Vampire
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 闇に張り付いた糸のような細い細い月が、進路の横手にある荒れ果てた墓地を仄かに浮かばせる。
 丁度屋敷の窓から見えることに気付いて、今更寒気がしてくる。今以て異常性癖者の愛でるものはリーの理解するところではない。
 さっさと歩みを進めたいが、どんなに重りを増やしてもへたらぬ手足が思うように動かなかった。ぐらりと眩暈が起こるほど、強烈な匂いが鼻の奥に満ちる。それに比例してどくどくと、自分の意思とは関係なく身体の内側を流れるものが疼き出した。何かが可笑しい。あの屋敷を後にしてから、奇妙な飢餓感がリーの体を支配している。
 咄嗟に膝をついて、ともすれば暴れ出しそうな胸元をリーは藻掻くように掴む。

「リー、大丈夫か?」

 必死で呼吸を整えるその姿に引き返して、何の警戒心もなく側に跪く。生々しい匂いが濃くなって噎せ返りそうになる。最早手遅れなほどに、この一帯は陰鬱な血の臭いが染みついている。

「ネジ、離れて……」

 こめかみから伝う汗を鈍く光らせて、リーは辛うじてその配慮を拒んだ。自分の為でもあるが、ネジの為でもある。
 言葉の真意を黙って探るような、ネジの視線は、やがて蹲るリーの装束に留まる。襟刳りに、先刻仕留めた伯爵の返り血が赤黒く染みを作っていた。即座にネジの目の色が変わる。

「すぐに里へ。急ごう、まだ間に合う」

 冷静な声で急かすネジはその眼で何を読み取ったのか。
 間に合うとは何が。リーが得体の知れない怪異にまるで変貌するのを予知するみたいに。

「悪いんですが、先に行ってください」
「何を言っている」

 信じ難い口振りで言って、ネジが眉を顰める。鍛え上げられた肉体を誇るリーが、膝をついたまま立ち上がれないでいる様は、十分にネジが鬼胎を抱くに値する。
 だがこうして、いつまでも“意識”を保っていられる自信がリーにはなかった。自分一人ならば、まだ何とか耐えて里まで帰還できる。

「分からないですか……? 血が、臭うんですよ」

 ネジ、君の――――。
 腹の底から唸るような、別人のような声が絞り出されて、ネジの眼が徐々に見開かれる。
 リーがギリギリと力の限り切歯して押し込めていた、心臓を貫いた伯爵の狂気が垣間見える。大凡ヒトのものとは思えない、鋭い犬歯が歪んだ口元から覗いた。

「すみません……でも、もうこれ以上、近寄らないで……頭が可笑しくなる」

 汗の浮かぶ額を掌で覆って、そう苦しげに告げるリーは別の誰かに抗っていた。
 一瞬だけ、悍ましい変化の片鱗を見たネジはそれきり黙り込んでしまった。リーにあからさまに拒まれて、それ以上踏み込んでくることもしない。
 そのまま、此処から離れて、なるべく遠くへ――。できれば会うことが叶わぬくらい、彼方へ。籠の扉は開け放してある。
 言葉の裏で、願いを込めるようにしていると、不意に、クナイを触る僅かな物音がした。

「リー、これを」

 リーの眼前に、落ち着き払った様子でネジが白い掌を差し出す。親指の脇に、今しがた作った薄紅の痕がある。
 じっと、息を詰めていると、切り口から見るも鮮やかな緋色の滴があらわれた。

「な……何のつもりですか」

 声を震わせるリーは、紅く濡れてゆく妖美なネジの手元からひとときも目が離せない。鈍った思考に、欲 シ イ ――――と、体の内側から鼓動が咆哮さけんでいる。
 こくりと、リーの喉が僅かばかり上下したのを、ネジは眼光炯々と捉えていた。

「オレは正気だ。……らしくないのは、お前の方だろう」

 責めるのとは違う、ただ少し悲しげに曇らせたネジの表情に、胸倉を掴まれたみたいにリーは動けなくなる。
 独りで抗ってネジだけを逃がそうとする、その心意気は美談ではあるが、全くネジは望んでいないことだ。仲間に守られるつもりもなければ、見殺しにするつもりも彼にはない。
 二度に渡って、守られるなど、御免被る。堕ちるのならば、いっそ二人で。

「冗談じゃ、ないですよ……っネジ……!」

 覚悟を仄めかす白眼に昂った感情が投げつけられる。思い通りにならぬ悔しさに、リーの目頭が勝手に熱くなる。
 ネジを拒絶してはいたが、本当はそれ以上に欲していた。ネジが欲しかった。この躰は疾うに渇ききっている。周囲の醜悪な生臭さが際立つ中で、ネジの穢れのない血の匂いは殊更甘美だった。だが、一時の衝動でそれを求めてはならなかった。何か大切なものが、この手から零れてゆく予感がしてならない。

「こんなもの、どうってことない。……早く」

 造作もなく静かに言い放って、ネジは、リーが躊躇っていた禁忌の扉に手を掛ける。
 赤い雫の流れる手元が、鼻先にそっと近付けられて、リーは何も考えられずに眺めた。こんな夜半に人など通らない。見届けるのは透き通るような白眼と細い細い月だけ。
 もう、リーには、迫り来る渇きから逃れる術がなかった。




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