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再会に前触れなどなく。戦前の自己鍛錬中、「あら、幸村殿」と降り注いだ声に幸村の胸の底から何かがせぐり上がった。

「名前殿…!」
「ご無沙汰ね。また会えてとっても光栄」

振り向いたそこには、想像よりずっと柔和な笑みが湛えられていて、幸村は激しく動揺した。
幸村と名前の関係など、この前話した程度であるから精々友人の友人どまり、そう考えていた。もしもう一度会うことがあっても嬉しいのは自分だけで、名前はさっぱりした対応をするに違いないと。
だのに、名前から溢れ出る態度はひどく好意的で、幸村は視界がチカチカと点滅するような錯覚を受けながら必死に返事をした。

「私も…光栄でございます。此度の戦、名前殿も参陣されていたのですね」
「ええ、金払いが良かったものだから」
「なるほど」

今は農繁期で足軽が集まりにくい。それでも、今回の戦に人を集めたかった秀吉はその分日当を高く設定したのだろう。人を扱うことに長けている秀吉らしい処置だ。
流浪の身である名前が、そういった戦に引き寄せられるのは当然のことと言える。幸村は秀吉や三成への義理で参陣していたため、また出会えたのはただの偶然だった。が、幸村はその偶然に強く感謝した。

「幸村殿はどの辺に布陣するの?」
「山の麓の方に」
「あら、近い。勇猛果敢な幸村殿と戦場でご一緒出来るなんて私はツイてるのね」
「そんな…、私の方こそ名前殿の勇士を近くで拝見できること、幸甚に存じます」
「…前から思ってたけど、幸村殿って私のこと褒めすぎじゃない…?あ、もしかして誰にでもそうなのかしら」

軽い口調の名前が、湿り気のない笑みを浮かべながら首を傾げる。おどけた様子も混ざった言葉尻に、幸村も面白おかしく返すことができたならよかったのだが、つい真面目に首を横に振ってしまう。「そんなことは、」と口にしながら、それ以上繕いの言葉が出てこない自分に幸村は嫌気がさした。
だが、冗談やお世辞の類で言ってないことはよく伝わったのか、名前は空白を紡ぐ幸村をやんわりと止めて申し訳なさそうに目を伏せる。

「意地悪になっちゃったみたいね、ごめんなさい」

そこでようやく、幸村は肺いっぱいに空気を吸い込んだ。無意識のうちに呼吸を止めていたようだ。すると、せき止められていたものが流れていくように、幸村の口からするすると言葉が滑り落ちていく。

「す、全て私の本音でございます…。嫌味のように聞こえていたのなら申し訳ありません」
「……じゃあ、幸村殿って私を買ってくれてるのね」

確かめるような、どこか信じられないと言いただけな名前の声音に、幸村は真摯に頷いた。すると、名前はじわじわと波紋が広がるかのように表情を変えて、やがてふんわりと笑った。

「嬉しい、ありがとう」

頭のてっぺんからつま先まで、血が巡っていくのを感じる。顔が、熱い。手で扇ぎたくなるのを堪えて、幸村は顔を背けながら「いえ…、」とまた曖昧な返事をした。
立ち話も長くなっていることに気が付いたのか、名前はふと周りを見渡してから「そろそろ行くわね」と踵を返す。お互いに、また後で、と頭を下げてから、見えなくなった名前の背中に息をついた。

「ふーん…」
「こら佐助、余計なこと言わない」
「まだ言ってねぇし」
「これから言うつもりだったでしょうが」

いつの間にか背後に立っていた自身の忍びに、幸村は不覚にもハッとした。常に傍に控えていることは誰よりも自分が分かっていたというのに。それほど名前に意識が引っ張られていたということだ。我ながら恥ずかしい。
平静を装い、幸村が振り返るとくのいちは慌てた様子でぱたぱたと手を振った。

「幸村様、あたしたち別になーんにも口出さないんで!お気になさらず!」
「…いや、むしろ私が変な振る舞いをしていたら言ってほしい。名前殿の前だと、よく…分からなくなるのだ」

幸村が素直にそう零すと、何故かくのいちが照れ臭そうに頭を掻いた。その横では佐助がため息一つ吐いて小石を蹴る。思わず蹴られた小石を幸村が視線で追うと、くのいちが間髪入れずに佐助の横腹を突いた。

「拗ねてるんですよ、こいつ」
「拗ねる?」
「そんなんじゃねぇって」

鬱陶しげにくのいちの手を振り払ってそっぽ向く佐助。幸村は佐助が何に対して拗ねているのかいまいち分かりかねたが、もしや一人の女性にここまで振り回されているのが情けないと思われているのではないか。幸村はこういったことが得意なわけではないので、なお滑稽で見ていられないと思われているのかもしれない。幸村は肩を落とした。

「情けない主ですまない…」
「はあ!?どこをどうとってそんな話になったんだよ!」
「恋をしたらみんな格好つけてなんていられなくなりますから〜。そんなに恥じることありませんって」
「なんか話ズレてると思うんだけど?」

最終的には、何故だか忍び二人に叱咤激励を貰うはめになった。次会うときは屋敷に招けだの食事に誘えだの言われ、頭の許容量を超えながらも幸村は「分かった」と承知してみせた。本当に誘えるだけの意気地があるとは言い切れなかったが、そうでもしないと解放されない雰囲気だったので幸村は空気を読んだのである。

***

退き貝が響き渡る。ぞろぞろと退いていく兵たちを見渡しながら、自身の部下たちに大きな被害がないことを確認した幸村は細く息を吐いた。

その日の評定も終え、後は体を休めるだけだったが、戦場で昂った心を冷ますために夜風を浴びる習慣が幸村はあった。松明の火が照らしきれない暗闇をぼんやりと見つめながら、夜風を切って陣中を歩いていると、不意に違和感が走る。
長年戦いに身を置いていれば、色んな感覚が鋭敏になっていく。研ぎ澄まされたそれが違和感を拾ったことを放っておけず、幸村は走り出した。そして、どこからか女の悲鳴らしき声を聞いた。

音のしたほうにすぐさま駆けていくと、名前がいた。荒くれた男たちに組み敷かれる名前が。
その光景を見た途端、目尻から脳天にかけて燃え上がるような熱さが走った。

「何をしている!」
「ぅわっ!」

幸村の覇気を纏った声に、男たちはひっくり返った。多分、明王のような顔をしていたのだと思う。戦場での相手に向けるのと同じか、それ以上かの殺気を放ってしまった自覚はあった。男たちは幸村の顔を見るなり、ひいと小さく悲鳴を上げて転がるように逃げ去った。
未だ呆然としている名前に駆け寄って、幸村は努めて怖がらせないように声をかける。

「大丈夫でしたか…!?お怪我は!」
「だ…い、じょうぶ…。おどろいた、まさか幸村殿が来てくれるとは…」

はだけた着物を手繰り寄せてから、名前は乱れた髪を震える手で何度も撫でつけた。その自身を落ち着かせるような仕草に、ひどく傷ついているのだと推し量るまでもなく分かる。掛けてやれるものを何も持ってないことを悔やみながら、幸村はそっと名前の傍にしゃがみこんだ。

「よろしければお手を」
「…ありがとう、」

掠れた声で名前は礼を告げ、幸村の手を取る。ふらつく体を支えながら、幸村は名前の顔を覗き込んだ。

「あの、落ち着くまで私の陣の方へ来てはいかがでしょうか。女手も少々ですがおります」
「……お言葉に甘えても、いい?」
「勿論です」

名前を連れて戻ると、くのいちが驚いた顔で出迎える。短く事情を告げ羽織るものを頼むと、くのいちは全てを察して素早く動いてくれた。くのいちの部下は女性が多いため、あとは彼女らに任せて幸村は去ろうとしたのだが、驚くことに名前に引き止められた。力なく俯く名前を置いて行くことなどできるはずもない幸村は、そっと名前の傍に腰を下ろした。

「ごめんなさい、迷惑をかけてしまって…」
「いえ、迷惑など…!乱暴を働く者を許せないのは当然のことです」
「はは…、幸村殿って本当にお優しい」

欲を発散させたいのなら、それ目的に商売に来ている遊女を買えばいい。正しい考えではあったが、遊女を買うだけの金もない低級武士たちが手近な女を無理矢理に組み敷くのは合戦の最中であれば日常的に行われていることで、許せないことであった。

「……今までも、このような…」

この前の名前の話を聞く限り、どこに属しているわけでもない名前は基本的に一人だ。そういった風に狙われることも多いのではと思い、幸村は苦々しく口にした。

「なかったわけではない…かな。慶次が一緒のときは比較的平気だったけど」

慶次はきっと起きうることを考慮して名前の傍にいたのだろう。そうなると気が回らなかった自分が余計許せなく、また身勝手な者たちにも腹が立って奥歯がみしりと音を立てる。
何と言葉をかけたらいいか分からず、手も握れず、幸村はただ震える唇を見つめるしかなかった。
やがて、俯いていた名前が、ぽたりと雫を落として地面の色を変えた。

「毎回毎回嫌になっちゃうけど、でも…私ここにしか居場所がないから」

故郷を飛び出た身だと言っていた。閉鎖した空間で考え方が煮詰まった小さな村には居場所がなかったのだと。誰にも縛られることのない、自由に駆け回ることのできる戦場に出て初めて息が出来たと。

「女じゃなければ、もう少し生きやすかったのかもね…。どこかの家に仕えて、実力も評価されて、身勝手に消費されることも、なくて…っ」

瑞々しく、軽やかに話す名前の声が、痛ましく揺らいでいること。幸村はどうしても許せなかった。
幸村があの時目を奪われたのは、伸びやかに華麗に逞しく戦う名前本来の姿だ。それが、他者によって、世間によって酷く手折られようとしている。じっとしていられなかった。

「──真田家に、来ませんか」

気づけば力強く訴えかけていた。自分が根となり、彼女を支えることができるのなら、そうありたい。
はらりと顔を上げた名前は、驚きに満ちた目で幸村を見つめる。幸村は逸らすことなく名前を真っ直ぐ見つめ返した。

「私は…これからも、あなたのままであってほしいのです。目を奪われるほど強かに、鮮やかに戦場を駆ける名前殿のままで」
「ゆきむら殿…」
「だから、私を利用していただけないでしょうか」

名前はゆっくりと幸村の言葉を飲み込んで、溢れる涙を堪えながら脆く、破顔した。

「私のままであってほしい、なんて。初めていわれた」

ぽろぽろと溢れる雫が伝い、落ちていく。

「ありがとう、幸村殿…っ」

ありがとう、と繰り返し紡がれ、幸村は思わず名前の肩を抱きそうになった。しかし寸前のところで堪えて、そっと背を撫でる。
震える背中に、この人を守りたいと。指先まで痺れるほど強く思った瞬間だった。


名前は真田家の人間となった。武人として。
最初、昌幸は幸村が妻にしたい女性を連れてきたのかと思ったのだが、そうではなかったこと、そして後ろにいたくのいちと佐助がげんなりした顔をしていたことから昌幸は端々の事情まで察した。
信之は義妹が出来るのかとはしゃいだのだが、幸村が本当にいつまでたっても踏み切らないものだから、あの温厚な信之が詰め寄ったとか、そうではないとか。

そこから幸村と名前が収まるところに収まるまで、途轍もなく時間がかかったらしいが、終わりよければすべてよし、とくのいちは語った。それにしても遅すぎだけどな、と隣の佐助がぼやいた。


根となり花となり (2/2)


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