夢の続き3/5
気が付けば白くくすんだ曇り空の下を、テンテンは黙々と歩き続けていた。針葉樹の鋭利なシルエットが、黒々と空の縁を飾っている。晴れる兆しも雨の予感もない、無機質な色だ。
まるで見知った道のように、迷いなく滞りなく足が地を踏み締める。知らないのに知っている。もう何度見たともしれない風景はそれでも、これを“夢”とは教えてくれない。テンテンは酷く急いでいた。
もうアカデミーなど疾うに卒業したのに、授業に遅れそうになって焦っていた。更にポーチを丸ごと家に置いてきて、手持ちの忍具を全て忘れて来てしまった。怒られることは必至だが今から引き返す時間もない。泣きそうになりながら、無駄な足掻きと思いながらも足を速めた。この辺りで後ろから、じわじわと黒い影が近付いてくることが分かっていた。
目の当たりにしたのは初めてではなかったが、振り返ったテンテンは悍ましさに短く息を吸った。幼児ほどの小さな背丈の人影が、疎らに散らばって、此方の様子を窺っている。
皆黒い服を着ていて、人形のように同じ顔をしていた。不自然な造形に不気味な影が落ちている。この先も執拗に自分を追い回してくることを何故だか知っている。辻褄を合わせる余裕は今はなかった。
前を向いてテンテンは無我夢中で走り出した。ああ、また延々と続く“追いかけっこ”が始まる――とどこかに過ぎる。
上手く呼吸ができなくて息が苦しい。手足が重くて思うように走れなかった。それでも、止まった時の恐ろしさを考えれば、テンテンは意地でも腕を振り切った。このまま、逃げ続ける訳にはいかないのだが――――。
どうしてそう思うのだろう。こんなこわいところ、早く抜け出したいのに。でも、誰かに何かを言われた気がするのだ。此処よりももっと広く明るい世界で、この長い彷徨を、一緒に終わらせようと。
左手に静かに寄り添う黒壇の珠が、はっきりとそれを証明していた。
『――――っ!』
考えに気を囚われたテンテンは、足を取られて地面に倒れ込んだ。近付く後ろの気配を察知して、座り込んだまま動けなくなる。
気味の悪い顔たちが、段々とテンテンを無機質な壁際に追い詰めていく。それでも忍としての意地と、牽制するように厳しく彼らを見据えるが、何もない懐を探って愕然とした。何故こんな時に、巻物一つ持っていないのか。どうして自分は、こんなにも非力なのだろう。
蠟で固められたような真っ白な手が伸びて、テンテンの腕をつめたく捕えた。御守りの黒い珠が弾ける。きつく閉じた瞼の裏に、ネジの顔が浮かんだ。
『……助けて』
深々と更ける夜の暗闇で、ネジは物音のした方に目を向けた。テンテンに持たせていた念珠が、前触れもなく弾けた。床を転がる珠が目の前まで来て、言い知れぬ予感が脳を掠めた。
不安を宥めながら、ネジはそっと眠るテンテンの傍に行く。どうやら魘されているらしく、布団を除けるとテンテンの乱れた息遣いが迎えた。汗の浮かぶ顔が、左右に振れて、苦し気に声を絞り出す。
「……ジ……たす……け」
「テンテン……!」
夢を見ることがこわい、と弱々しく話していた昼間の様子が蘇る。テンテンを送り出したのは、ネジだった。
肩に、優しさと罪の意識で触れようとしたネジは、それでも既のところで堪えた。
ここでテンテンを起こしては何も、何も解決しない。束の間の現実へと逃げ延びた彼女は、この先もまた同じ夢に苦しめられることになる。
ならばもうここで、断ち切る。忌まわしい悪夢は今日限りで、終わらせるのだ。
今度は明確な理由を持った指先で、腹の上にあるテンテンの手にネジは触れた。加減しながら握り取り、苦悶に歪んだ表情が楽になるように、ゆっくりとチャクラを放出していく。柔らかな熱が徐々にテンテンの体を覆っていくのを祈るようにネジは見守る。……ならばせめて、この手が少しでも、夢の中で戦う彼女の勇気となるように。
ネジの両手に、大事に包まれたこの手は、必ず突破口を見つける。
「テンテン……負けるなよ」
身体の感覚がふと軽くなって、テンテンは顔に翳していた腕を恐る恐る退ける。自分に掴み掛かった手は跡形もなく消えていた。
役目をしっかりと果たして、辺りに散らばった念珠に目を奪われる。初めて、此処が“夢の中”なのだと気付いた。
テンテンなら、大丈夫だ。
何の根拠もないようなその言葉を思い出して、鼻の奥がきゅんとなる。独りではない。今こうしている間もきっと、その人はテンテンの安らかな目覚めを信じて待っている。
不思議と全身からチャクラが漲ってきて、その強烈な圧に、残りの小さな黒服たちが怯んでいる。反撃しろ――と造作もなくネジは言っていたが、テンテンが思うにそこまでする必要はなさそうだった。ただ、既に逃げ腰に見える彼らに向けて、今までの恨みを込めて、最後に通告をしておく。
『もう二度と出てこないで』
あんなに恐かった存在が、凄みを利かせた声にビリビリと体を震わせている。チャクラの圧に巻き込まれて、顔や手足に罅を食らいながら、テンテンに見逃された彼らは、蝕まれる身体を抱えて瞬く間に消え去った。ネジには“甘い”と言われそうだが、もうテンテンの夢に現れることはないだろう。
静けさを漸く取り戻した世界は、風の流れもなく、時が止まったように仄白い空が浮かんでいた。が、この時初めて変化が訪れた。
一息つく間もなく、次第次第に辺りが薄暗くなっていく。単純に日没というレベルのものではない。じわじわと真っ黒な墨が滲んでいくように、虚構の景色が塗り潰されていく。――悪夢の崩壊だ。
長かった道程の行き着く果てに、込み上げるものもなく、テンテンは呆然と立ち尽す。やがて足元にも暗澹の色が迫って、付近の壁にそれは染み込んでいく。このままではこの悪夢ごと、呑み込まれる。
『ちょっと……どうすればいいのよ』
周囲を見渡しても、闇はグルリとテンテンを取り囲んで、もう何も見えなかった。それでも僅かな綻びを見つけようと、焦燥と共に走り出した。止まったら永久に囚われてしまいそうだ。
追っ手に立ち向かい、夢の内容を変えたその先のこと――ネジとはそこまで話していない。ネジの集めた本には、何か詳しい術が書かれていたのだろうか。もっと色々、聞いておけば良かった。
――テンテン、こっちだ。
何処からかそう、声がして、心のどこかで諦めかけていたテンテンはふと遠くの方に浮かぶ、小さな光に目を凝らした。引き寄せられるように足を向ける。眠る直前、ネジの灯した灯りを思い出して、あたたかな世界が急に恋しくなった。
背後の闇が音もなく崩れ落ちていく。それは気配でしかなかったけれども、テンテンの足場まで確実に到達して足元がぐらついた。もう少しで届きそうな、光の中へと必死に手を伸ばす。
そのまま、飛び込め。
眩いほどの白い光に包まれて、ネジが腕を広げている。力強い言葉に、テンテンはぼろぼろと朽ちていく黒い塊状から意を決して足を離した。
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