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TopMain沈黙の愛
静かな夜だった。外ではしんしんと雪が降り積もり、まるで私と文次郎さまをこの家に閉じ込めてしまうかのようだった。
あまりにも冷え込むので、指先がかじかんで針仕事が中々思うようにいかない。時折、火鉢に手を当てるものの、指先の熱は瞬く間に攫われてしまうので困ったものだ。

「今日はもう休んだらどうだ」
「いえ…、もう少しで完成しますから」

武器の手入れを行っていた文次郎さまが気遣わしげに声をかけてくれたが、私はかぶりを振る。この小袖は、明日発つ文次郎さまのために繕っていたものなので、なんとしても今日中に完成をさせてしまいたかった。
すると、文次郎さまは息をついて立ち上がり奥に行くので、もう休まれるのかと首を傾げる。布団はもう敷いてあるから問題ないとして気にせずに針を扱っていると、ふわりと、肩に何かを掛けられて顔を上げた。文次郎さまは相変わらず隈を湛えたお顔で私をじっと見つめてから、隣にどかりと腰を下ろした。
肩を見ると文次郎さまの着物が掛けられていて、じわじわと首から耳にかけて熱がこみ上げてくる。きっと文次郎さまはこうして温めたかったわけではないだろうが、思わぬ副産物で私の体温は上昇した。

「ありがとうございます…」

よわよわしい私の礼に、文次郎さまは特に何を返すわけでもなかった。けれど、不思議とそこにつめたさはない。私は、文次郎さまのそういうところが好きだった。
隣に座った文次郎さまの肩が僅かに触れる距離感で、互いの作業を進めた。この家には沈黙が落ちている時間の方が長かったが、苦に思ったことは一度だってない。最初の頃にはその沈黙に僅かな緊張を抱いていたが、今はただ、安らかだった。

そしてそのまま半刻が過ぎようとしたころ、ようやく私の繕い物が終わってぐっと背伸びをする。ちら、と視線をよこした文次郎さまに、私は繕ったばかりの小袖を見せた。

「羽織ってみていただけますか」
「ああ」

立ち上がった文次郎さまの背に、小袖を広げて腕を迎えに行く。両方の袖を通して背中心を合わせると、文次郎さまに藍色が良く映えた。

「裄もぴったりですね。着心地はいかがですか」
「問題ない」
「よかった」

前に回り、衿元から腰にかけてゆるく合わせて、全体を眺める。特に問題はなさそうだ。藍色を羽織った文次郎さまは、普段のきりりとした雰囲気がより引き締まるようで、よく似合っていた。男性の見目に好みは無い方だったが、なんだか文次郎さまが今まで出会ったどの男性よりも魅力的に見えて、今更ながら気恥ずかしさが襲った。
また後ろに回って袖から手を抜くのを手伝ってから、小袖を軽く畳む。明日に控えた荷物が置いてある場所にその小袖も並べてから振り返ると、思ったよりも近くに文次郎さまがいた。

「手を貸せ」
「え?」

事態を飲み込む前に、文次郎さまに手を取られて肩が跳ねる。ぱっと広げられた私の手は、あまり見ていて気持ちのいいものではなかった。季節の乾燥と水仕事、…それと針仕事の下手さが表れた私の手はあかぎれや刺し傷でいっぱいだった。

「お見苦しくてすみません…」
「バカタレ、そういう話をしてるんじゃない」

文次郎さまは懐から貝殻を取り出して、その中身の軟膏を指先に取り出す。そして私の手のひらに塗り広げて、丁寧に馴染ませていった。私より一回りほど大きい文次郎さまの手に包まれて、変な汗が顔から浮き出た。

「あ、あの、それは…?」
「この前伊作が置いていった薬だ」
「善法寺さまが…」

善法寺さまは医学に通じている方だったので薬を置いていかれたことに関して驚きはなかったが、私なんかに使ってよいものなのだろうかと不安になる。文次郎さまのための物なのだとしたら、私に使っていたからいざという時に無いだなんて、そんなことは絶対に嫌だった。

「も、もう十分ですよ。ありがとうございます」

私の手を握る文次郎さまの力が思ったよりしっかりとしていて、手を引くことができずにうろたえる。文次郎さまは私の手に視線を落としたまま、私の両の手のひらをぎゅっと握った。

「…いつも助かっている」

置かれた小袖を一瞥して、文次郎さまは穏やかな声で呟く。その、文次郎さまにとって最大限の感謝を受け取ると、条件反射で身も心も頬もほぐれていくようで、ふふ…と至極幸せそうな息の音が漏れ出た。

「文次郎さまを少しでも守ってくださるようにと、任務が上手くいきますようにと願って繕いました。ご無事を、お祈りしてます」

私の言葉は静寂にゆっくりと溶け込んだ。文次郎さまはきっと何も言わないだろうなと、そう思って顔を上げた途端、くんっと腕を引かれて前のめりに膝をついた。不安定な体ごと文次郎さまに力強く支えられていて、まばたきをしたころには口を吸われていた。

思考回路が事実を処理するよりも早く、体の方が状況を理解していたようで、握りつぶされたかのように心の臓が痛い。
先ほどから握られた手が、合わさったくちびるが、この人と繋がっていると泣きたくなるくらいに実感させてくれるものだから、私は目を開けられずにいた。きっと、余計な雫をこぼしてしまうだろうから。

夜が明けてしまうのではないかと錯覚するくらいの時間を経てから、くちびるが離れて至近距離で文次郎さまと視線が絡まる。なんて言葉を落としたらいいか分からなくて、ただ甘美な呼吸音に身を委ねていると、文次郎さまがかすれた声で囁いた。

「……抱きたい」

いわゆる初夜というものは、私と文次郎さまはまだ済ませていなかった。初夜おろか、接吻ですらこの瞬間が初めてだった。
勿論、私と文次郎さまが夫婦になった日には問答無用で一つの部屋に押し込められたが、体を強張らせた私を見て文次郎さまが「そんなに急くことでもない」と指一本たりとも触れなかったのだ。布団が一つしかない部屋の片隅で、文次郎さまは胡坐をかいて寝ていた。忍者ならこれくらい日常、と頑なに言うので、私は諦めて布団で寝たのを覚えている。

けれど、もうあの頃とは違う。文次郎さまの全てを、もっと近くで感じたい。だから頷く準備はいくらでもできていたというのに、文次郎さまは私の返事を聞く前に我に返ったように体を離した。

「悪い、急すぎた。忘れてくれ」

体に回っていた手が離れていき、文次郎さまが立とうとしたところで咄嗟に裾を掴んでいた。なりふりは構っていられなかった。驚いた表情の文次郎さまに、一世一代の勇気を振り絞って声を絞り出す。

「ずっと…、文次郎さまに触れられたいと思っていました」
「…、」
「はしたない、女でしょうか」

次の瞬間には、しかと抱きしめられていた。

「そんなわけあるか、バカタレ」

頬に触れた指先が、輪郭をやさしくなぞる。壊れ物を触るんじゃないかというくらい、羽のような柔らかな手つき。雪を溶かしてしまえそうなくらいあつい吐息は、もうどちらのものか分からなかった。

「…名前、」

ああもう、私、文次郎さまに泣き虫だと思われてしまう。いや、既に思われているのかもしれない。文次郎さまから受け取るものが多くて、うれしくて、抱えきれないほどのものが、私のひとみからこぼれていくようだった。
あいしている、とそのくちびるで紡がなくても、あなたの一挙手一投足から溢れんばかりのものを感じますと言ったら、笑われるでしょうか。……いや、きっと。バカタレ、って言うのでしょう。

***

藍色の小袖を身にまとった文次郎さまが、深靴を履いて振り返る。

「あまり無理はするなよ」
「大丈夫です。文次郎さまが手加減してくださったので」

別にいじわるを言ったつもりはなかったのだが、私の発言に文次郎さまはひくりと頬を引きつらせる。私に対してそのような顔をするのは初めてで可笑しくなっていると、文次郎さまが呆れたように小さく笑った。

「留守は頼んだ」
「はい。いってらっしゃいませ」

がらりと開けた戸からは、眩しいほどの光が差し込む。あまりよく見えなかったが、きっとこれは辺り一面雪景色だろう。道中、雪での事故が起きないようにと祈りながら、文次郎さまの背に頭を下げた。

もし神様や仏様がいるのならば、幸福の量は平等であれと幸せすぎる者から取り上げて振り分けたりするのかもしれない。そうだとしたら、真っ先に私は取り上げられてしまうだろうな、なんて。バカタレでしかないことを考えるくらいには、ひどく幸せだった。


沈黙の愛 4話


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