『氷水、食べましょうか』
幼心を忘れない、と言うと聞こえがいいけれど、単にあの人は子供っぽかっただけだ。お父さんには秘密よ、と母は悪戯っ子のような顔をして私の手を引いて町へと繰り出した。
初めて食べた甘い氷は私にとっては衝撃的で、びっくりした猫のような表情をした私に、母はけらけらと笑っていた。家に帰ると二人でごろんと畳に転がって、縁側の風鈴が鳴っていて。涼しい風にまどろむと、背を撫でて寝かしつけられた夕暮れ。
――――リン、と風鈴が鳴る。寝苦しさに目を覚ますと、窓際で眠っていた私はいつの間にか強い日差しに貫かれていた。見慣れない部屋に一瞬戸惑いを覚えたが、すぐに自分が旅館に泊まっていたことを思い出す。隣を見ると、椅子に腰掛けている土方さんも心地よさそうに寝息を立てていた。
他の人の気配は感じない。そう、今日は土方さんと二人で留守番だったのだ。ぼんやりとした頭が徐々に覚醒し始めると共に、どこか先程の夢に思考が引っ張られてしまって仕方がなかった私は、気を紛らわすように土方さんの寝顔をじっと見つめた。
添い寝してもらう時は私が先に寝て土方さんが先に起きるから、寝顔をこんなにまじまじと見るのは初めてだった。寝息は穏やかだが暑いものは暑いみたいで、首筋に汗が浮かび上がっていることに気がつく。普段どんな気温でも土方さんは涼しい顔をしているから、汗なんてかかなさそうと勝手に思い込んでいた節があったため、少し意外な気持ちになる。いや、冷静に考えれば土方さんだって汗くらいかくんだろうけど。
寝顔と首筋を往復して見つめていると、その汗が妙に艶めかしく感じて、私はドキドキしながら首筋をなぞって珠をすくう。いけないことしている気分、と背徳感に苛まれていると、土方さんの喉が上下した。
「…寝込みを襲われるとは」
「ひ……土方さ……」
薄らと開けられた瞳にこれ以上にないほど心臓が飛び上がって、海老のようにぴょんと後ろに距離を取ると手首を掴まれる。
「こら、逃げるな」
「指一本しか触ってないです」
「明後日の方向を見ながら言われても信憑性がないぞ」
「うう…ご勘弁を…」
距離を詰めた土方さんに、何か“悪戯”をし返されると思って体を固くしていると、土方さんは私の頬をふわりと撫でる。
「赤くなっているな。焼けたか」
「あ…窓際で寝てたから……」
「寝苦しかっただろう」
「まあ…暑くて目が覚めましたね…」
冷やすか、と土方さんが言うので、私はそのまま土方さんの手に擦り寄って「いいです」と返した。
「土方さんの手冷たいから、これでいいです」
私が心地良さに目を細めれば、ふ、と土方さんが柔らかく笑う。
「私で涼をとろうとするのは名前ぐらいなものだ」
「ぜーたく者ですね、私って」
冗談ぽく言って瞼を下ろすと、土方さんが優しく触れてくれる感覚に支配される。無骨な手が、するするとそのまま耳をなぞって、首筋に下りていく。
そうしていると、ふと、人の温度と窓から吹き込む生ぬるい風に先程の夢の感触が甦った。土方さんの手が、母に撫でられた夏の日と重なって、微かに息が詰まる。
「…っ、」
「名前?」
土方さんの声ではっと目を開けるけれど、息苦しさは拭えなくて。私の水分が張った瞳に、土方さんの手つきがあやすようなものになる。
「ごめんなさい……」
「…故郷でも思い出したか」
「……少し」
昂った気を落ち着かせたくて深く息をつくと、土方さんは私の頭を撫でた。
「誰に責められるようなことでもない」
「面倒でしょう…小娘がぴーぴー泣いたら」
「ほお、私の怪我を見るたび涙をいっぱいに溜めてるのは誰だったか」
「あれは……反射なので許してください」
土方さんと言葉を交わしていると気分も幾らか落ち着いてきて、私と温度を分け合った土方さんの手をぎゅっと握った。
「…ぬるくなっちゃいましたね」
「お役御免か?」
「口実がなくなったってだけです」
そう言って土方さんに抱きつくと、くつくつ笑われる。胸元に顔を埋めながら肺いっぱいに土方さんの匂いを取り込めば、ざわついていた心が鎮まっていった。
ぎゅうぎゅう土方さんに抱きついていると、土方さんの髪の毛が時折顔やら首をくすぐるので、こそばゆく顔を上げる。
「土方さん、ずっと髪下ろしてて暑くないんですか?」
「…あまり気にしたことは無いな」
「ふうん」
指先で土方さんの髪の毛をくるくると弄んだ後、私は懐から簪を取り出して土方さんの腕から抜け出した。後ろに回って「結ってもいいですか?」と嬉々として尋ねれば、「好きにしてくれ」と土方さんが目尻を下げる。
了承を貰ったところで、土方さんの髪の毛に指を差し込む。何か特別な手入れをしているところは見たことがないけど、不思議と土方さんの髪は艶やかで指通りがよかった。なんて羨ましい。
うなじの方から髪の毛を掬って結い上げると、土方さんの首が無防備に晒される。洋装の時は首まで詰まっているから、滅多に見ない光景に思わず生唾を飲み込むと、土方さんが「いかがわしい視線を感じるな」と肩を揺らした。
「見抜かないでください。…はい、完成です!」
土方さんの周りをぐるぐると回って四方八方からその姿を眺める。その辺の芸妓より婀娜っぽいっていうのは如何なものなのか。風通しのいい首筋が新鮮なのか、首に手を当てて擦る土方さんの仕草に私は唸った。
「土方さんが女性だったら数多の男を掌の上で弄んでるんでしょうね」
「褒められているのか?」
「そのつもりです」
きっと花魁も顔負けの、それはそれは魅力的な女性だったろう。仕上げに紅でも引きたくなっていると、おもむろに土方さんが腰を上げた。
「せっかくめかしこんでもらったのだから少し外に出るか」
「それで出るんですか!?」
「駄目か?」
「へ、へんな奴に襲われちゃいそう…」
「斬り捨てれば問題はあるまい」
なんて事ないように土方さんが爽やかな笑顔で言うから、ワア〜と思いつつ差し出された手を取る。ただよう色香につられて声をかけたら斬られちゃったなんて、まるで薔薇(そうび)だな。
私が立ち上がって軽く身支度を整えると、土方さんの視線が私の顔で留まる。向けられる視線に居心地悪くどきどきしていると、土方さんが顎まで伝った私の汗を指先で掬った。不意に、後ろで響く蝉の声が音量を増した気がして、ぶわりと体温が上昇する。土方さんは真っ赤であろう私の顔を見て薄く笑った。
「氷水でも食べに行くとしよう」
この火照った体を冷ますにはちょうどいいだろう。そう言われてるみたいで恥ずかしかったし、私が視た夢も見透かされてるのかとも思った。まあ、さすがの土方さんもそんな仙人みたいな能力はないはずだ。…多分。
「北海道の氷は美味い」
「…いいですね、食べたいです」
横浜の氷は美味しかったっけ。もう遠い記憶すぎてそんなこと覚えていなかった。一緒に食べる相手も、土地も、移り変わったことに寂しさはあったが、悲しさはない。次に相手が変わった時に同じように思えるのかは…分からないけど。
記憶の中の夏と変わらない匂いを乗せた風に背を押されながら、私と土方さんは旅館を出た。お留守番の役目を放り出したことで後で永倉さんに怒られるかもだけど、このお出かけは二人だけの秘密、ってことで。
形見の夏
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