あなたのために
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 サクラを迎えたリビングは、明るい陽に包まれて、白い壁をやわらかく反射していた。テーブルにはシンプルな細長いグラスが、氷を浮かべてサクラの席に。汗ばむ季節になったのを見計らってか、ネジは最近すっきりとしたアイスティーでサクラを持て成してくれる。
 何度目にか訪れた、ネジの住まい。今日も変わらずさっぱりと物がなく、静かな時間が流れている。
 ほんの数分前までごく和やかな雰囲気に包まれていた。そう思っていたのは或いはサクラだけだったのか。今考えれば、彼はもう幾許も長いこと踏み込む機会を窺っていたのかもしれない。
 ソファーに凭れていたネジが、そっと音もなく、隣に座るサクラの肩に腕を回した。鍛錬に打ち込んでいるのしか知らない、その手は大凡想像もつかないくらいに男のものだった。
 思わずと身を硬くしたサクラは、これでも唯一堅物なネジに寄り付くことを許された存在だ。ただ、互いに忙しくしている為か、これまで中々そのような切っ掛けに至る機会は訪れなかった。ずっと、何となくこのままの関係で過ごしていくのかと思っていたが、ネジは違ったのだ。今まで無暗に触れられることなどなかった、ネジと笑い合う楽しくて心地良い時間は、切ないほどに苦労して積み上げたネジの優しさでできていた。
 物言わぬ、熱烈な視線に囚われて身動きができなくなる。ふと至近に感じた息遣いに、サクラの顔がかっと熱くなった。

「あ、あのっ……わ、私、綱手様に呼ばれていたんでした……そろそろ、行かないと」

 意思とは関係なく、気付けば唇からつらつらと紡がれていた。どうしてこんなことを喋っているのか自分でも分からない。生まれてこの方本性を偽ることはあっても率先して嘘をつくことなどなかった。
 急に立ち上がったサクラに動じるでも疑念を向けるでもない。ただネジの綺麗な色の瞳に映るのが、居た堪れなくて、呑み掛けのアイスコーヒーをそのままにヒラリとサクラはネジの前から立ち去った。







――――最悪だ。
 帰宅すると自室に籠って、サクラは頭を抱えていた。今になって後悔の念が渦を巻いて、激しくサクラを責め立てる。
 正直、全く異性ネジへの恐怖がなかったと言えば偽りになる。だけど、あれほど誠実で直向きなネジに、恐れを抱く理由はないのだ。それを、一番にサクラは知っている筈なのに。
 ベッドに重く沈み込んでいた顔を起こすと、サクラはコロリと体勢を変えて天井を仰いだ。あの時のネジの表情が、諦めにも似た物寂しさを含んでサクラの脳裏に蘇った。恐らく女性の扱いに慣れていないだろうネジが、どれほどの決意と勇気でサクラに近付いたのか。その手を、振り落すように拒絶してしまった。――――ネジさん。
 瞼をおろして呼んだ名は、狂おしいほどに胸を焦がした。









――――最悪だ。
 何もない綺麗に片付けられたテーブルに肘をついて、相変わらずネジは項垂れていた。数日経っても復調の兆候なく、未だ自らの齎した悪夢から抜け出せないでいる。
 任務に支障が出るほどでもないが、ときどき身の熟しに針の穴ほどの誤差が生じた。溜め息ばかりついていると、班員達から“辛気臭い”と煙たがられて、無意識的に素を晒していたことに大層驚く。後でこそりと、勘を働かせたテンテンに“サクラと何かあったの?”と訊かれたが、無言で往なした。
 キッチンに立ち寄って、蛇口を捻ったネジは食器棚から出した新しいグラスで受ける。洗い場に伏せたままのグラスを中々仕舞えなかった。あれからサクラは一度も此処を訪れていない。
 大した持て成しもできないのにいつもサクラは嬉しそうにネジの隣で笑っていた。今はその無垢な笑みが胸に突き刺さるようだ。多分信頼しきっていただろうサクラを先に裏切ったのはネジだ。もう、多分此処には。
 水を喉に流し込んでそっと息を吐くと、家のインターホンが鳴った。在宅中に来客など滅多にないが、珍しいこともある。そう、ただ一人を除いて。傍らの伏せたグラスに目を留めたネジは、まさか、と卑屈に眉を寄せて一蹴した。
 而して玄関に移動しドアを開けると、薄紅の髪が立っていた。





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