フォレ・ノワール
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 昼間から殊更静かであったが、考えてみれば不自然な様相だった。この蒼茫たる土地に、何ひとつとして生き物の気配がしない理由。だから誰も近付こうとしなかった。もっと早くに引き返していれば、などともう後悔してもどうしようもない。
 しっとりと濡れた夜気に包まれながら、サクラは息を殺してしゃがみ込んでいた。今其処から見ているものに現実味が沸かなくて、戸惑いと畏怖の狭間で混乱している直中だ。目の前をのっそりと動く、黒い塊に視線を縫い付けられる。その塊―――何か微小な虫が群がっているような、煤のようなぼんやりとしたヒトガタだが、人間には到底見えない。チャクラというか、まるで生きた者の気が感じられない。あれと鉢合わせせず、どうやって逃げたのだろう。自分が今こうして必死に茂みに身を潜めている経緯。一瞬の記憶を手繰り寄せながら、サクラは、自分の手首をしっかりと握る、自分よりも俊敏なその手の持ち主をゆっくりと確認した。

――大丈夫、落ち着いてください。
 少し前まで、大して背丈も変わらなかった筈だが、一回り大きくなったような背中がサクラを月明かりから隠していた。息を漏らしただけで気配を覚らせ兼ねない。張り詰めた空気の中、聞こえぬ筈の声が密やかに、サクラの心に届いた。力強い手の感触が、揺らぎそうなサクラの意識を支える。あの殺伐とした中忍選抜試験の時が脳裏に過ぎった。己の危険も顧みず、何処からか、いつでも彼はサクラの危機を嗅ぎ付け颯爽と現れるのだ。
――リーさん。
 たった独りきりだったところに駆け付けた、たった一人の味方に、感情が溢れそうになる。今すぐに泣き出したい気持ちを必死に抑えて、サクラはチャクラの鎮静に努めた。無用な戦闘を回避しようという、リーの意思を汲んだ。
 時間にして数十秒程度かもしれない。途方もなく長く感じる時を、辛抱強く待っていると、黒い影が、やがて二人の前を通過していく。
 完全に通り過ぎ、その内視界から見えなくなってもリーは気配を動かさずにいた。隣でサクラもじっと息を潜めている。
 そろりと冷えた風に撫でられ肌が粟立つ。気付けば体中から汗が噴き出していた。額に浮かんだ大量の汗が、ツウと一筋サクラの頬を伝っていき、その蒼白な横顔を案じたのか、リーが静かに問うた。

「大丈夫ですか? サクラさん」

 はっとして、自分の顔を覗き込む漆黒の瞳を見上げる。余裕のないサクラと対照的に、リーは涼しい顔で呼吸一つ乱していなかった。答えようとすると掠れた声が出る。その様子に、手首の拘束が緩められて、リーがサクラと向き合った。
 まだ微かに肩を震わせながら、サクラは頼りなくペタリと座り込んでいた。月明かりの下で、草で擦ったような跡が手足の所々に浮かび上がる。子供でさえ、何処でどう遊んだらここまで汚れるのか、将又忍らしくこれは修行の一環なのか。どちらにせよこんな場所では相応しくない。その証拠に――リーはサクラを見守る眼を外し、一気にその表情を引き締めた。

「サクラさん、帰りますよ。全速力で」

 落ち着きつつあった空気がみるみる殺気立っていく。
 いつの間にか背後に立っていた、黒い塊を、サクラが目に入れるより早く、そう言ってリーは力任せに手を引いた。



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