So Deep
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 夜は深く、夜は深く。
 心の中の灯をも塗り潰してゆく。




「聞いているのか、ヒナタ」

 刹那、脳を揺さぶられてヒナタの意識が浮上する。
 しん、と静まった宗家の一間。客人用ではないが小忠実に片付けられて、畳の青さが際立っている。品の良い掛け軸と、側には寄り添うように一輪差しが、こぢんまりと配された小部屋で、此処は大凡親族の者、例えばネジを招いて話をするのにしばしば使われた。
 二つの白い眼差しが己に注いで、窮屈そうにヒナタは肩を竦める。取り分け正面からの、老熟した白眼の方に畏縮してしまったのだが……幸い、新たな追い打ちは掛けられず、かの男は軽く息を吐いた。

「明日からネジが、風ノ国へ行く……荷造りを手伝ってやれ、と言っている」

 二度目に聞いたそれは、ふたたびヒナタの心に暗い影をおとした。
 何の前触れもなく、父がネジへと命じた、砂隠れへの遣い。荒寥とした砂漠地帯は、現在、長足の整備の最中で、昔に比べて遥かに治安も良くなっている。木ノ葉との関係も友好的になりつつあり、そろそろ自分の甥を、代わりに遣わせても無難であるとの判断だろう。
 厳然たる静かな声音に、ヒナタはやっと頭を下げて、小さく諾を口にした。畳に揃えて置いた、子供のような己の指先が腑甲斐なくて、視線をずらす。至近に座るネジが、案ずるようにそれを見つめていた。








「オレ一人で、大丈夫ですよ。ヒアシ様は、ああ言ってくださいましたが……ヒナタ様も、色々とやることがあるでしょうから」

 箪笥を開けて衣類を引っ張り出すネジを眺めながら、ヒナタはその側で、手持ち無沙汰にしていた。言い付け通りに、部屋までついて来たは良いが、手際良く荷物を纏めているネジに中々声が掛けられなかった。
 そんな中、不意に手を止めて、ヒナタを見上げてネジがそう告げた。心持ち、笑みを浮かべたようなやさしい表情は、言葉の通りに、宗主に背けないヒナタを思い量っていた。
 部屋に入りさえすれば、後は上手くごまかして、ネジの配慮でそっと帰すこともできる。

「あ……わたしは、別に…………あの、お手伝いします」

 返答に詰まりながらもヒナタは……それでもネジの提案をやんわり断った。もう僅かしかない出発のその時まで、ほんの少しでもネジの側に居たかった。
 漸くヒナタは腰を落として、取り出された衣類に手を伸ばす。父親の命令通りに動くようで、どこかその挙止は自分の意思のようだった。繊細な手付きで、自分よりも大きな、慣れたネジの装束にふれると、知らずと心が穏やかになる。
 膝の上で丁寧に皺を伸ばして、几帳面に袖を折り畳んでいく様をネジが見つめる。――そうですか? とだけ言うと、特にヒナタの行為を止めずに、ネジは別の引き出しを開ける。

「……大体、荷物と言っても、そんなにないんですよね……長居はしないので」

 元々、着る物に無頓着な従兄は、其処から新しく衣類を出すこともなく、今度は携帯する身分証を開いている。ネジはその中から、風ノ国の入国手形を取り出して、目を通していた。従兄がもう直ぐ旅立つ予感。もう会えなくなるわけではなかったが、幾夜眠ればまたネジに会えるのだろう。ヒナタにとってはそれ程、遠い、遠い国。
――ヒナタ様?
 身分証から目を離すと、ネジが不思議そうに此方を見ている。ヒナタは我に返ると、畳み掛けの衣類を、最後まで綺麗に畳み、揃えてネジに差し出す。

「あの……気を付けて」

 はじめての、使者という大変な役目であるのに、それしか言えなかった。
 ただ、僅かながら、ともすれば泣いてしまいそうな心で笑みを作ると、堅苦しい文書を目で追っていたネジの表情が、やわらかになる。
……ありがとうございます。
 嵩張らないよう小さく折り畳まれた衣類を、勿体なさそうに受け取って、ヒナタの心遣いに、ネジは静かな声で告げた。





 翌朝、まだ夜が明けて間もない頃に、ネジは里を発った。薄暗い屋敷の門の付近で、ヒアシやハナビ、数人の近しい親族たちに、内々に見送られての出発だった。
 ヒナタのことなど、忘れてしまったかのように、ネジは生き生きとした表情であった。目まぐるしい振興の直中にある、これから彼が向かう国にそれは相応しいようだ。
 そつなく別れの挨拶をしたネジが、門に足を向ける刹那、そっと視線を上げて、窓辺に佇むヒナタと目が合った。反射的に、ヒナタは息を呑んでカーテンを引いてしまう。聡明な一族の眼を漏れなく受け継いだ彼に、そんなもので身を隠しても無意味だろうが、ヒナタは全身が強張ってそれ以上何もできなかった。ただ後ろ手に、カーテンを強く強く握り締める。会えば、引き止めて……ネジの優しさに付け込んで、何かそんなわがままを言ってしまいそうだ。
 ただひとり見送りに来ないヒナタを何と思ったのだろうか。ヒナタは知り得ないが、ほどなくして、段々とネジの気配が遠退いていくのをじっと感じていた。



 ネジのいない日は、一日が早い。何事もつらつらと滞りなく事を終える。任務がない日は殊更、一日を鍛錬に充てるとあっという間に日暮れを迎えて、夜が来た。
 深夜、皆が寝静まった頃合いにも、疲れていない躰は中々寝付けず、ヒナタは頭まで布団を被っていた。今夜は風が強く、特に嫌だった。時折軋む窓枠に堪え切れず耳を塞いだ。
 ネジがいないとこうなってしまう。いつからか、ネジがこの屋敷で共に暮らすようになってから、ヒナタはネジのいない夜がすごく恐い。
――コワイ、コワイ。夜はコワイ。なにも見えナイから。
 いつからか、ネジがヒナタのずっと近い存在になってから。ヒナタは独りが恐くなった。

 気付けば雨が降り出している。いや、窓に叩き付けるでもなく、窓辺にそれが入り込んでいるような音だ。ひとりでに開いた気配のする窓に、ヒナタは暗い布団の中で、愈々硬直して動けなくなった。
 外の風雨の音に紛れて、何かがゆっくりと部屋に上がり込む。耳が使えなくとも己の勘がその気配を克明に拾う。震える指を動かして、枕元のクナイを探るが、元よりそれを握り締める勇気もなく、ヒナタは絶望して目を瞑った。
――――兄さん。
 心に強く浮かべるとそれに呼応したように、部屋の中の動きが止まった。どくどくと胸を叩いてくる鼓動の合間、それでもヒナタの耳がその声を拾った。





――――ヒナタ様。


 

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