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TopMain徒花のゆくえ
びち、と生温かいものが頬に跳ねた。私にちょっかいを出そうとした男の指は地面に落ち、男は情けない声をあげながら転がるようにして逃げていく。その哀れな背を見送ってから、私は自分に濃く差した影を見上げた。

「名前!」

最初に私に声をかけたのは永倉さんで、駆け寄ってきて甲斐甲斐しく懐から取り出した手拭いを私の頬に当てる。普段の口煩い様子から一変、心配性の方が顔を覗かせているみたいで、頬を拭う手つきはいやに優しかった。

「大丈夫だったか、名前」

低く芯のある声が路地裏に響く。後ろから光を浴びて白い髪を靡かせる土方さんは、私を猫のように可愛がる時より雰囲気が張り詰めていて、覇気があって、それが尚かっこよかった。

大丈夫です、とはっきり言えばよかったんだろうけど、なんだか立て続けに色々と起こって疲れてしまっていた私はこくりと頷くだけに留める。それが元気がない、と取られてしまったのか永倉さんは相変わらず私に優しいままだ。
ゆっくりと土方さんに腕を引かれたのでそのまま大人しく着いていく。何かと騒がしい私が従順なものだから、自分でも珍しい空気感だと思った。

路地を出ると強い日差しが私を貫くので、先程までの血なまぐさい光景が嘘みたいに思えてくる。だが、実際は白昼夢でも何でもなく本当に起こったことで、それを示すように私の着物の袂は一部赤黒く染まっていた。

「汚れてしまったな」

ちら、と私の着物を一瞥した土方さんが、味噌汁が跳ねて汚れた、くらいの軽さで言う。

「新しいのを買ってやろう」

いつも私の機嫌をとる時と同じ声音で、土方さんは袂をすりと撫でた。それが本当に普段のご機嫌取りと変わらない調子なものだから、可笑しかった。

「物騒ですね」

私にとっては先程の光景は非日常だ。土方さん達が血なまぐさいところに身を置いているのは知っていたけれど、常に留守番をしている私はそこに立ち会っていない。だから土方さんが人を斬るところも初めて見たし、返り血を浴びたのも初めてだ。
それなのに土方さんは何も変わらず済ませている。きっと本当に土方さんにとっては些細で、あんなチンピラの指を斬ったことなんて寝れば忘れてしまう事なのだろう。その“ずれ”が可笑しいのだ。
土方さんは、私の様子をどこまでお見通しなのか分からないけれど、ふ、と小さく笑って目を細めた。

「…怖かったか?」
「それが不思議なくらいなんとも」
「そうか」

チンピラに路地裏に引きずり込まれて刃を向けられたのは怖かった。土方さん達が来るまで体も震えていた。けれど、チンピラを斬って捨てた土方さんは、怖くもなんともなかった。

「女はこういう時に強い」

だから敵わない、とでも言いたげなそれに、土方さんの記憶の中にいるであろう数多の女性達に一瞬思いを馳せたけど、詮無きことなのでやめる。色男の過去に嫉妬するのは労力の無駄でしかない。私は掴んでいた土方さんの腕をそのまま下に伝って手を繋ぎ、しなだれかかった。

「明るい色のかわいいやつ、欲しいです」

機を逃さず着物をしっかりねだった私に、土方さんはくすくすと笑うと繋がってる手の中で指を絡めた。

「選ぶのが楽しみだな」

後ろから永倉さんの「また甘やかして…」と、呆れたような声が聞こえたけど、無視無視。もらえるものは病気以外もらっておいたらいいのだ。


根城に帰ると、まず牛山さんが私の様子を見て目を見開いた。

「怪我したのか名前嬢」
「ううん、返り血」

私の口から物騒な単語が飛び出たことに、牛山さんは問い詰めるように土方さん達を見やった。

「私達からふらっとはぐれた隙によからぬ輩に絡まれたんだ。勝手に離れるからこういうことになるんだぞ、分かったか名前」
「はあい。今度からはじいじ達のおてて離しませ〜ん」
「反省してないだろう!」

私が元気になったと判断したらしい永倉さんはすっかり口煩い状態に戻っており、止まらないお小言を聞き流してばたばたと二階に上がっていく。
私の着物を汚した血はすっかり乾いていて、月のもので血が着いた衣類がどれだけ洗うのが大変か身に染みている私は、お気に入りだった小袖をしょんぼりしながら畳んで端によせた。あとでこの着物は開いて汚れたところだけを切ろう。残った布地で何か新しいものを繕うことくらいはできるだろう。

清潔な着物に着替えてから一階へ降りると、またどこで獲ったのだか分からない尾形の置き土産が台所の床に転がっていた。捌くの大変だからあんまり調理したくないんだけど、と文句を言っているのにも関わらず、嫌がらせのように毎度獲ってくるのだ。絶対今夜しいたけ入れてやる。
私がぷりぷりしながら襷をして台所に立つと、カノさんが「手伝いますよ」と並んでくれた。カノさんが来てからは、台所での労働力が二倍になったので本当に助かっている。鳥を捌くのも上手だし。生き物を解体するのは得意なんです、って笑ってたけど、深くは突っ込まなかった私、賢明だと思う。たまに忘れるけど凶悪犯の集いなんだよなここ。

「襲われたって言ってたけど、ジジイ達が来なかったらやばかったんじゃないのか。気をつけろよ名前嬢」
「さすがに私もちょっとは反省してますよ。そんなに治安が悪いとは思わなかったんです」

暇そうにしていた牛山さんにも野菜の皮むきをお願いして、大きな手が細かい作業を行うのを面白い気持ちになりながら見つめる。牛山さんはこれでもこの集いの中でなら良心に入るほうなので、牛山さんの心配は素直に受けた。

「それにしても…流血沙汰を目の前にしてはけろっとしてるな。肝が据わってる」
「…どうでしょう、盲目なだけかも」
「?どういう意味だ」

不思議そうにする牛山さんに「土方さんが鬼でもかっこいいって話です」とふざけると「事実、鬼の副長だった男だぞ」と返ってくるので笑ってしまった。そういえばそうだった。とはいっても私はその時代生まれてすらいないのでどこか御伽噺のようなものだが。

夕飯の支度を済ませて火鉢にあたりに行くと、土方さんがいつものように窓際の椅子で新聞を読んでいた。意味もなくじっとその姿を見つめていると、視線に気づいた土方さんが手招きをする。呼ばれるがまま近くに行くと、新聞片手に頭を撫でられた。うーん、まんま猫の愛で方である。
でも私は土方さんにとって猫だってなんだっていいので、そのまま手のひらにすり寄ると顔の輪郭を辿って顎裏も撫でられた。さすがにそこは猫同様気持ちいいわけではないのでくすぐったさに身をよじると、またくすりと笑われる。

「こわくなかったですよ」

頬を撫でる土方さんの手を両手で包み込む。皺だらけの硬い手に、甘く心が焦げていく感触がする。

「この手が、何をしても不思議なくらいこわくないんです」

私が焦がれているこの手は、刀を握り数多の人を殺める手だ。それがたとえ私だとしても、土方さんにならって思うのは、もうきっと惚れた腫れたの範疇に収まるものではないのだろう。
するりと、土方さんの親指が私の目元をなぞり、長い指が耳の縁をくすぐった。

「…あまり、可愛いことを言うものではない」

低く芯のある声が耳元で響いて、ぎらぎらといつまでもその光を失わない眼差しに至近距離で射抜かれる。あまりにもどきどきしすぎて、嬉しすぎて、反射的に瞳が潤むと土方さんが「こら、泣くな」と私の睫毛を撫でた。

「泣いてないです、目が…くらんだだけ」

私は、魅了されてしまったのだ。この美しく強い鬼に。引き返し方なんてとっくのとうに忘れてしまった。
こんな私、きっと哀れだ。でも哀れって往々にして可愛いものだから。土方さんはこれからも私の事を愛でてくれるんでしょう。
それでいい、それだけでいい。今はただこの熱が欲しい。


鬼に眩む


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