夢の続き
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 視界いっぱいが白く染まる、少し前に、テンテンは至近でネジを見た。ずっと焦がれて、会いたかった、夢の中のネジは透き通るように清冷で、どこか儚い。
 舞い降りた体を、ふわりと優しく引き寄せられて、テンテンは漸く夢の呪縛から解き放たれた。


『よく頑張ったな、テンテン』

 穏やかな声がテンテンの意識をそっと揺り動かす。いつも通りの、聞き慣れた筈のそれが殊更、体中に染み入るようだった。
 水がゆき届いたように、これまでの感情が溢れそうになって、テンテンはきつくネジにしがみついた。

『ネジ……っ、ううん、私、ネジのお陰で……本当にありがとう、大好き!』
『はは、現金だな』

 今まで一度も言ったことのないような言葉の数々に、頭の上から軽快な笑いが降ってくる。夢に出てきたネジは平生の堅苦しさがどこか抜け落ちていた。だけど、いつもと同じ、少し世話焼きのその手は、テンテンの奮闘を労うようにゆっくりと背中をすべる。

『そんなことないよ。私、ネジにずっと……』

 テンテンは腕の中で身動ぎして、ネジを見上げる。笑われてむきになった訳ではないが、適当なことを言った訳でもなくて――――いつでもさり気なく見守って、一緒に考えたりしてくれて、本当はずっと感謝していた。
 それを、どうにか伝えようとしたのだが……端整なネジの顔が少しずつぼやけてきて、あれ? とテンテンは瞼を擦る。

『……テンテン。悪夢の時間は、もう終わりだ。これからは……ゆっくり休める』

 限界まで頑張ってきたテンテンには、愈々睡魔の波が押し寄せている。夢の中で眠くなるなんて可笑しな話だ。
 微笑ましく目を細めるネジに、とろんとしたテンテンの眼差しが、コクリと素直に頷く。すると耳の後ろに、そっと掌が触れて……促されるままに、テンテンはネジの胸に頭を預けた。

『おやすみ、テンテン……良い夢を』

 瞼の裏に、柔らかな光を受ける。テンテンは目を開けることも、返事もできずに深く深くネジの温もりに埋もれていく。
 もう、暗い夜は来ない。これから先、テンテンの見る夢はいつも、幸福な光に溢れている。

 ネジに凭れるテンテンの唇が人知れず綻んでいく。
 静穏で心地良い腕に包まれて、今テンテンは、清麗な景色を瞳に映している。













 徐々に高くなりつつある陽射しが窓から差し込んで、床に眩く反射する。そんな平穏な目覚めが、一体どれほど普通のことであったのか。その身を以て体感しているテンテンは、もう少し微睡みの境目に寄り掛かっていたかった。
 そろりと撫ぜる微風に誘われて、ゆっくりと瞼を開けると、明るい色を湛える天井がテンテンを迎えた。久し振りの穏やかな様相に、自然と胸から息を吐いた。
 ぼんやりとした視界の端に、真新しい胴着が映る。少しずつ、昨日の経緯を思い出して、テンテンは布団からそっと身を起こした。

「……ネジ……?」

 小さな声が乾いた空気に馴染んで消える。昨夜、確かに側にいたその姿はなく、テンテンは周囲を見回した。部屋の隅に置かれていた灯りも、今は片付けられて、全てが元通りになっている。
 暫くの間気抜けしたように室内を眺める。目覚めたら、また当たり前のようにネジに会えると思っていた。だからか、何か取り残されたような、夢の続きにいるような奇妙な感覚に包まれて、テンテンは覚束ない足元で布団から抜け出した。

 外に出ると直ぐに、夕べネジと潜ってきた幽遠の門構が佇んでいた。厳めしい造りから垣間見える、通りの景色に目を奪われる。自分を置いて、ネジはどこかに行ってしまったのかと、一瞬及んだ考えに心底からひやりとした。固く閉ざされた門扉を、じっと見つめて……テンテンは振り切るように敷地へと引き返した。
 そろそろと母屋の近くまでやって来ると、縁側に面する庭を見て足を止める。大振りで目を引く花などないが、手入れされたばかりのような鮮やかな緑が瑞々しくそよいでいた。奇麗に整えられて、そのまま時が止まったみたいだ。主は何処に行ったのだろう。
 掘り返したような真新しい土。葉を濡らす雫。あたたかな夢の余韻はただただ独りきりのテンテンを物寂しくさせる。ネジ、とついに声を詰まらせて、テンテンはネジのいた痕跡をたどる。


「……テンテン?」

 俯いて途方に暮れていた、テンテンの心に垂れ込める雲をそれは忽ち晴らしていった。家の中から出てきたネジが、庭で立ち尽くしているテンテンを見つけて不思議そうにしている。

「起きたのか」

 開け放した戸をそのままに、そう暢気に呟くネジは実に小憎らしい。テンテンを置いて今まで何をしていたのだろう。別に寝ている間に、何処にも行かない約束をした訳ではなかったけど。それでも、何だかずっと、側にいて欲しかった。

「何だ、どうした……」

 少しの衝撃の後、上擦ったネジの声が間近で聞こえた。気付くとテンテンは、形振り構わずネジの懐に飛び込んでいた。更には絶対に離れまいと、ぎゅうっと腰にしがみついてしまう。

「だって……だって、誰もいなかったから」

 飄々としたネジの態度が気に障ったのは確かだが、このまま独りで彷徨い続けるのはもっと嫌だった。
 漸く再会できたこれも、夢なのではないか――悪夢に脅かされた思考を掻き消すように、必死にテンテンは胸元に顔を埋める。
 腰に回された手元と拗ねた言葉の僅かな震えに、その向かう先に、ネジは静かに察した素振りを見せる。

「ああ……そうか、悪かったな。よく眠っていたから……」

 今初めて、テンテンの置かれた状況に気付いたのか、ネジは素直に謝る。子供染みたテンテンの言動に、少しも呆れることもない。あの窮屈な小部屋で、テンテンが夜通し見ていたのは、決して優美な夢ではなかった。

「……頑張ったんだな、テンテン。おかえり」

 ごめんな、と宥めるように肩に触れられて、それだけで随分とテンテンは安堵した。髪に吐息混じりの声があたって、擽ったい。
 何か夢の中でも、似たようなことを言われた気がする。実際にそうされると、結構、臨場感というか、ネジの纏う空気感が異なっていた。僅かな息遣いも聞こえる鮮明さに、本物のネジには、何者も勝てないのだと、当人の胸に寄り掛かって可笑しなことを思う。今更照れ臭くなってきて、テンテンはネジの装束の端っこを、控え目に摘まみ直した。

「……ネジが、ね……夢に出てきたの」
「そうなのか」

 恥じらいに包まれるようにして、小さく絞り出した声でも巧みにネジは拾い上げる。
 唐突に自らが夢に登場していたことを知って、ネジは意外そうに首を傾げる。話の先に幾らか興味がありそうだ。

「うん、あのね……こっちだ……って、私を呼んでくれたの。だから私、迷わなかったの」
「……そうか」

 穏やかな聞き役が、きっと目元を緩めているのが想像できる。
 あの時暗闇に差し込んだ光は、ネジそのものだったのだろうか。そんな気がするくらいに、今テンテンが身を委ねる腕は心地良い。
 悪夢に振り回されていた、テンテンの異変に最初に気付いたのはネジだった。更にはどうにかならないかと、テンテンの災難を自分のことのように考えて解決策を探してくれた。
 おやすみ、と言ってくれた、夢の中のネジに似た麗らかな陽射しが柔らかくテンテンに降り注ぐ。髪を撫でる風はまるでその指先だ。目覚めていても眠りの時でさえも、テンテンはネジに守られていた。
 もしも許されるのなら、このまま、ずっと――――この人の傍に。

 ひっそりと募った想いの外側から、トントン、と微かに指先が触れてくる。

「テンテン……? 寝てしまったのか?」

 控え目な声に呼ばれて、微睡みを行き来するテンテンは、ウウン……と身動ぎした。顔を起こすどころか、益々頬をくっつけ摺り寄せる様子に、ネジは呆気に取られている。

「もう、そろそろ……離れないか?」

 テンテン? と遠慮がちに呼び掛ける、無理には起こそうとしないネジの配慮は寧ろ、もっと甘えろと言っているようなものだ。しかし、何となく困っているような感情がそこに透けて見えた。抑も同じ人物である筈の、夢と現在のネジだが、双方には明らかな違いがあった。改めて意識に上ったからか否か、テンテンは段々と物足りなさが込み上げた。

――……夢の中では、もっとぎゅ……ってしてくれたのに。

 尖らせた唇からすべらせたそれは、全てネジが耳に拾った。瞬時に、今まで肩に置いてあったネジの手が跳ね上がる。

「テ、テンテン……テンテンは、何か、寝惚けているようだな」
「な、何よ……起きてるわよ」

 内心の狼狽が著しく現れるネジ宜しく、テンテンにも耐え難いものが湧き上がって顔がぶわりと染まり上がる。若しかして、思っていることが口に出てしまったのか。開き直って、言い返してみるも、その顔はネジの胸から余計に離れ難くなった。

「……それはその……夢の話だろう? 今そうする必要は……」
「う、うん……そうだけど」

 目の前のネジの鼓動が大分落ち着かないようだが、最早それは何方のものとも言えなかった。
 依然として、両手の行き場に困り果てるネジは、一先ずは、此処が『現実の世界』なのだとやんわり仄めかした。つまりはテンテンが夢で出会った人物は、ネジとは全くの別人なのだと。
 だから必ずしも、此処で今それを再現する必要はない。微塵もない。無骨なネジの主張は尤もなことなのだが。諦めきれないテンテンの指先が、それでももどかしそうにネジの装束を握る。否応なく察知したネジはぎょっとする。テンテンにとっては、何方も同じネジなのだけど。現実はどうしてかちぐはぐだ。
 引っ込みがつかず、かと言ってあと一歩の勇気も出ず、思いあぐねているテンテンの頭上でネジが急に閃いた。

「そうだ、朝食を用意してある。と言ってももう、昼過ぎになるが……一緒に食べないか?」

 それとなく、ネジにより現在までの時間の経過を知ることができたが、唐突な話の転換にテンテンはぽかんとする。
 ごはん……? と訊き返す、寝起きの拙い口振りに、ネジなりの笑顔で頷かれる。

「お家に上がってもいいの?」

 望外、子供のような無邪気な瞳に興味を持たれて、ネジは白い眼を瞬き意味が分からなそうな顔をする。しかし、昨夜は何故か頑なに上げようとしなかった、テンテンが不思議に思うのも仕方ない。

「別に、問題はない」

 驚くほど淡々と返されて、今度は呆気なく許可された。テンテンの方こそ意味が分からなかったが、案外何方とも、そう細かいことは気にしない性質である。
 悪夢は終わった。これ以上深刻な悩みなどない筈だ。

「なぁんだ、早く言ってよ」

 妙に晴れやかな心持ちになって、テンテンは引くに引けなかった手をそっとネジから外した。ぎこちない表情をしていないか、赤ら顔の名残をごまかすようにテンテンはネジの方を見ずに両手を組んで伸びをする。ネジとて漸く自由になって、文字通り、ホッ……と一息つけたところだ。特にテンテンの思惑を気にする素振りもなく、自然な流れで開けっ放しのドアよりテンテンを招いてくれた。
 少し散らかっているが……と呟く声を右から左に聞き流したそばから、足を踏み入れた玄関でバケツやらの清掃用具と対面する。掃除の途中だったのだろうか。意外と几帳面だったネジの、日々の細やかな様相を回顧しているところで、唐突にテンテンは思い出した。

「ネジ。私、ネジにもらったお守り、壊しちゃって……」

 余裕のない声に呼び止められて、廊下を進むネジが振り返る。御守り、とは昨日ネジから渡された黒い数珠のことだ(それを見てテンテンは、今回の件で“幽霊”が関わっているのかと混乱した)。
 確か夢の中で、バラバラに弾けてしまったとテンテンは記憶している。目を覚ましてからは、そういえば行方が分からないでいるが……何も嵌めていない手首を見て、予感がした。
 ごめん……と項垂れている姿を横目に、ネジはわざとらしく溜息で返した。

「そんなものはいい」

 何事かと思った、と言わんばかりの力の抜けた表情を見せて、ネジは先に足を進める。暫し、その様子を拍子抜けして眺めていたテンテンは、その内に取り残されそうになると我に返ってネジの後を追った。
 テンテンとしては結構、あれに助けられたのだったが、ネジにとっての価値はそれほどでもないらしい。何となく納得し兼ねたが、悪い夢と一緒に手放したのだと、思ってしまえば良いのだろうか。

「わっ」

 靴を脱いだ足元が疎かになって、テンテンの短い悲鳴が上がる。今度は玄関を上がったところにある、庭弄りの道具に躓きそうになった。
 正に忍者の身の熟しで、壁に手を付いてほっとしていると、気を付けろよ、とネジの声だけが届く。遠くの方に返答しつつ、テンテンは倒れ掛かった如雨露を拾って壁に立てておく。
 考えてみれば、ネジは年中任務やらで家を空けているから、その間に溜まっている家の用事も一人で熟さないといけない。テンテンの傍に、片時も離れずにいる時間などなかった。
 月日の経過の描かれる、古びた廊下の端々に満ちる爽気が、ひんやりと目に沁みて。テンテンはすくっと立ち上がった。
 まだ目覚めてから、一度も言っていなかったことがある。

「ネジ、あのさ、ありがとうね」





 ごく薄らと、口元に無言の感情を添えて、足止めされたネジは居間に入っていく。
 こちらのネジはどうも感情表現が乏しい。いつものことながら改めてそう感じるテンテンだが、この、たった一言に込められた、沢山の想いを――ネジはきっと受け取ってくれた。



「もしネジが、コワ―い夢見た時には、私に任せてよ」
「それは、有難いな」

 ネジ手製のふわふわの卵料理を口に放り込んで、テンテンはニンマリと頬を緩ませた。先刻抱き付いて離れなかったことなどもう忘れている。
 たっぷり睡眠を取って気力も十分、ネジ相手にお喋りにも花が咲く。
 さて、食べ終わったら、食器の後片付けをして……残りの掃除を手分けしてやるのも、ちょっとした恩返しになりそうだ。
 ネジに宣言して、こう見えて雑巾がけのエキスパートだと、今から意気込むテンテンだったが――。
 もう終わったよ、と静かに綻ぶような声が返ってきた。




(了)



閲覧ありがとうございます。
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