星合い
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綺麗な星を見上げて、それが“綺麗”と思えたのは、もう随分と昔のことに感じられた。
あの頃は毎日が楽しくて、ただしあわせで、こんな風に手を組んで毎夜祈りを捧げるなど、想像すら出来なかった。
息もするのも忘れるくらいに恍惚とする夜空も、今のヒナタには、空に控える天神が人々を眠らせる為に、昼の空に巨大な暗幕を掛けたように見えた。

只、この朝と夜を繰り返す、束の間の“夜”に散りばめられた、手の届かぬ宝石達を、暗幕に描かれた作り物とするのは、少し惜しい気がした。
これが神の創った物ならばと、遠く離れた所で、本当に光を放ち“生きている”ならばと、期待してしまうのだ。

果てしなく広い、この地上ほしの彼方にいる人が。
どうか今、寒さに凍えていませんようにと。
胸に宿るこの想いが、数多に輝く星の光となって、大切な人を護りますようにと――。


――それは、燦々と煌めく星々の集まりが、巨大な銀河にも見える、七月のこと。















「どういうことですか!? 父上」

鬱陶しくも感慨深い梅雨が明け、姿を隠して久しい太陽が、再び仰々しい白壁を照らすようになった頃、その日向邸を騒々しい声が突き抜ける。
元来から慎ましく、それでいて一流の忍里として名高い木ノ葉での、お家安泰をと、水面下で怪しい動きを見せる新興勢力に睨みを利かせ、里一の旧家という威厳を長年保ってきた、この屋敷に於いて。
このように声を上げるなど、偶に青筋の立てた宗主が、娘や側近達を叱咤するそれ以外、然う然うない。
だがしかし、清々しく晴れた早朝から、奥まった厨房にいる使用人にまで届いたその声は、女の、況して子供のものだった。
書斎から丁度良く出て来た実父を、大音声でひっ捕まえた、次期宗主となる少女は、何食わぬ顔で振り返ったそれを、軽蔑の籠もった眼で睨み上げる。

「ネジ兄が……ネジが、帰って来ないとは……一体何故……!? 今日が帰還予定だったはずです」

思わず出た、多少の親しみを込めて日頃呼んでいた、従兄の呼称を言い直して、ハナビは信じられない判断を下した父に詰め寄る。
まだあどけなさの残る、この家の次女が、こんな風に我を忘れて激昂するのは、稀だった。
況して、この頑迷固陋な宗主に向かって、牙を剥くなど、そんな恐いもの知らずなことをするような愚か者ではない。

「何だハナビ、朝から騒々しい」

稀に見る娘の剣幕など、全く相手にせず、父ヒアシは、軽くあしらうように言って部屋の障子を閉め、構うことなく足を進める。
しかしそれが、何か後ろめたいことがあるようにも思え、ハナビは益々不信感を募らせる。
話を聞いた時から、真っ先にこの石頭の父親を疑い、だから朝食時に顔を合わせるというのに、居ても立ってもいられず、わざわざ父が毎朝籠もっている書斎を訪れた。

「姉上は……この日を、ずっと楽しみにしていたんですよ? 半年振りの帰郷を……ネジに会うのを、ずっと」

大股で歩く大人の後を、子が小走りに追い掛ける。
当然、此処に帰って来るものとみて、今朝部屋に訪れた従者――コウに、何気なく話を振ったのだ。
――今日は、ネジ兄が帰って来るんだよね?、と、当たり前のことを。
嬉しそうにネジのことを語っていた、姉を思い浮かべながら。
しかし彼は、少し首を傾げながら、それを当然のように否定してきた。
――いえ、ネジは……里には帰りません。
天候不順により作業が滞って、まだ戻れないのだと。ヒアシ様より、そう。
そこまで聞いて、戸の前に突っ立ったままの彼を押し退け、ハナビは血相を変えて自室を飛び出した。

「姉上は……心の底から、悔やんでいます。己のせいで、ネジが遠く最果ての地まで、飛ばされてしまったと」

ヒナタが、自分からそう漏らすことはなかったが、何しろ、生まれ育った環境が環境である。
何かと自分を責めて、塞ぎ込んでしまうヒナタだから。
人のいなくなった部屋でふと見せる、彼女に似合いの憂え顔に、やはり己がその一端を担っているのだと、思い詰めているようにハナビは感じた。

予てより恋仲であったネジとヒナタは、人知れず交際を続けていて、それをヒアシに黙認される形でいた。
恋人と言っても、偶にネジが菓子を持ってヒナタを訪ねたり、言っても人目を憚って手を繋ぐくらいの可愛いもので、これまた堅物なネジが、ヒナタを夜まで帰さず連れ回すようなこともなく、彼女の任務や修行に影響を及ぼすこともなかった。
加えて、宗家に忠誠を誓った彼は、謀反を起こすような頭もなく、ヒアシにとっても頼もしい後継を得られ、宗家嫡子を委ねるにしては、何の不足も無い相手だったろう。
切っ掛けは、些細なことだった。

その日、宗家に来客があり、ヒナタが茶請けを用意し、それをヒアシらのいる客間へ運んだ。
そして客人に出す茶を、その前で盆ごと、派手にひっくり返した。
言ってみれば、たったそれだけのことに、簡単にヒアシは触発され、後のことを全て独断で取り決めたのだ。
幸い、客人が気分を害することはなく、逆に熱い茶がヒナタに掛からなかったかと、心配してくれたが、ヒアシがそれを許すことはなかった。
ヒナタは一度も、ネジに関することで、周囲に迷惑を掛けたことなんてないのに。
きっと今回のことも、生来から持っていた、彼女のそそっかしさが現れたものだったのに。
弛んでいると、ヒナタを呼び出し一喝したヒアシは、次の日からネジを、予定されていた彼の任務を全て取り消し、北方にある同盟国の、一度行くと数か月は戻って来られないという、過酷な国境警備に向かわせた。

「悔やむ……? ヒナタが? 何のことだ」

歩みを止めず、一向にハナビに向き合う様子のないヒアシに、彼女は追うのを止めた。
――父上!
代わりに大声でその名を叫び、父の足を止めた。
この期に及んで、白々しい。
紛れもなくこれは、父の謀だ。
偽りに惑わされぬ、何事をも見通すこの眼は、その父から授かったもの。
ゆっくりと振り返ったヒアシの向ける、同じ色のそれは、潜り抜けて来た戦火の数さえ違えど、性質は同じだ。

「とにかく。お前がとやかく口出しすべきことではない。ネジは任が長引き帰郷せん。それだけだ。分かったら先に道場に向かっておれ」

純真で、それでいて気性の激しい方の子と、真っ向から視線を交えたヒアシは、だが老成した己の目で“戦う” ことはなく、“お前にはこれで十分”とでも言うように素っ気なく逸らし、口で返した。
語尾に、荒々しく抑揚がつき、ヒアシの苛立ちを感じたハナビは、これが彼の示す“限界”だと覚った。
これ以上は、尾を引く。
しかし、仮令この後にある、今言い渡された早朝の父との鍛練で、厳しく扱き上げられるとしても、ハナビには譲れないものがあった。

「しかし、これでは……! これでは、あまりに……」

叶わないと、目の前の相手にそう思った途端、唇が悔しさに歪む。
構わずに歩き続ける、慈悲の一つも寄越さぬ憎々しい背中を見つめ、固く握った拳が震える。
――姉上が、可哀想だ。

「まるで……七夕伝説の……織女と牽牛です」

独語とも取れる小さな呟きは、忍の耳に拾った筈だろうが、何も言わずにヒアシは廊下の奥へと消えた。
自らの発した、些か夢見がちな例え話に、だが笑うことなどとても出来ず、ハナビは俯いてじっと自分の足元を見つめる。

海を隔てた、大陸から伝わる――。
年に一度、離れ離れに住まう二人の夫婦が、天の川を渡って再会を果たすという、まるで空想のような哀話は。
あまりにも、“ふたり”に似合い過ぎていて、笑うことなど出来なかった。
そしてヒアシは、物語で言うところの“雨”なのだと思う。
雨が降ると、川が荒れて、渡れないから。
川の向こう岸を眺めながら、相手の所在を案じて、岸の際に佇むだけ。
――会うことすら、許されないなんて。

早朝の清々しい空は、何処までも晴れていたが、地上は、雨だった。
それは、いつ止むとも、知れない。
重く、着衣を濡らしてゆく――。



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