sweet-and-sour crepe
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「今日? 何かありましたかね」

 はて、とすっとぼけたような、どこか本気を思わせるネズの反応に、ユウリは弾むように駆けてきた身体をネズの前で硬直させた。
 試合後のインタビュー、対戦相手への挨拶もそこそこに全速力でやって来たというのに。これには他ならぬネズが関わっている。こんなの酷いんじゃないか。今日の勝利のためにユウリ(と主にポケモン達)がどれだけ厳しい修行に骨身を削ってきたか……。
 事の発端はつい今しがたのことだ。試合後、待ちきれずに階段を駆け上がってきたユウリが、控え室そばに立つネズを見つけた。今日は二人で事前にある約束をしていた。バトルを一生懸命頑張ったら叶えてくれると言われた。だから、覚えていてくれて嬉しくて、今日を楽しみにしていたのだと素直に笑顔を満開にしたところ、彼は憎らしいくらいに空気も読まず言い放ったのだ。
 宛らメッソンの「なみだめ」状態、髪は乱れて息切れて、チャンピオンの要素はほぼユニフォーム頼り。そんな、まるでお菓子を取り上げられたみたいな子どもの必死さに、ついにネズはクッと息を漏らした。

「……忘れてないですよ。だからここにいるんでしょう」

 普段から寂寞の黒いオーラを放っているようなネズが、一転陽光の下にたたずむような軽やかな微笑をうかべている。ユウリはぽかん……とそのあまりの懸隔に我を忘れる。
 グローブに包まれた細い指先が伸びて、呆けているユウリの好き勝手に動きのついた前髪を額に撫でつけていく。
 髪をすべるこそばゆい感触につい目を瞑りながら、あ、そうか……とユウリは腑に落ちた。たしかにネズは自分の住む町からなかなか出てこない。名だたるジムリーダー達が顔見せした、あのジムチャレンジの開会式でさえ。スタジアムに足を運んで他所の試合を観る習慣もなければ、ネズは大概ひっそりとしたあの町に引きこもっている。
 それにしたって、ネズも大体人がワルいが、こんなに簡単にダマされるユウリもユウリで……自分の単純さを呪いたくなる。
 髪を直す指先にも、それが如実にあらわれている、気がする。ある意味でショックを受けて、ユウリが首を垂れてしおらしくしていると、上から優しいため息が降ってきた。

「ほら、待っててやりますから、先に着替えてくるですよ」

 ご機嫌を取るみたいに顔を傾けて、だけども癒しのその表情は瞬く間にしおれたユウリを包み込んでいく。今日ネズが来たのは他ならぬユウリのため。
 そう思えば、勝手にユウリの心は晴れていく。次の瞬間には、コクッと元気にうなずいて、すぐさま控え室に踊るような心持ちで飛んでいった。
 その場に残されたネズの元に名残の微風がふわりととどく。大凡呆れ半分だろうがその目蓋は心地よさそうに閉ざされた。
 直後、和やかな空気を揺るがす一陣の風がまた吹いた。ネズの長い髪を俄かに舞い上げながら、颯爽とそれは彼の脇を通り抜ける。

「ユウリくん! 失礼するよ」

 閉めたばかりのドアを盛大に開けながらそう宣言して、中にいるユウリが高い声を上げる。バトル後の昂った心身をクールダウンしようとも、女子にどんなルーティンがあろうともこの男にはまるきり関係ない。彼の情熱の宿る金色の眼はすでに、煌々と輝いてユウリを離さない。

「素晴らしく、熱く痺れるいい試合だったぜ……! おれは感動した! いや、おれだけじゃない。あの瞬間、ガラル全土が熱狂し、誰もがきみのバトルに夢中だったぜ!」

 逞しい胸板に自身の拳をドンっと置いて、まるで自分のことのようにダンデは誇らしげでいる。
 前チャンピオンからの推薦を獲得、そして新チャンピオンの座に上り詰めた、ユウリの実力というのは最早ダンデお墨付きである。
 こんな風に熱弁されるのは素直に嬉しく光栄なことだ。ただ些か突然だっただけにユウリは固まってしまった。ホップと同じ年端のような、まるで彼に重なる無邪気で奔放なダンデの勢いに呑まれ、はい、あの、と会話にならないものをもらすばかりだ。放っておけばこの彼のあつい瞳からは本当に星が溢れそうだ。

「それでユウリくん、提案なんだが、この後時間あるだろうか。きみを食事に誘いたいんだが」

 ガラルの未来を背負う若き王者を、一頻り褒め称えた後、ダンデは俄かに首元のスカーフを品良く整え出した。
 どういう話の展開だ。と周りで待機しているリーグスタッフは思わず目が点である。思い立ったが吉日な、明るくエネルギッシュなダンデの行動力には誰もついていけていない、今のところユウリも。

「良い店があるんだ! 特別なコースで、たまにはきみの努力を労わせてくれ! ……実は、ホップもまだ連れて行ってやれていない店でなあ……ははっ、あいつ怒るだろうから内緒にしておいてくれ。……どうだろう」

 コロコロと切り替わるダンデの態度にユウリは翻弄されっ放しだった。話がどんどん進められていくようで益々焦っていく。ダンデらしい計らいだが、今日のところはちゃんと丁重に断らなければ。ホップに黙っているというのも何か寝覚めが悪い。
 そう、だったらその弟を先に連れて行ってやったらいい。あんなに兄を慕っているのに可哀想だろう……と傍聴席のスタッフは口にさえしなくとも、不運な弟を思いやり密かにハンカチを濡らす。
 そうしてユウリが背筋をただしてダンデに返答しようとした時だった。少々複雑な事情で散らかる室内に、カツリと控えめな靴音が鳴った。

「ユウリ、おれのことはいいですよ。ダンデの言うことも一理あります。試合で疲れも溜まっているでしょうし、たまには贅沢しやがってください」

 今まで黙ってドアのそばに立っていたネズが、静かにユウリの背中を押す。投げ入れられた静寂の波紋が隅々に広がっていった。
 傍目から見れば、ネズは十分に「面倒見の良いお兄さん」的な不動の立ち位置で、冷静な言い様も、バトルだっていつも的確だった。でもーー。
 どの辺に一理あるのだろう……というスタッフ達の奇妙な視線を差し置いて、言いたいことをすべて伝え終えたようなネズはユウリの諾を待たずに部屋を後にした。

「ネズさん」

 待っていてやりますから。
 先刻たしかにそう告げたネズの笑みが蘇る。訳がわからずも不安に駆られてやっとユウリは声を上げた。だけど。
 呼びかけた背中は振り返らなかった。




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