ほろよい月夜

  
 私はその夜、友人と一緒にお酒を飲んでいました。数年ぶりの再会に二人してテンションが上がり、ちょっとした祝宴のようなものを居酒屋で開いていたのです。
 気心の知れた友人と酌み交わす酒というものは、なんと美味しいものなのでしょうか。偏屈な上司や要領を得ない同僚なんかと飲むよりも、数段と美味しいお酒を楽しむことが出来ました。大学生時代の昔話に花を咲かせ、やれ刺身だ揚げ物だ炭水化物だと、普段の節制からは想像も出来ないほどの、暴飲暴食の限りをお互いに尽くしました。
 お腹が満たされたころ、友人に一本の電話がかかってきたのです。友人は「ちょっと失礼」と言って席を外しました。通話を終えた友人は戻ってくるなり、もう帰らなきゃいけないと私に向かって、名残惜しそうに言いました。

 居酒屋を出た時点で、もう十二時を回ろうとしていました。その夜は花の金曜日でしたので、あまり時間を気にしてはいませんでしたが、まさか日を跨ぐほど飲むとは予想していなかった私は少し驚いてしまいました。友人とは店の前で別れました。次に会う日の約束を交わし、私たちはそれぞれの帰路についたのです。
 ついたはずでした。
 いつもでしたら真っ直ぐにタクシー乗り場へと向かい、睡魔と闘いながら家路につくのですが、その日の私はなぜか、タクシーではなく徒歩で帰ることを選択したのです。
 私はふらふらと、酔いに浸った足取りで夜道を歩き始めました。
 冷たい夜風が、お酒で温まった私の頬をさわさわと撫でています。秋の宵の心地よさを感じた私は、恥ずかしながら少々ご機嫌になってしまい、鼻歌なんかを歌いながら歩いていました。

 闇の中でほんわりと光る看板を見つけました。路地裏の入り口に掲げられていたその看板は、素面の状態でしたら、いかにも怪しく、近寄らない方が身のためだ、と思えるような雰囲気を纏っていたのですが、私は酔いに任せて、まるで光に誘われる虫のように、路地裏に踏み込んだのです。
 お酒とは恐ろしいものです。警戒心を薄弱とさせ、好奇心を最大値まで高めてしまう魔の飲み物だと、私はすぐに痛感しました。
 路地裏は暗く、入り組んでいました。踏み入った後でしまったと思いもしましたが、今更引き返すのも癪だったので、口を一文字に結んで、どんどんと歩を進めました。
 しばらく歩いて行くと、道が広くなりました。広くなったと言っても、幅一メートルぐらいでしょうか。ですが、今まで肩幅程度の道幅を闊歩してきた私にとっては十分広いものでした。
 いつの間にか頭上には、無数の提灯がぶら下がっていました。和紙越しの、柔らかで温かみのあるオレンジ色の灯りが、月明かりの代わりに道を照らしてくれていました。
 少し歩くと、道端に手のひらサイズの赤ベコがずらっと並んでいました。数十体の赤ベコが両端に、道の真ん中を見守るように置かれているのです。その赤ベコの、ゆるゆると首が動いているさまが不思議で、私はその中の一頭を手の平の上に乗せてみました。
 すると、それはぴたりと動くことを止め、じっと私を見てきたのです。気のせいではありません。だって見る角度をどんなに変えても、こちらを目で追ってくるのですから。その奇妙さに気が付いた時、私は年甲斐もなく、わっと大きな声を出してしまいました。
 私の声に反応するように、頭上に吊られた提灯が一斉に明滅しました。私は再び驚いてしまって、二度目の大きな声を出してしまいました。
 酔いも段々と薄れ、警戒心がむくむくと膨れだすと同時に、孤独感と恐怖心が顔を覗かせました。パニックになる一歩手前。一歩手前で、とある声が聞こえたのです。

「どうしたんだいお嬢さん。こんな所で大きな声を出していても、ヤヤモさんは来てくれないよ?」

 男性の声でした。私は声がする方に顔を向けました。チカチカと点滅する灯りの下に、蛇のようなお顔をした方が立っていました。私の頭の中はパニック寸前でしたので、判断能力というものが行方不明になっていたのでしょう。私は、あなたは誰ですか、という至極当然の疑問に思い至ることが出来ませんでした。
 提灯の灯りが落ち着きを取り戻したころに、私は手にしていた不気味な赤ベコを元の場所に戻しました。そしてやっと、私は彼に尋ねました。

「や、ヤヤモさんとはなんでしょう?」
「おや、ヤヤモさんを呼んでいるのではないのかい? ヤヤモさんが不要ってことは、目的は一つだね。さあさあ、そんな所に突っ立ってないでこっちにいらっしゃい。うちの店には美味しいお酒がしこたま揃っているよ。さあ、こちらに」

 蛇顔のお兄さんに手を取られ、私は誘われるままに道を歩いていきました。お兄さんは着物を纏っていましたが、洋服の私よりも歩調が速く、私は、お兄さんに半ば引っ張られるような形になってしまっていました。
人と話したことで孤独感や恐怖心は消え去りましたが、頭の中はしっちゃかめっちゃかです。
 ここから逃げ出したいとも思いましたが、それはお兄さんの好意に対して失礼にあたるのではないかと感じていました。そうです。例えお兄さんの言動の中に、居酒屋の強引な客引きに似た迷惑な親切さが混じっているのだとしても、店すら見ずにお断りしては申し訳がありません。なにせ花金です。多少の無茶は……いえ、これ以上意味不明な言い訳をするのはよしておきましょう。正直に申し上げます。正直なところ、私は、友人との祝宴では飲み足りておりませんでした。
 私も社会人として五年間生きてきた身。いっぱしの社会人を気取りたいがために、そろそろ居酒屋の一軒や二軒に一人で入れるようにならなければと、実は密かに画策していたのです。きっと、そんな企てが胸の中にあったからこそ、タクシーに乗る選択肢を捨て、この裏路地に足を踏み入れてしまったのでしょう。ですから私は、お兄さんの口車に嬉々として乗ることを決めました。

 お兄さんは饒舌で、時折冗談を交えつつお店の紹介をしてくれました。
 なんでも最近出来たばかりのお店らしく、お客さんが少ないために、こんな勧誘のようなことをやっているのだそうです。お兄さんのお店はカクテルや果実酒をメインに扱っているお店で、お料理や内装にもこだわっているとのことでした。
 私はそっと、あの奇妙な赤ベコのことを聞いてみました。すると、「あれはそういう仕掛けなんだよ」とおかしそうに笑いながら答えてくれました。最近のおもちゃはよく出来ているのだなあと私は感心して聞いていました。
 お兄さんの話を聞きながら歩いていますと、前から鮟鱇のようなお顔をした方が現れました。こちらの方も紺色の着物を着ています。この界隈では着物が流行っているのでしょうか。

「おう、ハクじゃねえか。いやあ、この前は世話ンなったな。ん? そこいるのは」
「このお嬢さんはお客様、だよ。僕のお店のね」
「何を言うか。どの店に立ち寄るかはお客様自身が選ぶんだ。お前さんが決めていい事じゃあねえよ。どうだい嬢ちゃん。儂の店に来ないかい?  儂の店はほかの店に比べて酒の品ぞろえがいい。東西南北、極楽地獄の銘酒がざっと二千種! どうだこの数。たまらんだろう」

 鮟鱇顔のおじさんは鼻をふんすと鳴らし、得意げに言いました。ハクと呼ばれたお兄さんは笑っています。

「いやいや、確かにオジサンとこのお店は、酒の種類は豊富だが、酒に重きを置いているせいで美味しくて手の込んでいる料理がないじゃないか。それに、店内は飲兵衛のおっさん連中が終始跋扈しているだろう。僕はそういうお店も好きだけど、どう考えても玄人向けだよ。とてもこのお嬢さん一人じゃあ行かせられない」
「ぬ」
「まあ確かに、お店を選ぶのはお客様の意志だよね。ちょっと強引だったかな、ごめんね」

 ハクさんは私にそう言うと、握っていた手を離しました。

「いえいえ、強引だなんてそんな。知らない場所で心細かったものですから、むしろ嬉しかったです。それに美味しいお酒、楽しみです」
「そう。それなら安心した」

 遠くで太鼓の音が聞こえたような気がしました。頭上の提灯は、相変わらず優しい光を湛えています。なんだか不思議な気分でした。酔いとはまた違う、ふわふわした気分です。
 おじさんに別れを告げ、ハクさんのお店に向かうべく、再び歩き始めました。
 するとまた、前方に人影を発見しました。しかもそれは、なんと私の見知った人でした。会社の同僚です。彼は私と目が合うと、ぴしっと固まってしまいました。
 お気持ち、分かります。同じ会社の人間に、社外で出会う事はとても気まずい事ですから。しかもこんな不思議な路地裏で知り合いに会うことになるなんて、誰が想像できたでしょうか。
 こちらから手を振ってみますと、ぎこちなく振り返してくれました。次の瞬間、彼は全速力でこちらに駆け寄ってきました。そのあまりの勢いに、私は反射的に後ろへ一歩下がってしまいました。

「み、湊さんだよね?」
「はい。まさかここで久山くんに会うなんて。なぜこんなところに?」
「それはこっちの台詞だよ。なんで君がこんな場所にいるの? どうやってここに入ってきたの? まさか誰かに連れてこられて……」
「あ、いや。ふらふらーっと歩いていたら、ふらふらーってここに着いちゃって」

 久山くんは納得がいかない様子で首を傾げていましたが、私の隣にいるハクさんに気が付くと、心底驚いたような声を上げました。

「誰かと思ったらハクじゃないか」
「久しぶりだね、リョウ。今からちょうど僕の店に行くところなんだけど……。もしよかったら一緒にどうだい?」
「……湊さんをお客としてじゃなく、俺の連れとして扱ってくれるならいいよ」

 ハクさんはため息を吐きながら、渋々了解の意を久山くんに伝えました。お客と連れ。一体何の暗号なのでしょうか。きっと、飲食店の業界用語のようなものなのでしょう。残念ながら私は、飲食店に勤めた経験がなかったので、その意味を解読することが出来ませんでした。


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