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TopMainあなたと、未来
「まあ、殿がわたくしに?」

枝先を指の腹で撫でれば、小ぶりな梅の花がつつましく揺れる。そのまま、匂いなり美しさなりたっぷりと愛でてもよかったのだが、これ見よがしに括りつけてある文があるためそうもいかない。結び目を解いて文を手の中で広げると、予想通り大した用は書いておらず、おざなりに目を通して早々に閉じた。

「では、私はこれで失礼します」
「お待ちなさい」

目の前でこうべを垂れていた男が早々に立ち去ろうとするものだから、いささか強めに呼び止める。その声に抗うことなく、男はすっと体勢を元に戻した。

「そんなにさっさと帰るなんて、わたくし嫌われているのかしら」
「奥方様…」
「冗談よ。留三郎、少し顔を見ていきなさい」
「…しかし、」
「これは忍務よ。分かっているでしょう」

殿がくだらない文をわざわざ優秀な留三郎を使ってまでこちらに届ける意味。それが本人も分からないわけがなく、返す言葉がなくなった留三郎は手招きをする前に控えめにこちらに寄った。側女に梅と文を押し付けて、すぐ近くで寝かせていたややを抱く。

「御覧、笑うようになったのよ」

そう言って留三郎に見せれば、仕事中は表情を崩さない男が、無条件に柔らかい顔をした。意味のない母音を発しながらちいさな手を伸ばす様子に、微笑まずにはいられないようだ。そうでしょうそうでしょう、と何故だか得意げな気持ちになりながら、ややを半ば強引に留三郎に近づけた。

「抱き方はこの前教えましたね」
「えっ?あ、いや、」
「ほら、首をしっかり持って」
「お、奥方様…!」

忍者とあろうものが情けない声をだして助けを求めるような視線をよこすものだから、可笑しいといったらない。留三郎の腕を誘導しつつややを抱かせると、腕の中に納まった生命体にしばらくおろおろとしていた。
だが慣れるのも早く、抱き方の収まりがよくなったらしい留三郎はややを見つめてゆるりと目を細める。しっかりと父の顔をしているその姿に、彼女が微笑みながら寄り添う姿も見えた気がして、侘しさが胸を吹き抜けた。今のは、梅の香が運んだ幻だろうか。

「かわいいでしょう」
「そう、ですね……本当に、」
「殿もこのかわいさには形無しよ。もう会うたび顔が溶けてしまいそうなの」
「はは、目に浮かびます」

留三郎の堅苦しい雰囲気がいくらか和らいで朗らかな空気に満ちていると、視界の端で先ほどの梅が花器に活けられていることに気が付く。側女が用意してくれたのだろう。仕事のできること、と思いつつ、改めて咲き誇った梅を見つめて季節の移り変わりを感じた。

「…花が咲き変わるよりも、子の成長は早いものよ」
「……」
「もう少し顔を出しなさい、留三郎」

素直に頷けるような男ではないことは分かっていた。いや、しかし、ですが、なんて言葉を口にする前に、ややを抱く腕にそっと手を添える。

「待っていますよ」
「……はい、」

重苦しく紡がれた了承は、色々なものが滲んでいたように感じる。感謝、後悔、罪悪感、哀愁、つぶさに並べて全ての気持ちを汲み取ることはきっと不可能だったが、留三郎が真摯に頷いてくれたということだけは確かだった。


不器用な背中を見送ってから、ややを抱いて腕の中で揺らす。すると、そばに活けてある梅の花に手を伸ばすものだから、目を見張る。枝から花をひとつ摘み取って近づけると、ややはきゃっきゃっと笑った。

「梅の花がお好きなようですね」
「きっと、わたくしに似たんだわ」

側女の言葉にそう返して、私はややにそっと頬を寄せる。ぬくい、その温度にしずくが溢れそうになる。小さな耳に優しく梅の花を添えると、面影が浮かんでくるようで。

「わたくしの大好きな子の、大好きな花ですもの」

彼のこと、教えてください。紅梅色に頬を染めて、おずおずと尋ねられた日を昨日のことのように思いだせる。どこの馬の骨であろうと許すつもりはなかったのに、まさか相手が留三郎だなんて。殿からの絶大な信頼を勝ち取っておいて、この子まで。そう嫉妬にまみれたあの日々は、今はただ鮮やかで、愛おしい、遠き日。

雪が溶けて梅の花が咲く前に、彼女の肌からは色が失せてしまったけれど。腕の中の、ややが、かのじょが、この香りと共に笑ってくれるのであれば、長く長くそれを守りたいと願った。


あなたと、未来 1話


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