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TopMainトワレに揺れる
肉が斬られる音と、名前がそいつを仕留めたのとは同時だった。数秒、呆然としてしまって。後ろからでも分かる滲み始めた血に、嫌な感触が全身に走った。ぐらり、と細い体が揺れて片膝をついた名前に急いで駆け寄ると、ヘルメッポを見た名前はなんだか苦い顔をする。そして血色のない唇で「悪い、」と呟くと、そのまま意識を飛ばした。


つんと薬の匂いが鼻につく、この部屋に入るのはあまり好きではない。大概、この部屋にいるときは悔しい思いを噛み締めている時だから。ヘルメッポがこつこつと入っていくと、それに気づいたドクターが名前を一瞥する。

「さっきまでは起きてたよ」
「飯ちゃんと食いました?」
「食べてたよ。これでもかってほどな」

ヘルメッポが名前が寝ているベッドの近くに腰を降ろすと、入れ替わるようにドクターが立ち上がる。ヘルメッポに「ちゃんと見張っておいてくれよ」と言い残すと、ドクターは何か用事があるのか医務室を出ていった。

「…見張っておいてくれって…、あんたまた抜け出そうとしたんです?」
「……」
「ガープ中将呼んできましょうか?」
「やめろやめろ!」

勢いよくベッドから跳ね起きた名前を呆れた眼差しで見つめていると、名前はバツが悪そうに目線を逸らす。どうせ狸寝入りだとは分かっていたが、名前は悪戯がバレた時の子供のような顔をした。こうしているのを見ると、お互いにあまり顔を合わせたくなかったのだとよく分かる。
原因は勿論自分にあって、記憶を辿ればあまりにも情けなくなった。名前を真っすぐに見ることができず視線を下に落とすと、当然のように重い沈黙が流れる。

「泣くなよメッポ〜…」
「……泣いてません」

沈黙に耐えかねた名前が心底参ったように声をかけてきたが、ヘルメッポに元気に返すだけの余裕はない。まだ泣いてすっきりできるほうが気が楽だっただろうにな、と自嘲の気持ちが湧いてきたが、そもそも自分に泣く資格なんてものはないのだ。
目を閉じれば火薬の匂いと鈍い音が生々しく思い起こされて、ヘルメッポの口から重苦しいため息が零れた。下手したら死んでいたかも、そう思うだけで自分を力いっぱい殴りたい気持ちになる。

「私がいい格好しきれなかっただけの話じゃないか。恥ずかしくて私が泣きたい気分だよ」
「おれのヘマでこうなったのは事実です」

ヘルメッポの硬い声音に名前は小さく息をつくと、ヘルメッポの頭をわしっと掴んだ。そしていつものように雑に撫でると、眉を下げて優しくヘルメッポを見つめる。

「守らせてくれよ。こんなんでも一応お前たちの上官なんだから」

ヘルメッポの頭を撫でていた手にそのまま力強く引き寄せられて、名前の肩口に押し付けられる。うすく甘い、花のような匂いに包まれて、ヘルメッポは激情が喉までせぐり上がってくるのを感じた。
この人は傍若無人で、溌溂として、引くくらい強くて、自分らのことも容赦なく叩きのめしてくるのに。それなのに、この人の首筋からはいつも柔らかで女性らしい香りがするのが、昔から苦手だった。

「…男のプライドってもんもあります」
「なんだ、案外男前だなメッポ」

からからと笑い飛ばされて、徐々に気持ちが軽くなっていくのを感じる。計算ずくでやっているのか、そうではないのか。いつも微妙にわからせてくれない名前に、ヘルメッポはやっぱり敵わないのだと思い知らされる。
結局慰めてもらっている自分が恥ずかしくなってきてヘルメッポが顔をあげようとすると、唐突に前かがみになる名前。何をしようとしているのか理解する前に、額に柔らかなものが触れた。音を立てて離れていくそれの正体に気づいて弾かれたようにヘルメッポが距離をとると、名前はいつもの意地悪で勝気な表情を浮かべていた。

「強くなれよ」
「〜っ、言われなくてもなるわ!!」

ガタン、と椅子が転げるほどオーバーに立ち上がったヘルメッポに、名前は心底楽しそうに笑った。

***

「快調のようで、よかったですね」

船首の方で遠くを眺めながらはしゃいでいる名前の姿に、コビーが爽やかな笑顔をヘルメッポに向ける。ヘルメッポは元気すぎるだろ、とぼやきながら、ドクターの「あいつの回復力は獣並みだよ。心配するな」という言葉を思い出していた。まさしく、獣並みだあれは。

「情けなくなってた自分がちょっとアホらしくなるっつの」
「でもヘルメッポさん、今日の朝も訓練室にこもりきりでしたよね」

あの経緯を経て、躍起にならないわけがなく。ここ最近珍しく自己鍛錬が激しめのヘルメッポを、コビーは見逃していなかったらしい。自己鍛錬の鬼であるコビーに指摘されると若干気恥ずかしいものがあり、ヘルメッポはつい曖昧に言葉を濁してしまう。

「…頑張らなきゃですね、僕も。憧れに追いつけるように」
「憧れ?…待て、おれがあの人に憧れてるって言いたいのか?」
「違いましたか?」

ぱちぱちと目を瞬かせるコビーに、面食らう。ヘルメッポはずっとコビーにそう思われていたなんて考えもしなくて、開いた口が塞がらない。そう見えるような素振りをずっと自分はしていたというのだろうか。

「勿論、僕も先輩の一人として名前さんのことは尊敬していますが、ヘルメッポさんはそれ以上の何か…、名前さんの強いパワーみたいのに惹かれているのだと思っていました」
「おれがか……」
「はい。だってヘルメッポさん、いつも名前さんのこと特別な眼差しで見ているから」

第三者に言葉にされると、何とも言い難い納得感、のようなものがあって。しかし予期していなかった感情に困惑はとめどなく溢れた。憧れ、あの人に、そうか。
船首にいる名前を見ると、太陽のもと正義のコートを無邪気に揺らしていた。まあ、確かにそうなのかもな、と飲み込んでしまえば笑いすら零れる。性差に囚われることなく、自由で、強かで、しかし女性らしいその姿に、抱えきれないほどの羨望が、視線を落とせばすぐ手元にあった。

「…手強ェな、ほんと」
「はい。でもきっと、手強いから憧れなんですよね」

そう言うコビーの横顔は、誰を思い浮かべているか想像に易い。確かに、あれは手強い以外の何物でもないだろう。

「じゃあなんだ、手合わせでもするか」
「お付き合いします」

結果、行きつくところはそこで。ヘルメッポの誘いに、コビーは当たり前のように頷いて隣に並んだ。すると、手合わせという単語だけ遠くから拾ったのか、稽古の匂いを察知したのか。どちらかは知らないが、名前がいつの間にかニコニコ顔で後ろに立っていて、コビーと共に力強く肩を掴まれる。

「私も混ぜてくれるな?」
「勘弁してくれ…」
「名前さんのお時間があるならぜひ!」
「よーし、よく言ったコビー。今夜は帰さないぞ」

楽し気な名前に半ば引きずられるようにして訓練室に放り込まれたが、少しでもこの人の足元に近づけるならば、きっと自分は満更でもないのだろう。ヘルメッポが隣に並ぶ日が来たとき、名前は何て言うのだろうか。それを期待する自分もいれば、ずっとこの人の背中を追っていたいような気もして。ああ確かにこれは憧れだと、改めて納得するのだった。


トワレに揺れる 5話


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