桜の下で

 
 春の宵。桜咲き散るその中で、私は命を絶った。服毒し、桜の大樹に背中を預け、絶命したのだ。
 あれは綺麗な晩だった。満月の光が白々しく辺りを照らしあげ。桜の花弁が雪のように舞い。無地の着物には桜の刺繍が施され。楚々として静謐な光景の中で。春の暖かさと共に桜の梢に寄り添って。はたと眠りに落ちたように。私は死んだ。
 完璧だった。綺麗に逝けた。それは恙無く成し遂げられた。私は夢を叶えたのだ。

 忍耐力は人一倍あると自負していた私だったが、その行為――綺麗に死ぬための工夫は、想像を絶する過酷さであった。しかしだからと言って、途中で諦め、止めてしまうことは出来なかった。私は綺麗に死ぬことを目標にし、これまでの人生を歩んできたのだから、最期の最後で台無しにするわけにはいかない。だから。だから、毒に焼かれる腑の痛みを必死に耐えながら、私はそれらを文字通り、死に物狂いで実行したのだ。
 まず、目を開けてはならない。なぜなら私が死んでしまった後、瞼を下げてくれる人がいないからだ。個人的な感情だが、私は目を開けた死体に宿る薄気味悪さを嫌悪していた。あれはあまりに死体すぎる。そこに美しさはない。
 次に、苦悶の表情を現してはならない。あくまで穏やかな表情を湛え、眠るように死ななければ意味がない。断末魔さえ予想出来得る顔なんぞ言語道断である。
 最後に、藻掻き苦しんではならない。いくら目を閉じ、安らかな表情で逝ったとしても、着物が乱れていては全てが破綻する。

 私は随分前から緻密に計画を練り、細心の注意を払って自死を実行した。満月の日に桜の木の下で服毒死。なんて理想的なんだろうか。その理想図に伸びている道は茨の道であったが、気力体力を総動員した甲斐あって、私は見事に、綺麗に死ぬという企みを、完遂することが出来たのだった。

 動かなくなった私を、すうっと見下ろしている『私』に気が付いたとき、私は自分が死んで霊になったのだと理解した。死後の世界は生前の世界と同じ場所あったのだ。他人の視点から私を見るという感覚が大変奇妙だったので、ついつい様々な角度から、私は私を見た。なかなか、どうにも絵になっている。綺麗だった。自画自賛である。素晴らしい背景のお蔭で、平凡な顔立ちの私が、まるでキネマの俳優のように見えるではないか。私は感動してしまって、私の姿を目に焼き付けた。
 しかし。私の幸福は、波にさらわれる砂の城のように、脆く崩された。あの時の事を思い出すたびに、今はもうない腸(はらわた)が、溶岩のように煮えくり返る。

 私が美しい死に方をして数刻の後、月が沈んだころのこと。白む空から追い出されるように、あいつが姿を現した。汚れた体を恥ずかしく思う知能もないあいつが。野犬である。野犬が一匹、ふらりと私の前に現れたのだ。私は無い血がざっと引く音を聞いた。
 追い払おうにも体がないのでどうすることも出来なかった。動物には霊が見える、と聞いていたが、そいつは酷く愚鈍なやつだったのか、私の気配を感じる素振りをみせない。叱りつけても、喚いても、懇願しても、泣き叫んでも、野犬はなんの反応も示さなかった。己が無力な存在なのだと痛感した私は、指を咥えて大人しく、その野犬の動向を観察するしかなかった。

 野犬は徐に私に近寄り、匂いを嗅いだ。死臭を悟ったのか野犬は私の顔に牙を立て、顔の凹凸を削るように小刻みに顎を動かした。私の死体は人形のように、されるがままに横向きに倒れた。食いやすくなったのか、野犬はさらに牙を食いこませ、私の顔を奪っていった。
 私は怒ることすらできなかった。ただ、その場にへたり込み、野犬の食事風景を、絶望と共に見ていた。私の顔は、落下し潰れた熟柿のようになった。果肉と果汁が――肉と血が、汚く混ざり合い、周囲に飛び散る。
 顔の表面を削ぎ尽くし、食う肉が無くなったのか、野犬は私の頭部から離れて腹を食い破りにかかった。整えられた着物を乱し、真っ赤に染まった大口を開けた。私の腹は簡単に破られた。はふはふと、一心不乱に内臓を食い散らかす野犬の横顔は、生前に見たなによりも凶悪だった。
 腹を満たした野犬が立ち去り、いくつ時が過ぎただろう。朝日が私の死体に降り注ぎ、無残な姿をはっきりと縁取っていく。それをぼうっと見ていた私であったが、だんだんと冷静さを取り戻し、この悲惨な現状にやっと怒りを感じることが出来た。やり場のない怒りに打ち震えるが、もう遅い。汚いばかりの死体を見て、私は涙が溢れた。
 落ちている死肉に気が付いた虫たちが、私の体に集りだす。顔だった場所には蠅が卵を産み付けた。耕されていたせいか、蠅は容易にその作業を終えた。

 朝風が温みを含み出したころ、私はようやく、母によって発見された。次第に野次馬が増え、桜を中心にして歪な円を作っていく。
 こんな姿になって。母が言った。泣き崩れる母を見て、少しだけ申し訳ない気持ちになった。私は、綺麗に死んだのだと伝えた。こんな生ごみのようになるなんて考えもしなかったと訴えた。
 言葉は届かない。母は手を合わせ、苦しそうに嗚咽を漏らす。その時、野次馬の一人が私を見て言った。
 可哀想にと言ったのだ。可哀想に。若くして死を選ぶだなんて、と。私は激昂した。母を蹴飛ばす勢いでその野次馬の元に駆け寄り、声を張り上げた。勝手を言うなと。
 憐れみという蔑みが、私は許せなかった。可哀想とはどういうことだ。死を選ぶことが憐れだとでも言いたいのか。綺麗に死んでみせることが、私の生きた目的だったのだ。だからこそ、野次馬のその言葉は、私の生を、私の死を、愚弄したように思えた。
 いくら声を荒げ反論しても、私の心からの訴えは、その野次馬は勿論、誰の耳にも届かなかった。

 きっと。きっと私の死体がこんな無様で目も当てられない状態だったから、可哀想だと思われたのだと、私は私自身に言い聞かせた。あれが来る前に発見されていたら、きっと母も、野次馬共も、一様に綺麗だと言ってくれたのではないか。
 ならば。そうだ。全てアイツのせいだ。あの一匹の野犬のせいで、私の何より成し遂げたかった夢は、無残にも散らされてしまったのだ。
 悔しさのあまり、私はその場に留まることにした。こうして私の、地縛霊という第二の人生が始まったのである。
 

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