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TopMain敬愛の果て
パキパキと、空気中の水分が氷結していく音。そのひやりとした空気を感じるとき、氷に包まれて下がる体温を忘れてしまうほど、どうしようもない昂りをいつも持て余すのだ。

「……久しぶりじゃねェの、名前」
「…はい、お久しぶりです。クザンさん」

プライベートでしか呼ばなかった敬称は口に出すと物凄く久しぶりのような気がして、曖昧な心地に現実なのかどうか疑いたくなってくる。クザンさんが今しがた凍らせたばかりの男を容赦なく砕き、私はその転がった破片がコツンと自身のつま先に当たるさまをぼんやり眺めていた。

「油断?」
「…というよりは、体調管理の甘さ…ですかね」

普段は何でもないように取り繕える声が、どうにも震えてしまって、視界もぐらぐらと揺れる。そんな私の様子に気が付いたクザンさんは、膝を折って私の額に掌を這わせた。

「あらら…、なんで休まないのよ」
「人手不足なものでして…」
「耳が痛いわ」

何も、変わらない声音。不意に懐かしさや嬉しさ、悔しさに愛おしさ。色んなものがこみあげて、私は押し寄せてきた処理の多さに、そのまま意識をぶつんと飛ばした。


クザンさんが敗北すると思っていたわけではない。だが、勝利を信じていたわけでもない。どちらが勝っても負けてもおかしくない決闘だった。だからこそ、重苦しい不安がずっと私の腹の底に渦巻いて仕方なかった。
クザンさんが作り上げる海軍が見たい、という気持ちも確かにあった。だから、行かないでくださいなんて、今までのクザンさんを見てきた海兵としての私はこれっぽっちも抱いていない感情だったのに。それでもどこかその台詞が脳内を掠めるのは、海兵でも何でもない、クザンさんを慕うただの女としての私が叫んでいたのだろうか。

長い長い闘いを終えて、クザンさんが片足を失った姿を見たとき、私はみっともなく泣き崩れてしまった。自分が最強だと信じていたものが崩れてしまったような気がしたから?クザンさんが負けたという事実を受け入れられないから?それとも、想いを寄せた人の傷ついた姿がショックだったから?
どうしてあの時涙をこぼしてしまったのか、今考えても分からない。ただ、大きな喪失感を胸に抱いていた。

見送りは静かなものだった。一緒に来ないかとか、海軍に残るつもりかとか、そういったことは一切訊かれなかった。私が海軍を辞めないことは、誰よりもクザンさんが分かっていたからなのだろう。ただひとこと、「死ぬなよ」と言って、クザンさんは海軍を去った。
引き止めたい気持ちは欠片もなかった。追いかけたい気持ちも、なかった。本当だ。私は私のために、もう後悔しないために海兵になった。でも、ずっと、ずっと……あの時の背中が忘れられないでいる。


うっすらと聞こえた物音に目を開ける。見慣れない天井と、清潔感のあるシーツの匂い。身じろぎをすると、柔らかい枕が頬を包んだ。

「起きた?」
「くざん…、さん」
「とりあえず水だな」

からからと氷がグラスとぶつかる音がしたと思えば、クザンさんが水の入ったグラスを持ってベッドの横にしゃがみこむ。飲める?と差し出されたそれを、僅かに残った理性で飲ませてもらうわけにはと思った私は重たい腕を伸ばしてグラスを受け取った。
縁にかさついた唇を這わせて、冷えた水を体内に少しずつ流し込む。そうして段々とはっきりしてきた意識に、私は目の前のクザンさんがようやく夢の類ではないこと理解した。

「すみません…ご迷惑を、かけて」
「起きて早々反省しなーい。病人なんだから何も考えず寝ときなさいよ」

するりとクザンさんの大きな手がまた額にあてられて、その冷たい感触に目を閉じる。「ちょっと下がったな」という声を聞きながら、海軍時代だってこんな面倒見られたことはなかった気がすると、不思議な気持ちになった。
クザンさんの現状について気になることがないと言えば嘘になるが、今も何も変わらずクザンさんでいてくれるだけで、そんなクザンさんがこの瞬間私の傍にいてくれているという事実だけで、十分だった。涙が出てしまいそうになるくらい。本当にこの人は、昔から何も変わらない。

「お元気そうで、何よりです」
「そーね、今のお前に言われると重みが違うわ」
「…ほんとうに…よかったです」

噛みしめるように呟いてしまった私に、クザンさんはほのかに困ったような笑みを浮かべて「心配した?」と私の顔を覗き込む。

「不思議と、心配はしてなかった気がします…」
「そ。おれはちょっとだけしてた」
「……私のことを、でしょうか」
「今の流れでお前以外にいる?まァ、あとスモーカーのバカも…いいわこの話は」

自分で口にしたわりには鬱陶しそうに手をぱたぱたと払うクザンさんの心情は察するに易い。スモーカー中将のことは、言わずもがな気にかけてしまう理由は理解していた。この人はなんだかんだ言って面倒見がいい。

「心配しないでくださいと言いたいところですが、今の状況では何の説得力もありませんね」
「そうねェ。ま、無茶しないこった」

ぽんぽんと布団を軽く叩かれただけなのにも関わらず、肩の荷が下りていくような感覚。やっぱりこの人の言葉は、いつまで経っても私に大して絶大な効果を放つのだ。今もなお精神的に助けられてしまっている状況がなんだか情けなくて、思わずシーツに鼻先まで顔を埋める。

「すみません、未だに助けてもらうばかりの不肖な元部下で」
「…別に?もう上官でも何でもねェし」
「それでも、過去の縁で助けてもらっているのは事実です」
「まーそれもあるが…ただ、大事にしてェもんだったから助けたんだけどな」

不意に、いつだかに聞いた台詞を思い出す。海軍に大事にしたいものがあると、そう言っていた彼の台詞を。それは軍人の彼の言葉というより、クザンさん自身の言葉。
私、なのか。ちらとクザンさんに視線を向ければ、触れたことのない柔らかな雰囲気を纏っていて息を呑む。決して、軍人のクザンさんから感じたことがなかったそれに、私はいよいよ耳まで熱が回るのを感じた。
勿論クザンさんのリップサービスな場合も大いにありうる。私だけではなく、自分の部下だった人たちという広義な意味の場合もある。なんて、いくら言い訳をつけても、跳ねるように心が踊ってしまっているのは事実で。

「……情報漏洩はしませんからね…」
「いや、期待してないから」

うっかり口が軽くなってしまいそうな自分を叱咤する意味を込めて呟けば、クザンさんがくつくつと笑った。情報漏洩はしないけれども、クザンさんが風邪でダウンしたときは仕事を休んで駆け付けよう、絶対そうしよう、と心に決めて私はシーツに潜った。…クザンさん、風邪引くことがあるのか知らないけれども。


敬愛の果て (2/2)


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