フォレ・ノワール
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 黒い森――と呼ばれる小さな森林地帯が、木ノ葉の北の外れにある。人々が生活を営む居住区から、一刻程休みなく歩けば辿り着くが、目指す者はいない。遠く、黒々とした木々の纏まりが、里の中心部から望めて、誰が言い出したのか、いつしかそういう呼称が付いた。抑も話題に上る機会もそうなかったが。
 賑わいのある里から隔離されたかのように、ぽつんと佇む物憂い森フォレ・ノワール。傍を通ると入り口から冷えた空気が漂って、近隣に土地を持つ者でも、薄気味悪いと嫌がり殆ど近付くことがない。サクラとて、そのような所に好んで行きたいとは思わなかったが、どうしても付近には自生していない薬草があった。
 調べてみれば、未だ手付かずの荒寥な自然が広がる里の北部に、その希少な品種が存在するらしき記述を見つけた。古い文献だし信憑性の程は定かではない。しかし、一般には出回っていないそれらの秘めた未知なる成分、高い効能は、駆け出しの医療忍者の心を大いに惹き付けた。元い、そこには医療忍術を学ぶ者としての使命感・義務感はなく、単なる少女の好奇心であったかもしれない。

 それから数日と経たずして、日が高い内にサクラは黒い森へと足を伸ばした。午前中に家を出たのだが、地形上、途中にある沼地を避ける為に大きく迂回してきたので、やはりくノ一の足でも辿り着くのに時間を要した。滅多に来ない北部は人気もなく閑散としていて、中心部より幾分涼しい。いつもは遠目でしか見ることのない森を、サクラはこの時初めて間近で迎えた。葉が風にそよいでも其処だけ音が存在しないかのように、何の音も立てなかった。深い緑に色付く木々は酷く静かだった。入口より奥に伸びる小道には薄暗い影が落ちて、密集する樹木にその先を阻まれよく見ることができない。下忍の頃ならこの時点で怖気づいて逃げてしまっただろうが、サクラの足は張り付いたように立ち止まったままで一歩も後退ることもない。退く訳がなかった。数日間待ち侘びて、夢見続けやっと辿り着いた目的地を前に、まだ見ぬ薬草への期待が沸々と溢れ出して止まない。唯一相棒として連れて来た、埃臭い古書をぎゅっと胸に抱えると、サクラは一歩、また一歩と、逸る気持ちを宥めながら木立の影を潜った。 

 まるで過去に置き去りにされたような、閑寂な場所で、現世いまをひっそりと生き延びる古の枝葉は色褪せることなく豊かに茂る。案外、聞いていたほどの悍ましさはなく、キン、と張り詰めた一帯に、淀みのない空気が隅々まで満ちて清々しかった。陽光も程良く遮られて汗一つかかずに、涼しげな森の中をサクラは存分に散策した。木の根元に密集する回復草を追っては、器用に雨水の沁み込んだ泥濘を飛び越える。目に入ったそばから興味の赴くままに、右に左にと夢中になって足を向かわせた。本を片手に、一つ一つ丹念に葉や茎の形状などを見定めて、確信を得たものを手に取っていく。持参した小さな籠の中は次第に青臭い緑でいっぱいになった。
 時間を忘れて、そうして没頭している内に、気付けば日が傾く頃合いとなっていた。頭上を仰げば、葉の間から零れていた光は淡い橙に染まり柔らかくサクラの頬を照らす。立ち止まって見るとひやりとした風が通って、動き回っていた身体の火照りを冷ましていく。脇目も振らずに薬草を集めていたが、そろそろ戻らなくてはいけない。サクラの両手は、まるで野原で遊び回っていた子供みたいに青い草の匂いがした。その青色に染まった掌が、大事に大事に抱える、小振りな籠の中いっぱいに詰まれた薬草――さぞかし煎じて含めば、体に良い作用を齎すだろう今日の収穫分のそれらに混じって、紅いへび苺が見え隠れする。この度の目的とは関係なかったが、まるっこくて愛らしい風貌についときめいて、たったひとつだけ実っていたそれを摘み取ってきた。豊かな葉に埋もれるようにして収まる、ころりと揺れる真ん丸の実に、一層眦を細めながら、サクラは漸く足を帰路に向かわせた。

 湿った地面をひたひたと踏む、忍の僅かな足音がどこまでも続いていく。そんなに入り浸った感覚はないのだが、知らぬ内に森の深くまで進んでいたようだ。傾いた陽光は瞬く間に姿を隠して、今は薄青の帳が森全体を覆っている。生き物の気配がまるでしない筈の一帯、その頂を、見慣れぬ鳥が奇声を上げながら横切りサクラの肩が強張った。夜目が利かない訳ではない。帰り道も覚えているし道に迷う心配もない。けれども何か急かされるようにしてサクラは歩行を速くする。穏やかな昼間とは何か様子が異なった。ざわざわと風に揺れる緑の細波が、噂話でもしているのか、将又森の“侵入者”を追跡でもしているのかどこまでもサクラの後をついて来る。気の所為であるような、単に風の悪戯であるかもしれない、ただ不可解なものに追い立てられながら、サクラは只管出口を目指した。だが歩いても歩いても一向に抜け出せない。足を動かしながらも自身はその場に留まり、単調な景色だけがぐるぐると移り変わるような感覚。何かの幻術の類か。やっとそう勘繰って足を止めようとした矢先、予期せぬ風が吹いた。怖ろしいほどに冷えていて、体の芯から凍えていくような、嫌な。目の奥にそれがひやりと入り込み、一瞬怯んでサクラは立ち止まる。同時に不穏な気配を察知した。
 何かがどこかから・・・・・・・・、此方の様子を窺っている。心を落ち着けて、慎重に瞼を開けると、尚も騒めく細波の向こうに意識を持っていく。周囲は既に藍色の帳が落ちていた。だが忍の目はそんなものにごまかされない。震えそうな手に自負を握って、サクラは真っ向から茂みを揺らす黒い影を見据える。ただ、その頼りない心を象徴するかのように――――直に現れる図体の全貌を確認するには、今宵の月はとても細かった。

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