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TopMainあなたと、未来
彼女は流行り病で亡くなってしまった。白く、骨の浮き出た腕がいつまでも瞼の裏に焼き付いて離れない。ふっくらとした頬を染めた彼女とこそばゆいような甘さを育んだ日々は、思い出そうとすると随分と遠くのことのように思えた。

留三郎は自身の主に忠誠を誓った日から、伴侶はいらないと思っていた。生涯、この人のためだけに尽くすのだと本気で思っていたのだ。しかし、同僚達からは若いうちに捕まえておけ、後悔する、と口々に言われ、更には殿にまで「所帯を持ったらどうだ」と心配される始末。いりません!とあの頃は半ばやけに答えていた。
そんな留三郎に前触れもなく、春が訪れた。あの、とか細く声をかけられた日は忘れられそうにない。確か奥方様の侍女の者だなと記憶を手繰り寄せていると、真っ赤に顔を染めた彼女は「よければ今度お茶でも!」と決死の覚悟といったように、留三郎に頭を下げた。あの時ばかりは忍者としての冷静な思考がすっぽ抜けて数秒惚けてしまった。それが、彼女との出会い。

そして彼女とは順調に、円満に、そうなることが決まっていたかのように仲が深まった。奥方様づてに聞いたのかは知らないが、そのことが耳に入ったらしい殿には「おめでとう」などと声をかけられた。留三郎は閉口するしかなかった。
晴れて彼女と結ばれて、しばらくして子を宿して、意地を張って伴侶などいらないと言っていた時には考えられないほどの幸せを抱えた。だが、命とは唐突に攫われてしまうものなのだと、戦乱の世に身を置いてとっくのとうに分かり切っていたことを、留三郎は戒めのように再度思い知らされることとなった。

流行り病に罹った彼女は、瞬く間に衰弱していった。奥方様は彼女を殊に大事にしていたようで、奥方様の命で優秀な医師も呼んだ。それでも、彼女の生命力が病に打ち勝つ兆しはなく、彼女のお腹が大きくなるのと反比例して彼女は弱った。
それでも母親の最後の意地というものだろうか。彼女は弱りながらもなんとか出産の日を迎え、多くの人の手助けを受けながら子を産んだ。そして役目を終えたかのように安らかな眠りについた。

彼女が亡くなった晩、まだどうしたらいいか先が見えていない状態で奥方様に呼びつけられた。空っぽなまま奥方様を訪ねると、人払いがされていたようで二人、いや三人の気配以外そこにはなかった。奥方様は生まれたばかりの子を抱いて、静かに口を開く。

「留三郎、わたくしは閻魔大王様よりひどい沙汰をおまえに言い渡すわ」

静寂が立ち込める夜に、奥方様の凛とした声が響く。

「この子を、わたくしにちょうだい」

彼女が亡くなって少し取り乱していた様子を見せていた奥方様の姿はもうそこにはなく。いつもと変わらず、しゃんと背筋を伸ばして殿の隣に立つ強い女性が、ややを抱いて留三郎を見下ろしていた。それは、暗闇に咲いた気高い白百合のようだった。

「わたくし、ずっと女の子が欲しかったのよ。殿もきっとお喜びになるわ」

ややを見つめて、ふふ…と笑う奥方様は美しく、絶対のような存在感を放つ。

「おまえにはまだまだ殿の手足として働いてもらわなくては。子など育てられないでしょう?」

どこかつめたく感じられる台詞は、わざとなのだろう。それは留三郎のためか、また、気高くあろうとする自身のためか。留三郎は握った拳が真っ白になるほど、体に力が入っていた。今ここで泣き出すことは許されない。失ったものと、残ったものを抱いて歩かなければいけない。奥方様が奥方様であろうとしてくれているのだから、留三郎も保たなければ。引きつった喉を叱咤して、留三郎は頭を下げた。

「よろしく、お願いいたします」
「…ええ」

ありがとう、と切ない声が淡く留三郎の耳に届いた。留三郎は何も、言えなかった。

***

子の成長は早いものであると、奥方様に何度となく言われてきたことであったが、最近はそれを身をもって体感している。まだ立つこともできなかった子が、今では無邪気な声をあげて走り回っていた。姫にしては、ややお転婆が過ぎるようだ。誰に似たのだろうか。

「あっ、そうだ!とめさぶろう!」

何かを思いついたのか思い出したのか、留三郎を見つけて駆け寄ってきた小さな体に身をかがめる。

「どうしました?」
「とめさぶろうは、ものをなおすのがじょうずだとききました」
「何か直してほしいものが?」
「はい、たけとんぼが、こわれちゃって…」
「竹とんぼですか。お安い御用です。なんなら新しいのを作っても構いませんよ」
「ええ、ほんとう!」

つぶらな瞳をきらきらとさせて見つめてくるものだから、記憶の隅で学園時代の後輩と重なって自然と破顔する。もみじのような手に握られた竹とんぼを受け取って、留三郎は「任せてください」と自身の腕を叩いて見せた。

「やくそくです!」
「約束ですね」

最近覚えたてなのか、楽しそうに小指を差し出されて留三郎も小指を絡める。もしかしたら、この手を離していた未来があったかもしれないと思うと、留三郎はただただ奥方様と殿に感謝をするしかなかった。留三郎が少し手を伸ばせば、この幸せいっぱいの頬に触れられて、殿に仕え続けることができて、彼女の願いを叶えることができる。何も捨てさせなかった奥方様に、留三郎は今後一生頭が上がらないだろう。

「留三郎さん、今度はこの子を、愛してあげてくださいね」

柔らかい彼女の声がこだまする。本当は二人で愛したかった、二人を、愛したかった。それでも彼女は死んだ。歪になりそうだったものを、奥方様が全力で救いの手を差し伸べてくれた。だから留三郎は、自分なりにめいっぱい目の前の子を愛そうと、随分と前に腹をくくっていた。


あなたと、未来 2話


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