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TopMainさよなら、さようなら
行かないで、お願い。涙ながらに呼びかけると、大きな手で頭を撫でられて、その温もりにとめどなく溢れる涙。おねがい、としゃくりあげながら呟いても、望む返事はくれなくて。

「…悪い、」

彼の顔は、今日も見えない。

ハッ、と目が覚めると頭が霞がかったようにぼんやりとして、見慣れた天井を認識するまでに少し時間を要した。夢を見ていた、と自覚をしてから、枕を濡らしていることに気がつく。また泣いてしまったのか、と他人事のように思いながら、手の甲で涙を拭った。

彼の夢を見るのはこれが初めてではなかった。いつからだったかは覚えてないが、定期的に彼が出てくる夢を見るようになった。彼、と言っても顔も声もよく分からない。ただ、見る度に愛しくて哀しくて、どうしようもない喪失感にいつも襲われる。
体を起こして深呼吸をする。夢だ、あれはただの夢。私には何も関係ないはずなのに、どうしてこんなにも色々な感情が溢れ出すのだろう。

また考え始めると無条件にじわりと涙の膜が張ったので、乱暴に目尻を拭って私はベッドから飛び出た。こんな事をしていると遅刻してしまう。のろのろと制服に着替えて、鈍重な足取りでリビングへと下りる。

「おはよう」
「おはよー…」

既に朝食を済ませた兄がコーヒーを飲みながら挨拶をしてくれて、強張っていた体が徐々に緩んでいく。夢から覚めて、今が現実であることを確かに実感できた私はどこか安堵していた。しかし中々夢の余韻も抜けきらず、ぼんやりとしたままテーブルに着くと、テレビに視線を向けていた兄がちらりとこちらを見やる。

「…どうした?」
「え?」

私の機微にすぐ気づく兄の観察の鋭さには本当にいつもドキリとさせられる。私が妹だからなのか、兄が医者だからなのか。多分どっちもだと思うが。

「変な夢、見たせい。いつもの」
「ああ……、大丈夫か?」
「うん、平気」

夢を見始めて最初の頃、毎度のしかかる重い哀しさに耐えきれなくなって、夢の話を兄に打ち明けた。兄はバカにすることなく、はらはらと泣く私を優しく「大丈夫、夢の話だよい」と抱きしめてくれた。夢を見る原因を兄なりに突き止めようともしてくれたが、結局分からずじまいだった。夢やトラウマに関する書籍を積み上げていた兄に、申し訳なくなった覚えがある。

年齢を重ねるにつれて、私も最初ほど夢に感情を引きずられることがなくなり、心配する兄に「もう大丈夫、夢だもんね」と返して、心配することをやめさせた。原因が何をしても分からないこともあって、兄がそれ以来深く追求することはなくなった。

私が席について朝食を食べ始めると、コーヒーを飲み干して一息ついた兄がテレビのチャンネルを私がいつも見ているものに変えてくれる。そして食べ終えた食器を台所へ運ぶと、ソファに置いていた鞄を持って私の頭を撫でた。

「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい」

玄関へと向かう背中を見送ってから、テレビに目を向けて朝食を食べ進める。夢を見た朝はいつもより思考が雑多になって、下手すると夢に意識を引っ張り続けられる。ごちゃごちゃする思考回路を隅に追いやるように、テレビの内容にわざと集中した。

***

睡眠時間は足りているはずなのに酷く眠く、机に突っ伏して寝ていると肩を叩かれて浅く沈んでいた意識が浮上する。顔を上げれば、隣の席のサボが私を見下ろしながら小さく前の教壇を指さす。

「ホームルーム、始まるぞ」

重い頭を動かして前を見ると担任が出欠を取り始めていたので、気怠い体を何とか起こす。

「寝不足か?」
「いや、いっぱい寝た」
「寝たのに眠いのか?」

くすくすと笑うサボに、今日も今日とて随分整っている顔だなとぼんやり思う。先生が出欠をとる声が響く教室の中、身体を寄せてきて少し声を潜めたサボが「これ、」とプリントを差し出してくる。

「なにこれ」
「渡すの忘れてた。委員会のプリント」

一目見て文字数の多さにげんなりしつつ、学級委員会と書かれたプリントに目を通す。端から端まで読む気などさらさらなく適当に要点だけ拾い上げて読んだが、主目的として書かれていた内容に思わず顔を顰めた。

「修学旅行のスローガン決めってなに…めんど……」
「次のホームルームに時間とってくれるって、先生が」
「サボよろしく」
「お前も前出るんだよ」
「やだあ…」

面倒極まりない仕事に気分を沈ませていると、いつの間にか朝のホームルームは終わりを迎えており、次の授業の準備のために皆が動き出した教室は人の声と椅子を引く音が目立った。どこか急かすようなその空気に、慌てて私も立ち上がろうとするとサボが「あ、」と声を上げる。

「今日の放課後も少し仕事あるんだけど、残れるか?」
「おっけー帰る」
「よーし、やる気があって何よりだ」

一見噛み合ってないような会話だったが、サボは一方的に満足したらしく笑いながら教科書持って廊下に出ていく。私も人並みの良心はあるので、サボ一人で仕事をさせるという選択はよっぽどのことがない限り存在しないわけで。
放課後の作業に、スローガン決めに、あとは目前の移動教室。面倒なものばかりが積みあがったタスクに、ひとつ深いため息をついてから、次の授業に必要な教科書と資料集とノートを腕のなかでまとめあげて教室を出るのだった。

***

放課後、人がまばらにいなくなっていく様子を見送りながら、適当な他人の席についてノートを広げる。前の席の椅子をこちらにくるりと向けて座ったサボは、私の広げたノートの隣に委員会のプリントを置いた。
いつの間にか誰もいなくなった教室で、プリントに蛍光ペンを引きながら、決める必要なんてなさそうな内容のものを話し合っていく。必要性を感じてない割には、話し出すとそこそこ真剣に意見を出し合ってしまうところが、私とサボの気が合う所以だろうか。

結構真面目な話し合いをしていると、不意に机の上に出していたサボの携帯が震えて机が振動する。明かりのついたホーム画面に出た通知を覗き込んだサボは、顔を緩ませてから恐らく返信するために携帯を手に取った。
彼女だろうか、と揶揄るような気持ちでノートから視線を上げてその様子を眺めていると、サボの顔がどんどん破顔していく。

「楽しそうだね」
「あ、悪い」
「いや別にいいよ」

作業を中断させてしまった謝罪をサボは述べたが、別に急いで終わらせて帰りたい訳でもないので咎めなかった。連絡ぐらい別に私もするしね、と思い腹立たしい気持ちはまったく湧いてこなかったが、好奇心だけはその頭を隠すことができずにいた。

「…友達?」

彼女かどうかストレートに聞くのはさすがに勇気が必要だったので、遠回しに聞いてみる。すると、サボは「いや、」と存外すぐ否定の言葉を付けた。

「兄弟だ」
「兄弟?サボって兄弟いたんだ」
「おう」
「弟?」
「弟と、…兄か?一応誕生日はあいつの方が先なんだよな」
「同い歳なんだ」

自分で言った後に「…同い歳?」と首を捻る。双子なら誕生日は一緒のはずだ。同い歳で誕生日違いの兄弟なんて存在するのだろうか。自分の知識の範囲内で結論付けることができずにいると、サボは私の思考回路をすぐに察したようだった。

「血は繋がってないんだ」
「そ……うなんだ」

母が違うのか父が違うのか、それとももっと複雑なのか。気にはなったが他人の家庭事情に興味本位で首を突っ込むのはさすがに私の中のモラルがストップをかけたので、相槌を打つだけに留めた。何はともあれ、仲は良さそうなのだから微笑ましい。

「仲良いんだね」
「まァな」

幼さが残る屈託のない笑顔を見せたサボに驚く。普段のサボは比較的大人びた笑い方をする印象だったので、こんな笑い方とするんだなと小さく感動する。会ったことのないサボの兄弟を想像して一人思考を突っ走らせていると、また携帯が震えた。通知を見たサボが小さく声を上げたので、思わず「どうしたの?」と首を傾ける。

「あー…」

手早く返信を打つサボは私への返事まで意識が回らないようで、言語の形を成していない相槌が返ってくる。サボが一息つくまで黙って待っていると、返信をし終えたサボが携帯を置いて背筋を伸ばした。

「悪い、早く終わらそう」
「用事できた?」
「こっち来るんだと。帰りに寄りたい場所があるからおれを迎えに来るって」
「へえ〜。兄弟って他校なんだね」
「あいつら勉強には毛ほども興味ねェからさ」

冗談めかしたサボの台詞に、仲の良さが窺えて小さく吹き出した。

もう大分話し合いを重ねて、あとは纏めるだけだったそれを手早く結論付けて、机の上のものを片付け始める。使っていた椅子をもとの場所に戻して、二人で帰り支度をしていると、サボが手元の携帯を見てぱっと顔を明るくさせた。

「お、着いたらしい」
「いいよ、先帰ってて」
「いや別に大丈夫」

何が大丈夫なんだ、と突っ込みたかったが、サボが黙って待ってくれたため、若干雑に身なりを整えて鞄を肩にかける。誰もいない教室の電気を消して、自分たちの話し声しか響かない校舎を歩いて下駄箱へと向かった。靴を履き替えて、今度こそ先に行っただろうと校舎口に行くと、これまたサボが私を待っていた。

「別に一緒に帰らないんだから先行けばいいのに」
「それもなんだかあれだろ」
「あれってなに」
「嫌な感じ?」
「思わないって」

校舎を出て並んで歩いてると、正門あたりに人影が見える。目を凝らすと、こちらに気づいたらしい人影が忙しなく動き始め、その様子にサボがくすりと笑った。

「あれかな」
「あれだな」
「私いない方がいいよね」
「いや別に」

何故ここまで一緒にいさせようとするのか。ここまでくると何か考えがあるように思えて、サボをじっと観察する。遠くで動く人影を心底嬉しそうに見つめ、そしてちらりと向けられた横目に、ようやくサボの思考回路が読めた気がした。

「…サボ自慢したいんでしょ」
「……」
「図星」
「かわいいんだよ、おれの弟」
「あれ?同い歳の方は?」
「あー…、女にモテる」
「評価の差」

なんて話していると、サボを呼ぶ伸びやかな声が響いた。正門の方でしきりにジャンプしてるあれが、可愛い弟の方なのだろうと目星をつけながら、少し早歩きになったサボの後を付いて行った。

「サボー!」
「ルフィ!ありがとな、迎えに来てくれて」

ルフィと呼ばれた男の子に、サボが優しく声をかけてる様子を微笑ましく見てると、後ろからもう一人の影が現れる。

「遅ェよ、サボ」

ぐらりと世界が揺らいだ。

彼の声が鼓膜を伝わって、脳を揺らす。訳もわからず体が熱くなって、鼻の奥がツンと痛んで視界が滲む。夢の彼の言葉は声を持ち合わせていなかった。だから私は知らないはずなのに。彼の声なんて聞いたことがないのに、でも今私の中に響いたのは、確かに、

「あれ、そいつは?」

彼がいた。

何度も何度も私に愛と別れを囁いた、彼がそこにいた。低い声も、そばかすも、少し癖っ毛な髪の毛も、しなやかな筋肉がついたその体も、大きな手も、私の心が懐かしいと叫んだ。そんなはずがないのに。冷静な私が記憶を手繰り寄せてみても彼と出会うのは初めてだ。なのに、どうして。

「こいつは同じクラスの、……おい、大丈夫か?」

私の異変に気がついたサボが私の肩を掴んで顔を覗き込んでくる。私は返事もできずにただ浅く呼吸を繰り返した。

「おい、具合悪いのか?吐きそう?」
「は、…だ……だい、じょぶ……」
「大丈夫そうには見えねェよ…、家の人に連絡するか?」

サボが「悪い、」と兄弟に断りを入れて、私の肩を抱いて歩き出す。何も分からないまま彼と別れてしまう、と思ったら勝手に体が動いていた。私に腕を掴まれた彼は酷く驚いた顔をしていて、目を見開いたまま私を見つめる。私はからからに乾いて張り付いた喉から何とか声を絞り出した。

「な、なまえ…」
「え?」
「あなたの、名前はっ…?」
「お、おれ?」

困惑しながらも彼は自分の名前を紡いだ。

そこから先は記憶が朧げだ。確かサボが家まで送るって言ってたのを無理矢理断って、兄に連絡をして泣きじゃくりながら迎えに来てほしいと言った気がする。只事じゃないと思った兄が迎えに来てくれて、兄の車に乗り込んだあとは覚えていない。おそらく寝てしまったんだろう。

その日の夜に見た夢で、私はエースの死に泣いていた。


さよなら、さようなら 1話


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