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TopMainトワレに揺れる
「へえ、お前たちが」

海軍本部で女性の声を耳にすることは多くない。そしてこんな夜更けに、自分らが特訓を開始しようとした矢先に、その声が響いたことに殊更驚いてヘルメッポとコビーは勢いよく振り返った。
華奢な肩に掛かったコートが夜風に揺れる。その芯の強い雰囲気をした女に、ヘルメッポもコビーも呆然とした。

「あの、」
「名前だ。階級は大佐。ガープさんの部下だから、お前たちからすると先輩であり、上官だ」
「た、大佐…!」

そういえばガープが度々名前を漏らしていたような気がする人物だが、まさか女性だとは思わなかった。コビーが慌てて敬礼したのを見てヘルメッポも追って敬礼をすると、名前が意味深に口角を上げる。

「名前は?」
「コビーです!」
「ヘルメッポです!」
「よし、コビメッポ。お前たちにいいことを教えてやろう」

名前が心底愉しげに笑みを深める。初対面ながら、その笑顔が意味するところが良いものではないと本能的に分かり、ヘルメッポの顔が引きつった。

「ガープさんも、ボガードさんもしばらくここには来ない」
「えっ」
「その代わり、私がみっちりしごいてやる」
「は……」
「そこは喜ぶか、ありがとうございますだろ」
「あ、ありがとうございます!」

コビーは素直なので即座に順応してはきはきとした礼を述べたが、ヘルメッポは相変わらず上手く表情が作れないままだった。ヘルメッポには分かる。この人、性格が悪い。ガープやボガードはとんでもなく厳しいが、そこに底意地の悪さ的なものは感じない。ただバカみたいにストイックなだけだ。この人は空気を敏感に読み取る能力もあるし、それでいて人をからかってきそうなところがある。ヘルメッポには分かる!
そうヘルメッポが察知していることもお見通しなのか、名前はヘルメッポに顔を向けてにっこりと目を細めた。

「ほら、喜べ少年」
「あ……ありがとうございます…」

権力には抗えなかった。本部の大佐なんて階級の人に噛みつけるだけの勇気は今のヘルメッポにはない。形だけをなぞるように感謝の言葉を口にすると、名前が満足そうに頷いた。

「よーし、お前らが立派な海兵になれるように私がたっくさんかわいがってやるからな!」
「お願いします!」
「いい返事!」

女だから大したことないだろう、なんてバカげたこと少し前なら思っていたらだろう。今なら分かる。そんな侮りが命取りであると。目の前の名前はきっと、ガープらと同じくヘルメッポが想像もつかないほどの実力者だ。そんな人が雑用に過ぎない自分らに稽古をつけてくれると言っている。そのありがたさと重要さが分かるようになってしまったヘルメッポは、頭を下げる以外に選択肢がなかった。
「お願いします」とヘルメッポがコビーと並んで頭を下げると、女性らしい柔らかさを帯びた声で「うん、よろしく」と降ってきた。…やっぱりこの人、苦手だ。ヘルメッポは直感的にそう思ったのであった。

***

名前の指導は、正直言うと予想を超えて糧になるものであった。ボガードも手合わせ最中に指導やアドバイスはしてくれる人であったが、名前の指導はよく身に染みるのだ。どうしてこちらがそう動いたのか、までお見通しに指摘し「だから私に一本取られるんだよ」と結論付けるそれは、思った以上にヘルメッポ達の成長に役立った。
正直、思考や癖まで見抜かれるのは痛いところを突かれているのと同様である為、精神的にこなくもないのだが、事実は受け止めるしかない。ついでにいうと、名前の目の細やかさは普段の雑用業務にまで及び、この前は通りかかった名前がヘルメッポの肩を後ろから叩き「バレないと思ったな?」と笑顔で言うので、ヘルメッポはもう上手くサボることを諦めた。

ボガードに一方的にボコボコにされている方がまだよかった、しかしためになる、悔しい。悶々とした思考で昼食のカレーにがっつくと、向かいのコビーが「名前さんって、」と口にした。

「凄い人ですよね」
「……じゃなきゃ大佐にはなれんだろ」
「ですよね…、ぼくももっと頑張らないと…」

コビーがこれ以上に無いほど頑張っているのは、誰よりもヘルメッポが知っている。まだまだ謙虚になるつもりか、とヘルメッポは正直呆れ…のようなよく分からない感情が湧き上がった。何故か胸に靄がかかって晴れない。嫉妬、焦燥、僻み、感情を分解すると情けない気持ちが溢れてくるようで、ヘルメッポは唇を噛む。
自分だって、頑張っている。これ以上にどうすればよいのか。コビーに八つ当たりをするようなことは絶対にしたくなくて、ヘルメッポは昼食をかき込んで早々に離席した。

その夜の特訓、コビーとヘルメッポはいつも通り集合していつも通りのメニューをこなしていたが、基礎トレが終わって少ししたところで、名前がう〜んと唸った。

「…コビー。今日はもういい」
「えっ?」
「お前はちょっと頑張りすぎだな。戻って休め。勉強も今日は禁止」
「で、でもぼく…!」
「そんなに詰め込むな。休まないと育つもんも育たないぞ。これは命令だ。分かったな?」
「…はい」

名前の指示が意地悪でも何でもないことが分かったのか、コビーは逆らうことなく素直に頷いた。コビー、と名指しをしたのだから、勿論ヘルメッポは違うわけで。

「メッポはまだ残ってもらうぞ」
「……はい」

自分はコビーより出来ないから、そう言われているようで、だが事実なことに変わりはなく、重たい頭を動かして頷く。コビーが宿舎に戻っていくのを見送ってから、名前との特訓は再開した。
いつものように行動が先読みされているかのような動きをされて、攻撃の当たらなさに歯がゆさが降り積もっていく。どうして、届かないのだろう。そのまま背中が見えなくなってしまいそうだ。張り詰めていた気が緩んでしまったのか、ヘルメッポの足元がぐらりと揺れる。

「集中」
「いでっっ」

バチン、と頭を思い切り竹刀で叩かれて、目の前に星が飛ぶ。しかし攻撃が続くことはなく、動きを止めた名前が呆れたようにため息をついた。

「って言っても、お前もその調子じゃ今日は無理だな」
「……」
「てなわけで、スペシャルメニュー」
「は!?中止じゃないのかよ!」
「走るぞー」

強引に腕を引っ張られて、遅れて体がついていく。言葉通り走り始めた名前に置いて行かれないようにヘルメッポも後を追いかけた。
走るといっても全速力ではなく、軽いジョギングのような速さでしばらく海沿いを走った。自分を追い込むような走りではないそれに、夜風と海のさざめきも相まって気分が落ち着いていく。目の前を走る名前の揺れる髪を見て、ヘルメッポはぼんやりとこんな人に追いつく日が来るのだろうかと思いを馳せる。いつの間にか、この遠い背中がコビーに変わってしまいそうで、ヘルメッポはまたどうしようもない気持ちが溢れた。

「気分転換にはちょうどいいだろう」
「……そう、すね」

軽やかな名前の声が響く。やっぱりヘルメッポの心の揺れもこの人にはお見通しらしい。まったく情けなくなるからやめてほしいものだ。しばらく走り続けた後、随分と特訓場から離れた砂浜で名前は止まった。呼吸を軽く落ち着けてから名前は砂浜に座り、ヘルメッポにも促す。特に反抗する理由もないのでヘルメッポが大人しく腰を降ろすと、名前が前触れもなく「友達なんだろう」とヘルメッポに問いかけた。コビーのことであると、すぐに分かった。

「…友達です」
「隣に立ってたいんだろ」
「……はい」
「なら、頑張る他に道はないぞ」
「…わがっでまず…!」
「頑張れ。メッポは強くなるよ」

名前の言葉は多くなかった。しかし、ヘルメッポの箍を外すには的確過ぎた。悔しさも、妬みも、寂しさも、全て海に攫ってもらえるように。そして、最後に覚悟だけが残るように泣いた。

「男の涙は許さない主義なんだが、まあ今日は見なかったということで」

茶化すわけでもない、いつも通りの声音でそう言うと、名前の腕がヘルメッポの首に回った。力強く引き寄せられて、名前の体温と、香水か何かの匂いを感じた。香水とかつけるんだなこの人、とどこか不思議な気持ちになりながら、名前の腕に涙やら鼻水やらを落とす。ヘルメッポは気にしたが、名前は全く気にしていないようだった。

「メッポがもし将校クラスになって、それを祝う場があったとしよう」
「…?、はい」
「今日のこと、バラしてやるから覚悟しとけよ」
「!?ば、ば、バラすなよ!!」
「いーや絶対バラす。あー、その日が楽しみだ」
「あんたなァ!!」

からからと笑う名前に、すっかり涙が引っ込んだヘルメッポは間抜けな顔で名前に噛みついた。
もう胸中に、さして迷いは残っていなかった。


トワレに揺れる 前日談


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