フォレ・ノワール
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「どうして、こんな所に?」

 一切スピードを落とさず、猛烈な速さで木々の間を走り抜けるリーの黒髪が目の前で靡いている。
 サクラ達に離されることなく、しっかりと一定の距離を保って後を追って来る黒いモノを、気にしつつ、リーは特に責めるような口振りでもなかった。

「あ……あの……ちょっと、調べ物をしていて」

 しかし思わずと言い訳は尻切れとなる。温厚なリーが僅かに仄めかす変容の切っ掛けに、覚悟をしつつも、サクラは強張ってしまう。
 途切れた声に手繰り寄せられるようにして、リーは横目にサクラの腕に収まる籠を見る。

「ダメですよ。女性が独りで、こんな気味の悪い所に近付いては」

 存外にリーは、研究あそびに没頭する子供を軽く宥めるみたいに寛大だった。心なしか前を向いたままの相貌が微笑んでもいるかのように。大変なことに巻き込んでしまった彼への後ろめたさが、ふつふつとサクラの中で存在を帯びてくる。

「まあ、そういうボクはというと、ガイ先生と、『自分の限界とは存在し得るのか』を検証するスペシャルトライアスロンの最中だったのですが……随分コースを外れてしまったみたいです」

 こんな北の外れでリーと出会した訳。いつも彼は木ノ葉の里を縦横無尽に走っては、修行に明け暮れているのだろうか。リーは半分冗談のように朗らかにしているが、ただただサクラは身が縮む思いだ。それならば一人逸れたリーをガイも心配しているだろう。

「ごめんなさい……」
「いや、いいんですよ、そんな。謝らないで……」

 消え入るような声にはっとして、慌てた様子でリーが振り返る。自身の修行などいつでもできるのだから。そんなつもりで言った訳ではないから、としょんぼりしたサクラを気遣うが、みるみるその表情が硬くなっていった。

「しつこいですね……そんなにボク達がお気に召さないんでしょうか。言われなくても、出ていきますよ」

 後方からぴったりと追尾している「黒い追っ手」は、サクラも意識している。先程から耳に付く嫌な音、いや、声――とも分からぬ凶悪な呻きを発してサクラ達を脅かしている。
 まるで地獄の果てまでも追い迫るような、底知れぬ執念を感じて刹那、身震いした。このまま逃げ延びることができなかったら――。
 そんな想像をしていた矢先、突然ガクンと上体が崩れてサクラの視界が揺れた。大きな石がごろごろと転がった険しい地形に足を取られた。速度を緩めないリーの姿がどんどん離れていく。
 抱えていた籠が腕から擦り抜けて、道の脇にある斜面を弾んで転がり落ちていく。反射的に伸ばし掛けた手はしかし地面を捉え、受け身を取らざるを得なかった。
 短い悲鳴が上がってリーが首を巡らせる。起き上がろうとしたサクラは、鈍い抵抗を感じて自分の足元を見た。うねうねと入り組んだ木の根っこに足が嵌って、抜けない。

「サクラさん!」

 リーが急ブレーキを掛けてサクラの元へ戻ってくる。直ぐ様固い木の根に手を掛けて、サクラの足を解放した。
 黒い追っ手が迫っている。頭上の木々が強い風に枝を大きく撓らせている。轟音で耳が痛いくらいだ。不気味な風のような魔性の笑い声が二人をじわじわ追い詰めていった。

「サクラさん、戻るのは危険です。諦めて……」

 何かを予期して、リーがその思惑に回り込んでサクラの手を捕らえた。立ち竦んでいるのかと思ったサクラは、斜面に転がり落ちた籠を一心に見つめている。
 そこまで下には落ちてはいないが、取りに戻るには些か迷う距離だった。握られた手に固く力が籠もる。もうこれ以上の猶予はない。リーの判断は、正しい。

「でも、あの中には……」

 珍しく、従順な優等生であるサクラにしては頑なだった。愚図る子供みたいな口振りにリーは呆れたのだろう。リーの重々しい戒めが手から離れた。同時にふわりと側で、微かな風が巻き起こった。

「リーさん!」

 目にも留まらぬ速さで、緑色のマイト・ガイスーツがサクラの眼前を通過する。
 リーが斜面を滑り降りて、転がった籠を拾い上げる。付近に散らばった薬草を、一瞬躊躇した後しゃがみ込んで籠に突っ込む。僅かなタイムロスであれば自分の足で取り返せる。そう確信できたのは師に叩き込まれた抜群の瞬発力が己にはあったから。
 その、速さに秀でたリーの更に上をゆく速度で以て、黒い影がリーを捉えた。リーは相手を見縊っていた訳ではないし、己の能力を過信していた訳でもない。只人間の持つ身体能力とは遥かに懸け離れた動きだった。
 リーの背後に音もなく立つ異界の者。ゆっくりと振り返るリーを、サクラは声も出せずに見つめていた。


 至近に来た図体、黒い虫の集合体のように見えたそれは、ヒトの体をしており、ボロボロの布切れを纏って体中焼け焦げたように腐敗していた。
 そして頭部にあたる、肩の上の突き出た部分は、暴力的な程に赤黒く塗り潰されて、顔がなかった。


































「……何だったんでしょうね」

 サクラの両手に持つ籠が金柑色に染まり上がって、そこから草花の滴が覗き、きらきらと光っていた。
 既に収穫を終えたのか、或いは放置したままなのか、周囲には痩せた畑が幾つも点在する。この一帯は日当たりや土質の影響で、あまり良質な作物は育たないように思えた。専ら北部の主産業は炭鉱である。
 森の外は穏やかな夕空が広がっていた。もうとっくに日が暮れたものだと思っていたが、どうも時間の感覚が可笑しい。今まで何か長い夢を見ていたのだろうか。
 暫く人気のない農地を通り過ぎた後、リーはやっと口を開いた。重たげな黒い前髪がさらさらと風に流れていく。
 ぽつりと漏れたリーの呟きは、サクラを更に黙らせた。気が付いたら二人揃って、森の外に立っていた。このまま本当に夢か幻の類だったのだと思いたいが、リーの思い詰めたような横顔がサクラの胸に楔を打つ。彼はあの時至近で何を見たのだろう。

「とりあえず……もうお互いに、ここに近付くのはやめましょう……いいですね? サクラさん」
「はい……」

 自身の心のしこりを振り払うかのように、リーはそう言い出してサクラにも念入りに釘を刺す。まるで考えることまでもを禁ずるかのように。だが言われずとも、もう一人で此処に来る勇気はない。幾ら薬草の宝庫だとしてもだ。リーがいなかったら、サクラは今頃どうなっていたか分からない。いや、想像には難くない。命ある我が身を、今こそ漸く実感できたサクラは、澄んだ木ノ葉の空気を胸いっぱいに取り込んだ。

 これから修行に戻ると言うリーに、丁寧に礼を言って、その後二人は分かれ道でそれぞれの行き先に向かった。
 歩き出したサクラがちらりと後ろを振り返ると、少し遠くに見えるリーがその場に留まっている。用心なことに、サクラの姿が見えなくなるまでは、ひっそりと見守っていてくれるのだろう。
 傾いた太陽で長く伸びる、自分の影を見つめながら、籠から溢れんばかりの沢山の薬草を土産にサクラは帰路を目指した。
 ひとつだけ摘み取ってきたちいさなへび苺が、籠の中から顔を覗かせて、夕陽の中で淡く輝いていた。



(了)


そのへび苺、おひとつくださいな。



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