あなたのために
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「お、お邪魔します!」

 数日振りに見たネジは思ったより顔色が良かった。が、それが不機嫌ではないという証明にはならないだろうか。サクラを見るなり驚きを僅かに顔には出したが、その後平生の涼しい表情に戻ったところから、はっきりとした感情の変化は読み取れなかった。
 いつもより張り切って家に上がり込んだサクラは、そつなくリビングに案内するネジの背中を追い掛けた。くもり空のこの日は幾らか部屋の中が薄暗かった。急な訪問の為かテーブルの上はいつにも増して殺風景だ。
 ソファーの慣れた席でじっとしていると、キッチンからネジが氷の浮かべたグラスを持って来た。馴染みのアイスコーヒーだ。ぶきらぼうなりの気遣いにほっとして、サクラはそっと寡黙な面差しを見上げる。けれど、ネジとは視線が交わらず、加えて彼はサクラとは微妙に距離を置いて座る。部屋に閉じ籠もって避けられるよりは、良いと思うべきか。

「あ……あの」

 膝の上に置いた両手をきゅっと握って、サクラは少しだけ明るい声を出した。客人用の用途か、もう一つあった一人掛けのソファーに腰を沈めたネジは視線だけを動かす。その様子に、言うべきことが胸の中で閊えてしまった。不機嫌などではない、サクラはネジを、勝手な言動ウソで随分と傷付けてしまったのだ。
 目の前に置かれたアイスティーを、言葉無く見つめていると、そうだ、と独り言のようにネジは呟く。

「……この前、忘れていっただろう」

 側にある引き出しから、見覚えのある花模様のハンカチをネジは取り出す。
 この前……とは、今の二人には意味深過ぎて、心なしか冷たい空気が流れた。グラスの水滴を、確か拭き取るのに使ったのだったが、例によって置いて帰ってしまったようだ。

「あ……そうだったんですね、すみません」

 その場に留まるネジの手には届かず、サクラは立ち上がって取りに行く。何なのだろうこの距離は。自分からは絶対に近付こうとしないネジの強固な意思が垣間見える。
 皺のひとつなく綺麗な正方形に畳まれて、ハンカチはネジにより洗濯されたようだった。ネジの心遣いは変わらなかった。無言で用意したアイスコーヒーだって。それなのに。どんなにサクラが見つめても、距離を縮めても、ネジは目を合わせてくれない。
 こわばったサクラの手が、ハンカチを掴み損ねた。手から擦り抜け下に落ちたそれを、ネジが暫く間を置いてから屈んで拾い上げる。サラリと肩から滑り落ちる黒髪が、急に他人のように思えて、サクラは衝動的にネジの首に抱き付いていた。

……サクラ?
 落ち着いたネジの声が耳のそばで聴こえる。おそらくネジと同じくらいの勇気を持って、サクラはネジに触れている。

「あの、私、この前のこと、ずっと謝りたくって……」

 不安でいっぱいの苦しい胸元から、やっとそれだけ絞り出す。震えてしまいそうな指先にきゅっと力を込めた。今離れたら、もうネジは話を聞いてくれない。

「……この前のこと? どんなことだ? 謝るようなこと、何もしていない」

 表情が窺えないネジは、サクラを諭すような、優しい声色をしていた。サクラにはひとつも非がないみたいに。最初から何もなかったみたいに。けれど、サクラがここで退いてしまえば、ネジとはこの先どんなに側にいても通じ合えない気がした。

「違うんです、私、ちょっとびっくりしちゃっただけで……嫌だった、わけじゃなくって」

 何も言わなくなったネジはサクラの腕の中で大人しくしている。弁解をしたいのではなくて理解り合いたい。ネジの心に触れたい。だけど、冷たくもサクラを思いはかる何方付かずなネジに、辛くなってしまったのも事実だ。

「だから……も……そんな……よそよそしく、しないで……」

 言葉の終わりがにじんで、必死に唇を噛む。祈るような気持ちでサクラはネジに縋りついた。
 サクラーーとネジが、肩口に顔を押し付けるサクラを案じた。

「ごめんなさい……嫌いに、ならないで……っ。すきなの、ネジさん」

 静かな、静かな部屋の中で。ネジが息を呑んでいる気配がする。
 例えば、本の頁を捲る繊細な音が時間を動かすように。サクラの好いている、静寂の住み着いたこの部屋は変わらずに二人に時間の感覚を忘れさせる。何よりも好きだった。偶にしか会えないネジの傍らでこうして過ごすこと。
 躊躇するには十分過ぎるほどの、間を置いて、ネジはそうしてサクラの想いを噛み締めるように、しているのか。やがて、背中に丁寧な所作で掌が触れて、サクラはネジの胸に抱き留められた。

「……オレもだよ、サクラ。嫌いになんか、ならない。……すまなかった。どう接したら良いのか、分からなくなった」

 腕の温もりにじんわりと包まれながら、サクラは耳元に届くネジの言葉を大切に頭の中で辿った。ほっとしながらも心が締め付けられて、戸惑いの深淵にずっと立たされていたネジを知る。淡々としているが其処此処に狼狽の色が滲んでいた。感情を隠せない、こんなネジの声を初めて聞いた。

「オレも、サクラと同じ気持ちだ。だけど……サクラの嫌がることは、したくないから」

 頬にネジの体温を感じながら、サクラは急速に目が覚める感覚がした。今は心地良さを呉れるネジの手は、あの時は酷く熱かった。
『オレも好きだ』と率直に告げないネジのことは理解している。だけど、ひとたび拒絶されたことは容易にはネジの中で消えない。

「イヤじゃない、イヤじゃないの」

 まるで我が儘な子供の言動で、いや事実サクラは“幼かった”のだ。触れてきたネジの手に恥じてしまうほどには。だがもう同じ過ちを繰り返さない。きっと逃げないから――もう一度、真っ直ぐに見つめて欲しい。
 きつく縋りついた首元から腕を緩めて、白い面差しを覗き込むと、深海に沈んだような瞳とサクラは対面した。大丈夫、という意味を忍ばせて首を微かに振る。
 触れそうなほど至近にあったネジの唇が、その刹那、吐息と共に囁いた。

「……オレは、サクラが思っているほど、優しい性格じゃない」

 ひとたび許されれば、自制など簡単に外れて貪欲に欲深に手に入れたくなってしまう。そんな男の冴えない性質を心得ているのか、その上でこのように嗾けているのか。
 それでもか――? ネジの真摯で清らかな眼差しがサクラの眼前で伏せられる。息が止まるほど秀麗で、少しだけ不器用で、これまで付き合ってきたネジの人間性がやっと見えた気がした。
 最後に踏み止まる機会を呉れたネジは、既にその言葉の限りではないだろう。

「ネジさんは……ネジさんが思っているよりも、ずっとやさしいわ」

 


 張り詰めた表情が、やがてゆっくりとやわらいでいく様を、止まった時間を速めぬように、サクラは心を穏やかにして見届けていた。引き締まった貌の輪郭を、雲間から覗いた白い陽射しが少しずつなぞっていく。壁を伝って光に満ちる部屋は、そのまま、霧の晴れたふたりの感情だ。
 指先を白く透ける頬に添えると、淡く水面の光を湛えたネジの瞳が綻んでいく。顎まで辿って離れたサクラの指は、ネジにそっと包まれた。
 もう、逃げないから。誰よりもあなたが好き――。
 触れた指先を絡めあって、簡単にはほどけなくなると、優しい射光ひかりを受けながらサクラは瞼をおろした。




(了)


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