sweet-and-sour crepe
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 昼間にしては閑散としたスタジアム一帯は、心が痛むほどうららかな日和であった。
 まるで純真で、まるで嘘がなく、いかなる者にももれなく汎愛の光をそそぐ。
 どこかでそんな世界をうら切ってしまった。そう気づいた心持ちをしずめて、尚も空から目を背ける自分に賢愚の秤が対座する。思考が重くなる。思えば逃げてばかりの人生だ。







 それはどこまでも、どこまでも淡々とした足取りで、この場所にみじんも心残りなどないかのように。決然とした後ろ姿だ。
 そうしてここから離れて、霞んで、やがては見えなくなるのだろうと思われたネズが歩みを止めた。
 スタジアムの横手にはポケモン関連の物販スペースが設けられていて、普段は賑わいを見せているが、まるでこの瞬間に示し合わせたかのように人が消えていた。
 息を呑むような、長い沈黙がつづいて、けれどもそのさまざまなものを聴き分ける耳はたしかに後方に佇む気配、もとい違和感を拾っている。
 そろりと、先ほどは頑なだった丸まった背中が振り返った。

「ユウリ……なぜここに」

 スタジアム正面につづく階段の中ほどで、黙って立ち竦んでいる姿をやはりみとめてネズは静かに息を吸った。
 ここまで追ってきたけど、その実心がくじけてしまって掛ける声を絞り出せないでいた。そんな真相には果たして気づいていないのか、或いは別の事柄が頭を占領しているのか、ネズは眼差しを向けたまま動かない。
 どうしてそんなに不思議そうなのだろう。先ほどからネズのリクツがユウリには解けないでいる。だけど彼の想像を上回ることがこの瞬間起こったのだろう。たとえばユウリがあらわれたこと。自分のあとを追ってきたこと。その様子に配慮して、ユウリはそっと伝える。

「え……断わった……? なぜです」

ーーなぜ。返せばすぐ向けられる問いにユウリは眉を下げる。
 あの後、ネズが控え室から去った後、ダンデに深々と頭を下げてユウリはその申し入れを辞退した。行くべきところに急いだ。だけど、それはどうしてかネズの望むことではなかったのかもしれない。今二人の間にできている妙に空いた距離と、表情を殆ど変えないネズの様がそれを物語っている。

「今からでも、ダンデのところに行ってみるんですよ。まだ間に合います」

 少し距離があるためか、ネズがいつもより声を張っている。それでもつとめて冷静で、焦る素振りもなく宛ら子をさとす親のような言いようだった。だけど裏を返せばこれは、“それ以上自分に近づくな”という、無比の優しさにつつませたひそかな意思表示にも思える。
 階段の途中で止めたままのユウリの足は、ネズの声に従うともあらがうともなく、その場に張り付いたように動かなかった。
ーーだって、でも……今日は、約束……を。
 たしかめるように。通りすぎた色彩の切れ端を手探りに拾いあげて、おそるおそると唇からこぼしていく。追憶は心の奥に。思いはせればいつでも鮮烈に、そこにいるネズが浮かびあがった。
 人より良い耳を持つネズは、拙いユウリの言葉すべてを聞きとどけた、のだろう。
 おそらくその上で……彼は僅かに目を伏せた。

「ああ別に……そこ優先しなくっていいですよ、律儀な子だね……いいんだよおれのことは。それより、折角ダンデが来ているのに。次いつ会えるか分からないよ」

ーーーー……もういいですよ、負けました。約束しましょう……やれやれ……次のバトルを頑張ったらですよ。
 あの時ユウリの拾いあげた声と同じはずなのに、どうしてなのかまるで違う。
 大凡別人のような響きをして、その温度差に、力なく微笑うネズにユウリの胸がシクリと痛んだ。シェルダーのはぐくむ小さな小さな純白のシンジュのように、大切に抱いていたのにそれは両手の隙間からぽろぽろこぼれ落ちていく。
 このネズは、ダンデにユウリを押し付けたいのだろうか。ダンデばかり引き合いに出してくるから。提案に見せかけたのは牽制。一向に埋まらないこの距離感は、拒絶だと。
 もうお役御免で、“引き受けたのは仕方なくで、本当はお前なんか相手にしたくねえんです”。目の前にいるネズの惰性の微笑と重なって、そんなおそろしい声が耳元に吹き込まれた。
 音もなく湧きあがった感情がユウリの身体をなぶった。
 もしかして、つきまとわれて迷惑でしたかーーーーと。
 握りしめた両手にふるえを押しこんで、押し込んで、一等明るく放たれたそれが。晴れ渡った空にとけて、すぐになくなって、ネズの顔色が変わった。

「それは違います。そういう意味ではないですよ」

 真すぐにこちらを向く陰鬱で生真面目な面差しが、耳にはびこる嘲弄ささやきを吹きとばした。
 ユウリの髪を軽く煽って、澄んだ風の音が戻ってくる。シンジュを落としつづける両手を守るように、誰かの手があてがわれた。
 何かの償いのように、距離を置いてもユウリを直向きに見つめつづける瞳は、灯火をなくして俄かに翳っていく。
……ただ、きみは……おれなんかといても……ああいや……。
 これまでの澄ました態度を改めたかと思えば、ネズは一転して自信なさげに言い淀んだ。らしくない雑な手つきで頭を掻いて、それでも言うべき言葉を探している。
 周囲は変わらず静謐に包まれていて、そんなネズをゆっくりと見守るようだった。向かいあった無人の露店を風が抜けて、長テーブルに敷かれたレースのカバーが細波のようにひらめく。ちぎれ雲ただよう穏やかな清和は、二人には少し暢気で、明るすぎて、まぶしさに目を伏せたくなるほどだ。
 僅かに残った影の部分を、そうして背負っていたかったのだろうネズも、前髪で遮る貌を持ち上げて観念した。

「ダンデは、きみの大切な人なんでしょう。ずっと憧れていた人で。きみの道標スターで……見ていたらわかります。彼はユウリを強くした……だからおれがいる所為で、こういう機会をふいにしないでほしいんです」

 空っぽにした頭の中に、ネズが言葉を投げ入れていく。切々と。これも紛れもなくネズの本当の声なのだろう。だけど反面、言っていることがよく分からなかった。頑張って、理解したかったけど、ネズは何の話をしているのだろう。
 超然としたネズは、大凡ユウリの及ばぬ次元に自分の世界を築いていて、そこに籠っていつも物を考えている。窓から見える空に想像のつばさを羽ばたかせては、うつくしい詞に星をちりばめて持ち帰ってくる。
 これは本心なのだろうけど核心ではない、と思った。ネズの生み出す歌は、いつも人々を鼓舞する温かさに満ちているが、どこか哀しく自己犠牲的でもあった。

 迷惑ではないと否定したネズがいるのなら。どうして置いて帰ろうとするの。
 忘れてねえですよ、待っててやりますから。笑顔でそう言ってくれたのに。
 耳にこびりつく不安を遠ざけてくれたのは。違うと否定してくれたのは。
 子どもだから分からない。単純で、すぐ舞い上がってしまって、複雑な大人の気持ちの機微になかなか気づけない。ひとつだけ、大切に握りしめているこの想いだけでは彼とは通じ合えないのだろうか。

 ごめんなさい。私分からなくて。色々なことに気づけなくて。頭ワルくて。でもーー。
 ネズとの、あなたとの約束を、ばかみたいに喜んで、楽しみにしていてはだめでしたか。




「そんなこと……」

 この平穏で冗長な空をつき抜ける、悲鳴じみたそれは、その瞬間全ての音を攫った。木々はさざめきを止めて、戯れるココガラ達は口を噤み身を寄せる。
 自分の呼吸すら膜をへだてたように遠くに感じる。殆ど吐息のように何か呟く、ネズの微かな唇の動きが視界に入った。

「……そんなことはないです。だって、おれも…………楽しみにしていましたから」

 はりつめた世界を静かに揺らして、ネズはやっと声を押し出した。
 ユウリの作った無音の箱庭。風もふかず一切の鳥も羽ばたかぬ、底抜けに明るい空よ。
 このまま心をとざしてしまうのなら、だれかが音を鳴らせばよかった。

「ユウリに会うのを、楽しみにしていました。きみに会いたかったです。でも……ダンデがいるならおれは……きみたちを邪魔したくはねえんです」

 ユウリよりも傷ついた顔をして、まるで穢れを知らない少年が空いっぱいに描く夢を打ちあける。
 悲しみを抑えこんだ瞳がユウリに焦がれる。もしかしたら、最初からそうだったのかもしれない。
 ユウリを置いていこうとした。急に態度を変えては面倒をダンデに押しつけた。至ってそう見えたけど、今日、ネズはユウリに会うために、引き篭もっているあの町から出てきたのだ。
 控え室で二人がしていた会話を、あの時どんな気持ちでネズが聞いていたか。そっと、ユウリから離れることを、どんな気持ちで。








 本当は手放したくなかった。だけどーーーー。
 ひと知れず掌を握ってうす暗い廊下でやり過ごしていた。
 やはり自分には光のささないこんな世界が相応しいのだろうと。疑う余地もないことだった。
 きみの輝くスターになんて、どうしてなれると思うのだろう。





 一つ、また一つとユウリの足が残りの階段を降りていく。
 目を離せないでいるネズの横髪を微風が抜ける。空の端を軽やかな囀りが飾り、ぽっかりと浮かぶ雲は眠たげに揺蕩う。このガラルに息づく自然の鼓動を。閉め切った箱庭に風を運んだのは、何も包み隠さぬネズの澄んだ音だった。
 横幅の広い階段を危なげなく降りきると、ユウリは逸る気持ちでその先へ踏み出す。
 階段を終えて、ネズしか見ていなかった。そのために、勇んだ靴の先が滑りの悪いアスファルトに、突っ掛かっても。

「ユウリ」

 唐突に、地面にすっ転んだベレー帽を見るや否や、血相を変えてネズが駆け寄ってくる。今まで縮められなかったこの距離は彼にとって何なのだろう。少しも躊躇などしていない。体裁など構わない。こんなに格好ワルい女の子のために、どうして。
 地を掴むことも押し返すこともできない惨めな両手は、その冷たさからすぐに解放された。
 迷いなくユウリの元に駆けつけて、肩を抱き起こしてくれたネズは、十分にユウリのスターであるのに。

「大丈夫ですか、急に走り出すと危ないですね」

 ネズに手伝われて、ユウリはその場に座り込んだ。サラリと頬をすべるユウリの髪に心配そうな視線がおちる。
 漸く、自分が転んだらしいことをみとめたが、大丈夫なのかよく分からない。手足がじんと痺れたが、前向きに見れば受け身を取れた証拠なのだろう。肩を支えるネズの腕が、今更ながらもユウリの身を案じている。もうお転婆を自由にさせないという意思の下なのか、過保護なくらいにしっかりとユウリはネズに受け止められていた。
 茶色の眼をパチクリとさせるユウリのあどけなさに、ネズの愁眉が開かれていく。慌てて駆けていったのに、当人はそんなもの知らないようなありさまでどこかけろりとしている。もう一度、大丈夫ですか、と気圧されつつもうかがう声に今度は、はい、と小さく返答がある。
 何はともあれ無事ならば。勿論それで良かったのだが内心拍子抜けしたのか、それから何もネズは言わなくなった。力の抜けて呆然とする眼は、そのうち折り畳まれたユウリの脚に留まる。少々擦りむいたような膝を見つけて即座に反応を見せた。
 三角座りにさせるように、そっとユウリの膝を立たせると、不思議そうなユウリの視線を縫いつけながら、ネズは患部を動かぬように手で固定して観察する。すべては無駄のない所作で進んで、ユウリはされるがままに身を委ねてじっとしていた。自分ですら気づかなかった怪我を一瞬で見抜かれた。やはりネズはどんな時も的確だった。

「ああ……心配ない、かすり傷だね……痛みますか」

 しばらく傷口を覗き込んでいたネズは、そう言ってほっとしたように穏やかな笑みを乗せる。手当ても何もいらないらしく、細かな砂をささっと除けて、甲斐甲斐しく剥き出しの膝小僧を撫ぜるグローブの感触が擽ったい。
 それがあまりにやさしくて。何でも許されて、何でも与えてくれるそんなネズの手に。平時のネズがユウリへとさしむける愛情を思い出して、ひどく懐かしさが込みあげた。

「ユウ、リ……い、痛かったですか。いや、それともほかにも怪我を……」

 嗚咽を噛みしめて、気づけばうつむいた面からはたりと雫をこぼすユウリに、ネズは目を見張った。
 今になって打ちつけた膝がズキズキと疼いた。大したことないと、ネズが判断したのならそうなのだろうけど、そんな取るに足らぬ傷にもネズは当たり前のように向き合ってくれる。触れてくる指先から、自分がどんなに大事にされているかを感じて内側から痛みは増してゆくのだ。もう自分を冷たくあしらうことなどしない、ユウリはずっとこの温もりが欲しかった。

「ええとユウリ、あれですか、もしかしておれがかすり傷って言ったから。それが嫌だったんですかね? そうだね、どんな転び方だろうと痛いものは痛い……」

 いかなるバトルも自若として臨むネズが余裕をなくして、身振り手振り年下の少女のご機嫌取りに奮闘している。ユウリの秘めた想いなど露知らず。不意に痺れを切らしたような、濡れた瞳にあおがれて流暢で的外れな言葉をネズは途切らせた。
 腕を伸ばして力いっぱいしがみついてくる、小さな体躯の繰り出す柔らかな衝撃を。これをネズは何と受けとめるのだろう。足を挫いて泣きじゃくるような年頃は疾うにすぎた。指先が白くなるくらい、きつくきつく首元にすがりつく、この必死の抱擁は何を。
 ネズの眼差しが静かに伏せられた。幼気な啜り泣きに頬を寄せて、深く心を傾ける。これはネズの受ける罰でもあり、同時に寛大な放免である。
 一度は諦めて、手放したはずのユウリが。こうして再び自分の腕の中に戻ってきたことを。
 苦しげな咽びごと抱き竦めて今度こそネズは全力で応えるのだ。

「……ばかとか、言うもんじゃねえですよ。……素直で、やさしい子ですよきみは。おれとは、違って」

 ネズの低く掠れた声が耳元でとけていく。心細い背中を包み込まれて撫ぜられているうち、ネズにしがみつく暴力的な手のこわばりがほどけていった。懐に恋しく顔をうずめて、そうしてもネズは離れていかなかった。
 さっきの言葉をしっかりと覚えられていた訳だが、それならネズこそ。自分はダンデとユウリの前では邪魔になるなどと、弱気なことを確か言っていた。

「……なかなか痛いところ突いてきますよね」

 ネズの方だって……と、胸元で篭る声に詰られて、抱きしめる力をそのままに困惑した声が返ってくる。この若齢のチャンピオンはただでは起きない。起こしたのはネズだが。それと引き換えに何もかも譲るわけではない。
 大した心胆にあく使いのネズもたじたじなのだが、苦しいことに事実であった。いじけた男が、そんな女々しい有様で逃げるように身を引いたことなど、なかなかに忘れてほしい案件だ。

「ユウリ……いいんですか」

 気を取り直し滲んだ瞳の興味の先を逸らすように、または最後通告のような含みを持たせネズが尋ねる。実際ユウリが選んだのはこんな男だけど、それでもついてくるのか、と。答をユウリに委ねるかたちをとりつつ、ネズにその腕の力を緩める素振りはない。どちらにしてもユウリの返答はひとつだけだ。
ーーーーだって、約束したもん。
 何かの意地のように、かたくなで幼稚な涙声が、はじめてネズを責めるかのように爆ぜた。
 どんな高級ランチよりもディナーよりも、それがどんなに嬉しかっただろう。勝利への執念に火をつけただろう。
 だから何も、ユウリには最初からそれ以外何もいらなかったのだ。ユウリほど単純明快にはいかない性分のネズには、これまでなかなか伝わらなかったけど。

「きみは、そればっかりだね……もういいですよ。負けました、悪かったですよ」

 耳を劈く勢いに辟易した様子で、それでもネズは胸に抱き込む大音声のアンプを放り出さなかった。
 ネズだって、決して一方的だったり適当な気分で約束したわけではなかった。それは先ほど彼がかき鳴らした音色の通り。
 もう放り出さないしもっと素直になる。背中のジャケットを握りしめるユウリから、ネズはそっと身を離すと、その眼差しにユウリをうつした。

「ユウリ、色々済まなかったね……分かりました、約束通り、クレープですね。ご馳走しますから……心ゆくまでたくさん食べるといいですよ。それで許してくれますか……」
 
 泣きぬれた少女をやわらかく見つめる視線は、深遠な色を奥底にたたえて祈るように閉ざされていく。どんなに年下だろうと敬虔に伺いをたてるネズの誠実さに、ユウリの泣き晴らした目元は自然に綻びた。
 たったそれだけの約束を。人から見れば何て回りくどく取るに足らぬことだろう。だけども特別なものだった。言葉になど表せなかった。
 少し痛ましい表情を見せたような、ネズの一瞬の変貌が消えてふたたびその腕に抱き寄せられる。互いの体温が戻ってきてふたつの心音が響く。ネズは温かくて安心する。
 ユウリの髪を撫ぜる慎み深き指先は何かをおそれている。やがて壊れてしまうのではないかという、目の前のか弱い笑顔とか。単にものに釣られて嬉しがるような少女ではないことをネズは見抜いている。

 自責と後悔と、そして決然と何かを宣誓するらしきネズの哀愁の背中に、優しく手のひらが触れた。雨はもう上がった。ネズが背追い込むものなどどこにもない。
 ネズの腕がユウリを一層締めつけて、晴れ渡る空をあおぐ微笑みが肩口に埋もれていった。

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