この世界に二人だけ

 私は彼女が好きでした。何よりも、誰よりも、私は彼女が好きでした。彼女のような、まるで遥か天上から舞い降りた天女のような人物を、私はこれまで見たことがありませんでしたので、彼女との出会いは、私にとって衝撃以外の何物でもありませんでした。今までの私の人生を、根底から全てひっくり返されたような、ある意味では恐ろしく、また、ある意味では神々しくありましたので、私はすっかり、彼女に魅了されてしまいました。きっと彼女は、鬼すらも虜にしてしまうに違いないでしょう。それほどまでに彼女は、筆舌に尽くしがたいほどに、秀麗で蠱惑的でした。

 黒鳥よりも艶やかなその髪が。憂いを含んだその眼差しが。花弁のようなその唇が。根雪のようなその肌が。太陽のようなその笑顔が。慈母のようなその優しさが。全てが全て、疑う余地もないほどに、完璧で、愛おしくて。

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 都島里枝(つしまりえ)は葛野友美恵(くずのゆみえ)の事が好きでした。それは友情の垣根をとうに越え、恋情にすっかり移り変わっていましたので、里枝当人からすればどうしようもない程にじれったく、まさに身を焦がすような想いでした。里枝と友美恵は高校からの友人ではありましたが、二人の仲の良さは他の生徒に比べても、双方の古くから慕う友人と比べても、群を抜いておりました。まるで十数年来の親友のような二人は、学校は勿論の事、休日さえも会う程でした。そんな、傍から見れば飽き飽きするような日々でしたが、二人は一つまみも飽きずに、その日常を満喫しておりました。
 高校の卒業が近づくにつれ、里枝は余りの悲しさに振り回されるようになりました。簡単に説明するとするならば、それは情緒不安定という物の他にありません。乙女の細やかな矜持からでしょうか、暴れ回ることは終にありませんでしたが、里枝はしくしくと人目を忍んでは泣くようになりました。
 これは非常に残念で残酷で、しかし一方では当然の事でもありますが、里枝と友美恵は将来歩む道が違っていたのです。それを知った時の里枝の悲しみようは名状し難いものでした。悲哀の表情を浮かべる里枝とは違い、友美恵は朗らかな表情を浮かべておりましたので、その自分とは対照的な雰囲気の友美恵を見た瞬間に、里枝は怒りにも似た物寂しさを感じました。孤独と言うよりも裏切られたような。憎悪と言うよりも絶望に近いような。その形にし難い思いは、まるで一滴の毒に似ておりました。その毒は、日に日に里枝の内面を蝕み、足音もなく静かに、確実に、侵していきました。もしも心に血が通っているのだとしたら、里枝のそれはどろどろに濁りきり、淀みきり、腐臭すら漂っていた事でしょう。そんな汚物のような心を内包しながら、里枝は毎日を、時折涙を流しながら過ごしておりました。
 そしてとうとう里枝は、その複雑なる、中毒を拗らせたような心中を友美恵に打ち明けることなく、その日を迎えることになるのです。


 それは、いつものように友美恵と会った帰り道の事でした。里枝は何気なく、普段とは違う道を通ってみようと思い立ちました。それは本当に偶然で、理由なんてないほどに何気ない事でした。家路へと続く一番の近道を外れるように、歩く道を一本変えては二本変え、家とは違う方向に曲がり、気の向くままに歩いておりました。里枝は生まれた時からこの町内で育ってきましたので、迷うなどと言う不安は欠片も持ち合わせていませんでした。わざと道を違えて、辿り着いたこの少し狭い公園も、それを囲うようにして建ち並ぶ住宅も、里枝にとっては見知った風景でした。ですが、一つだけ。ただの一つだけ、見知らぬものがありました。住宅の並びの中に、朽ちた廃墟が一軒、混じっていたのです。廃墟に立ち入ることが危険だとは重々分かってはいましたが、先程まで友美恵に会っていたからか、気持ちが高揚し、冷静さが少しばかり消えていたせいで、その好奇心を抑えることが出来ませんでした。そうして里枝は、その廃墟に足を踏み入れました。
 
 廃墟には扉がありませんでしたので、容易に中に入ることが出来ました。中に入り様子を伺いますと、窓硝子は割れ、畳は朽ち果て、虫が羽音を響かせ飛んでおりました。不気味ではありましたが、恐怖心は左程ありませんでした。ですが、入ってすぐの、石張りの土間から先に進むことは流石に出来ませんでした。きっと床が腐っている、と里枝はほんの少し冷静さを取り戻し、その場に立ったまま上を見ました。その廃墟には天井がありませんでした。いつ崩れてもおかしくない、と感じた里枝は、立ち去ろうかと考え、視線を下へと下ろした際にそれを見つけてしまいました。それは、以前この住宅に住んでいた人の持ち物だったのでしょう。里枝の視線の先には風呂桶よりも大きな水槽がありました。どう考えても土間には不釣り合いな大きな水槽が、広くはないこの空間を占めるように捨てられておりました。引っ越しの際に持ち出すことを諦めたのでしょうか。それとも処分に困ってわざと捨て置いたのでしょうか。どちらにせよ、里枝には理由を知る術はありませんでした。
 里枝はその水槽にそろそろと近づき、観察してみました。側面に少し罅が入ってはいましたが、内側まで裂けていると言う風ではなく、水を入れたとしても漏れることはないように見えました。これはまだ水槽として生きているのだと、里枝はまた何気なく感じました。
 そうしてその、まだ大きな水槽が生きていると感じた瞬間に、里枝は天命を受けたかのような感覚に襲われました。勿論、今まで天命などという物を受ける機会がありませんでしたので、あくまで妄想上の感覚、という物ではありましたが、そのような説明は彼女にとっては何ら意味を持ち得ないでしょう。兎に角彼女は、里枝は、その時天命を受けてしまったのです。
 それから卒業までの数日間、里枝はその廃墟に通いました。毎日毎日、白い百合の花を両手いっぱいに買い込んで。


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