡い光に照らされた銀時の顔があまりにも綺麗で、美しく。私は目を逸らすことが出来なかった。
激しくなる鼓動は静まってはくれない。線香花火のしゅわしゅわとした音が消してくれることをただ願っていた。
十五になった年、松陽先生が幕府に捕らわれた。
銀時たちは先生を奪還するために、戦に出ることを決めたらしい。
七月七日、朝から降る雨は止むことを知らず、雨足は強まっていく一方だった。
塾の縁側に腰掛け、刀を抱えてぼんやり空を見上げる銀時の元に寄った。
「よお。ひでぇ雨だなぁ。七夕だってぇのによ」
銀時はへらりと唇を緩めた。松陽先生が居なくなってから銀時の目には生気が感じられない。あるのは深い闇だけ。
「戦に出るんだってね。晋助、お父さんと言い争っているらしいよ」
「あいつんちここいらでは名家に近いからな。ボンボンも大変だね、こりゃ。お家の傷を気にして流行りにものれねぇなんてよ」
でも、晋助はきっと家を捨てる気だ。私には分かっている。小太郎も、銀時も。命を捨てる覚悟でいることを。
傘の柄を握った手に力が入る。
「ねぇ。私も、連れていって。……先生を取り戻したいのは私も同じ。私、銀時たちほどじゃないけど、剣道だって強いよ? 知ってるでしょ? 刀握る覚悟だってできてるの。…………私、私は……銀時と一緒にいたいの。銀時のそばにいたい。お願い、連れていって」
やっとの思いで絞り出した声は上擦っていた。
長い長い沈黙の後、銀時は深い溜め息を吐き出した。
「刀ぁ握れたって、おめぇは所詮弱い。ンな非力で戦に出られたら足手まといだ。めーわくなんだよ」
やけに冷たい声だった。今まで聞いたことのないような、ぞっとするほど冷たい。
目頭が熱くなる。だめだ泣くな。歯を食いしばり、こらえる。
「もう帰れ。俺ぁ忙しいんだ」
刀を持って、立ち上がる銀時の瞳は虚ろだった。不安。悲しみ。怒り。恐れ。そういった幾つもの感情が張り付いた顔をして「おめぇは連れてかねぇよ。戦場に女はいらねェ」吐き捨てるように言った銀時は踵を返し、歩き出す。
銀時の背に向かって、私は言った。
「待っているから、私。銀時たちが帰ってくるの、待ってる」
返事はなかった。振り返ることもなかった。
激しくなった雨は地面を強く打ち、泥を跳ね、足袋を汚す。
次の日も、その次の日も雨は続いた。織姫の涙雨は、涙を流せなくなった者たちの変わりに泣いているようだった。
一週間後の七月十四日、ひぐらしの鳴く頃に彼らは戦場へと出立した。こっそり見送りに行ったが、銀時たちが振り返ることはなかった。
彼らがこの地へ、先生との思い出がたくさん詰まった場所へ足を踏み入れることはもう二度ないと、その時思った。
銀時たちが戦に出ている間、私は短冊に彼らの無事を祈った。そして、銀時に会いたいと夜空に燦然と流れる天の川をみながら願った。
あれから幾としもの七月七日を迎え、私は少女から大人になった。
いつまで経っても浮いた話ひとつもない私を気にやんで、周りはお見合いを薦めてくる。どれも気乗りせず断ってばかりいたら近所から白い目を向けられる羽目になった。
今時、結婚だけが女の幸せじゃないのに。
あの家の誰それさんは婚期を逃してしまった。かわいそうに。憐れむ視線を浴びることが嫌で、私は江戸へと逃げた。
「千草ちゃん、江戸に来て初めて迎える七夕よね。数年前からやってる七夕祭りでね、灯籠で天の川を作っているの。綺麗だから行ってみるといいわよ」
お世話になっている家政婦派遣会社の派遣仲間のおミツさんが教えてくれた。ひとりで七夕祭りに行くのは少し寂しいが、灯籠で作る天の川には興味があった。職場からも近いので、仕事帰りに足を運んだ。
会場は多くの人で溢れていた。星の形にくりぬいた竹灯籠の中には蝋燭が入っている。それぞれが願いを込めて火を灯し並べてゆく。蝋燭の淡い灯りはどこまでも続く天の川のよう。
入り口で竹灯籠を受け取り、適当な場所を見つけて蝋燭に火を灯す。願い事、何しよう。
会いたい、彼に。
心のなかにポッと出てきた願い。だが、直ぐに打ち消した。
あれからもう十年以上は経った。もしかしたら彼はどこかで家庭を作っているかもしれない。
今さら、会えない。
奇跡なんて、ないのだ。
蕾だった私は牡丹にもなれず、織姫すらなれない。ずっと蕾のまま、世界の片隅で燻っている。十四才の七夕の日、線香花火の頼りない光に照らされた銀時の顔が忘れられない。あの日から、ほんとうはもっと小さい頃から銀時が好きだった。私の心のなかにはずっと銀色が棲みついている。
会いたい、会いたい。もう一度だけ。どうかお願い。
突然、辺りが暗くなった。あるのは何百と並べられた灯籠の灯りと、液晶画面の明かり。
「江戸中が停電らしいぞ!」
誰かが叫んだ。
「あっ! お空!」
子供の嬉しそうな声。その声につられ、みな一斉に顔を上げる。そして、一斉に感嘆の声を漏らした。
満天の星空に輝く天の川が江戸の空に流れていた。
街の明かりが強い都会ではほとんど見ることの出来ない光景に、人々は歓声をあげる。
「天の川だわ!」
「きれ〜」
「写真とろーぜ、スマホで撮れるかな」
誰かに強く押されて、私は弾き飛ばされた。足がもつれ、バランスを崩して地面に倒れる寸前、太い腕に抱き止められた。硬い筋肉に覆われた、がっしりとした体躯で男性だと分かった。
「おい、大丈夫か?」
「す、すいません」
顔をあげ、私を助けてくれたひとの顔をみた瞬間、息を呑んだ。さんざめく星の光に照らされ、粒のように輝く銀色。記憶のなかにいる少年より、大人びた顔の。
「ぎんとき」
名前を口にする声は振るえていた。
「千草……なのか?」
記憶のなかの声よりも、ずいぶんと低い。だけど耳心地のよい声が、私の名を紡ぐ。
「久しぶり、だな。元気だったか?」
「……うん。銀時こそ。見ない間にずいぶんと老けたね」
「おまえ、久しぶりの再会でそりゃねぇだろ」
一笑した銀時に、少年の頃の面影が浮かんで、懐かしさがあふれでる。
「それにしても、こんなとこで何してたんだよ」
「職場のひとにね、この七夕祭りを教えて貰ったから、来てみたの」
「ひとりでか?」
「そーよ。ぼっちですよ。悪い? そーいう銀時こそ、みたところひとりじゃない」
もしかして、ほんとうは恋人と来ているのだろうか。胸が詰まる。
「仕事だよ、仕事。祭りの屋台やってんの。停電騒ぎで屋台どころじゃなくなったんだけどよ」
銀時は面倒くさそうに頭をばりばり掻いた。昔からの癖は変わっていないらしい。
「なぁ、千草。あのよ……良かったら、この後…………つっても停電が直ったらよ。久しぶりにお茶でもしませんか?」
久しぶりに再会した幼なじみに天の川の下でナンパされた、七月七日。奇跡は起こった。