a/hanagokoro/novel/1/?index=1
TopMainさよなら、さようなら
足元が崩れて、どこまでも落ちていってしまそうな、深い深い哀しみ。胸が詰まって、息ができなくて、頭はがんがんするのに、現実は何も変わらない。泣いて、泣いて、体の水分がなくなってしまうほどに泣き続けても、事実という名の喪失感が私を襲うのだ。

もう、彼は二度と戻ってこない。

「は、っ……」

夢から引きずり上げられて、意識が覚醒した私の体がビクッと跳ねる。短く息を吐いてから、自分が目が覚めたんだということに気がついて、改めて長く息を吐き出した。見上げる天井は自分の部屋のものではなくて、なぜだろうとぼんやり考えていると、兄の声が響いた。

「大丈夫か?」

ベッド横にある椅子に腰掛けてた兄が手を伸ばして私の頭を撫でた。そうか、ここは兄の部屋か。瞳を瞑って優しいその手に意識をゆらゆらと委ねて心を落ち着かせる。
私の額を覆い隠すぐらいの大きさや、少しかさついた感じの温かくて安心する兄の手が好きだ。優しい感触にほっとしていると、その指が私の目尻を撫でて涙を掬いあげる。

「また、見たのか」
「………うん…」

まだ緩やかに撫でてくれている兄の手に、じわりと涙が滲む。兄はそのままあやす様に私の頭や頬を撫でたりした。

「今日は学校に休みの連絡入れてあるからゆっくり寝てろよい」
「え…、」

そう言われて初めて今日も学校だった事実を思い出して、慌てて時計を見る。既に短針は10を指し示しており、一気に諦めがついた。兄の言う通り今日は休みでいいや、ともう一度ベッドに横になると、兄が立ち上がって椅子にかけてあったジャケットを羽織る。

「今日も早めに戻ろうとは思う。…大丈夫か?」
「うん、大丈夫。…ごめんね、仕事遅刻させちゃって」
「別に構わねェよい」

兄は朗らかに笑うと「いってくる」と部屋を出ていった。

ベッドに潜り直してゆっくり寝れるという幸せな温もりを感じつつ、昨日のことに思いを馳せる。

洪水のように脳裏に甦る昨日の記憶に、ぎゅっと瞳を瞑った。サボと別れて兄に迎えに来てもらってから、とにかく兄に泣き喚いた気がする。思ったことを泣きながらぶつけていたので、かなり内容は支離滅裂だったと思うが、兄はそれをただ黙って聞き入れてくれた。
兄は泣き疲れた私の背中を撫ぜながら「どうしたって説明のつかねェことだってある」と抱きしめてくれた。兄のその言葉にどうしようもなく更に泣いたのを覚えている。

エース。

今まで靄がかかっていた彼の顔は嘘みたいに、最初からそうだったというように、エースを映し出した。声もはっきりと私に届いた。そうしてその瞳で、その声で私に別れを告げるのだ。彼の死に突き落とされた私は引きずり出されるように夢から目が覚めた。

昨日の彼の顔を思い出してみても、実際にその目で見たはずなのにどこか非現実的な記憶に思える。何度も昨日会ったのは本当に彼だったのか、見間違いじゃないのかなんて考えてみたが、私が彼に出会ったのは揺るぎない事実だった。

悶々と考え事をしていると、やはり疲れていたのかいつの間にか意識を手放してしまっていた。次に目が覚めたのは3時過ぎで、寝すぎて若干痛む頭に自己嫌悪が湧いた。一人ため息をついていると、ベッドサイドに置かれていた私の携帯が震えて、振動した音にびっくりする。
手に取って通知を見るとサボから『大丈夫か?』と送られてきていた。気まずくて私からは何も連絡していなかったのにも関わらず、サボから連絡をしてきてくれたことに少し救われた気がした。昨日の謝罪とお礼をサボに送り返して、携帯を握りしめたまま脳裏にまた彼が浮かび上がる。

会いたい。
もう一度会って、確かめたい。

彼が誰なのか、本当に彼なのか、何故夢に出てくるのか。

しばらく布団を握りしめながら考え込んだ後、私は勢いよくベッドから飛び出した。サボに謝りに行く、という名目ならおかしくないはずだ。自室に戻って適当な服を着た私は、寝癖を直すのもおざなりに家を出た。

サボと一緒に通ったときの、曖昧な記憶の道順を辿りながら、何とか目的地に着く。自転車を出すのも面倒で歩きで来てしまったが、思ったより時間がかかってしまった。

不確かな記憶で辿り着けた達成感に浸っていたが、冷静になって家の前で立ち尽くす。こんな適当な格好で、手土産もない状態で。サボがもし家にいたとしても「昨日はごめんね」とだけ告げて帰るのか。
いや、それでは彼に会えないからだめだ。そもそも、サボはもう帰っているのだろうか。今現在の時刻が、学校終わったぐらいの時間なのだから、まだ帰っていない気がする。

どうしよう。不審者よろしく他人の家の前でうろうろしては、意味もなく二階の窓を見上げていると、静かな住宅街に「あ、」という声が響き、私は小さく跳ね上がった。慌てて振り向くと、そこには見慣れたようで見慣れない人物。

彼がいた。

昨日の出会いとは打って変わって、私たちの間にはしばらく間抜けな空気が流れた。

「あ…え、と……こ、こんにちは…」
「お…おう…」
「……エース…くん、だよね…」
「そ、うだけど……名前、だっけ?」
「え、あ、名前…」
「サボから聞いた」
「そうなんだ」

落ちる沈黙。突然過ぎて適切な言葉が見つからず、何かを言おうとして喉に息を詰まらせていると、彼が先に口を開いた。

「もしかしてサボに会いに来たのか?」
「え…、あ、うん、そう。昨日心配させちゃったから、謝りに…」
「そうなのか?気にしてねェと思うけどな」
「そう、かな…?あ、エース、くんもごめんね」
「おれ?」

きょとんと眼を丸くさせて不思議そうにする彼。普通あんな急に泣き出されたりしたら迷惑だっただろうに、彼は全く気にしていないようだった。

「変なところ見せちゃったし、驚かせたかなって」
「いやおれも気にしてねェって、具合悪かったんだろ?」
「う、ん…」
「というか今日は寝てなくて大丈夫なのか?」

純粋に心配そうに覗き込んでくる彼に、つい笑ってしまった。本当に、見たまんまだ。見たまんまと言っても、顔立ちを見ただけではイケメンだなくらいにしか思わないが、おひさまみたいに笑う顔や、普段からころころ表情が変わる雰囲気から、素直で優しい性格なんだなと無意識に思っていた。勿論、これらは夢の中で見た彼であるが。

「大丈夫、ありがとう。優しいね」

そんな風に言われると思ってなかったのか、目尻を赤くした彼は視線を彷徨わせて、話を逸らした。

「あー…サボだけどよ、まだ帰ってきてねェぞ」
「あ、うん、そうだよね。どうしよう」

彼に会えたから目的を達成した気になっていたが、名目上はサボに会いに来たのだ。今日のところは適当言って帰ろうか、と考えていると、思いがけない一言が彼から飛び出てきた。

「家上げてもいいんだけどよ、ずっと家で待ってんのも暇だろ?どっかでおれと時間潰すか?」
「えっ」

何気ないトーンで彼は言ったものの、私はバカみたいに緊張して体が強張る。こんな風にサラッと誘えちゃうあたりに、彼の天然タラシさを感じる。男子と遊ぶことなんてそんなになかった私は、妙にドキドキしてしまった。
いきなりの事に少し驚いたが、彼とまだ話がしたいというのが本当の所だった私は控えめに頷く。

「そう、する」
「お、じゃあどこ行く?」
「どこでもいいよ。エース、くんの行きたいところで」
「エースでいいって、おれも名前って呼ぶから」
「わ、わかった」

距離の縮め方が尋常じゃないくらいのスピードでくることに、思わずたじろぐ。サボも比較的すぐ距離を詰めてくるが、サボのあれは恐らく計算の上で行っていることだ。
エースは計算なしにド直球で距離を縮めてくるものだから、どう受け取ったらいいか分からず持て余してしまいそうになる。その率直さが、私には少し気恥ずかしかった。

「おれすげェ腹減ってるんだけど、軽くなんか食いに行こうぜ!」
「あ、私もお腹すいてるかも。朝から何も食べてないし」
「は!?お前よくそれで大丈夫だな!?」

信じられない、と声を大にして叫ぶエースに、ああエースはよく食べるんだなとすんなりと納得する。だって、そういう感じがする。

「休みの日とかは結構夜まで何も食べなかったりするけどね」
「おれはぜってー無理だな…、死んじまう」
「ははっ、じゃあエースが死なないうちに食べに行こうか」
「おう!」

考えてみれば私とエースは初対面なわけで、お互いのことを何も知らない私たちは、自己紹介のような会話で一頻り盛り上がった。人懐っこいエースとの話は楽しく、初対面の割には思ったより会話が弾んだ。私はいつの間にか、夢のことなどすっかり忘れていた。

そこまで遠くない場所にあるファーストフード店に入って、軽く食べると言っていた量ではない注文をするエースに驚いたが、それすらも面白くて注文してる時に後ろで笑ってしまった。

注文をし終えて席についても話はつきず、新たな友人ができた感覚に浮かれて色々喋っていると、不意にエースの言葉が途切れる。何か変なことでも言っただろうか、と思い当たる節を探していると、エースがトレーに敷いてある広告の紙を見ながらぽつりと呟いた。

「名前はサボと付き合ってんのか?」
「っ、ごほ!!」
「おお!?大丈夫か!?」

飲んでいたシェイクが勢いよく器官に入ってしまい、盛大にむせる。喉の異物感に一頻りむせた後、唾液を飲み込みつつ、無理矢理声を絞り出す。

「なに、けほ…っ、なんでそうなったの!?」
「いや…サボが女と仲良くしてんの珍しかったからよ」
「そ、う…?結構普通じゃない?げほっ」
「大丈夫か?」
「だいじょばない、っん゙ん゙」

どんどんと胸を叩いて何とか喉の異物感を取ろうとしてると、目の前のエースが「ん、」とポテトを差し出してきた。

「?、なに」
「こういう時ってなんか食った方がよくねェ?魚の骨が喉に詰まった時も飯食うだろ?」
「そういうもん…?」
「試してみればよくね」

ナチュラルにあーんしてきてるエースの手先を見つめて固まる。さすがにこのまま食べるわけにはいかなかったのでエースの指からポテトを受け取ってから自分で食べた。確かに、水を流し込むよりかは、固形物で異物感を流し込んだ方が、少し楽になった気がする。

「…良くなったかも」
「お、よかったな」
「……なんの話してた?」
「あー…、何だっけ」
「…サボの話だ!」
「おおそうだ!そうだった」

私も大概だが、この短時間で自分が振った話を忘れるというのはどうなんだろうか。手を叩いて、そうだったと納得したエースは、改めてううんと唸った。

「サボが女と一緒にいるのおれ初めて見たんだぞ、この前が初めて」
「たまたまでしょ」
「そうかァ?」
「サボと私は友達だよ、友達。委員会が一緒なの」
「へェ〜!そうなのか」

初めて聞いたらしいエースは目を瞬かせて、興味深そうに前のめりになる。しかし、これ以上サボとの関係を勘違いされても困るので、私は話の矛先をそっとエースに突き返した。

「エースは彼女いないの?」
「いねェな、あんまり興味ねェ」
「…そうなの?」
「おう」
「サボがモテるって言ってたから、意外」
「モテる?おれが?……そうなのか?」
「私に聞かないでよ」

恐らく、サボの言う通りモテるんだろう。見た目は十分なほどに整っているし、性格も気さくで愛嬌がある。なによりこの距離の近さに勘違いする女子は多そうだ。他人事ではないけれども。恋愛の話はあまり盛り上がる様子がなかったので、また他の話にすぐ移り変わった。

そうしてエースとしばらく駄弁っていると、私の携帯が震えた。通知を見ると、まさかの母からの連絡。嫌な予感がしてメッセージを読み上げると、学校休んだはずなのにどこにいるの、といった内容だった。今日は母が仕事から早く帰ってくる曜日だということを完全に忘れていた。
背中にぶわっと嫌な汗が噴き出して、自分のアホさ加減を責めたい気持ちが押し寄せる。学校を休んだ旨は恐らく兄が伝えてるため、家にいない私を心配しているのだろう。

「か、帰んなきゃ」
「んァ?」
「お母さんから連絡来ちゃった。ごめん、帰るね」
「お、おう。送ろうか?」
「エースどうせ1回で道覚えられないでしょ」
「バカにしてるだろ!?…というか、サボはいいのか?」
「どうせ学校で会うしいいよ、よろしく言っておいてくれる?」
「わかった」

忙しなく帰り支度をする私を、エースがどこか落ち着かない様子で見守る。だが構ってもいられず、バタバタと準備を済ませて、私は自分のトレーを持って立ち上がった。

「エース、今日はありがとう。よかったらまた一緒に遊ぼうね」
「おう、連絡する」

先程交換した連絡先を示すように携帯を持ってひらひらと手を振るエース。私も同じように携帯を振り返して、店をあとにした。

私は母にてっきり怒られると思っていたが、家に帰ると酷く心配された。逆に申し訳なさが凄まじく、連絡なしで出てきたことをとてつもなく反省した。
兄が帰ってきてから、エースの話はしなかった。何か明確な理由があるわけではなかったが、兄にはしてはいけない気がした。それに、今日エースと話して私の中に残った余韻はあまりにも普通のもので、エースとあの夢は関係ない気すらしてきた。エースはただの男子高校生で、ただのサボの兄弟だったのだ。それ以上でも以下でもない。

夢はもう見ない気がする、と謎の自信に溢れながらその日は眠りについた。結果としては、そんなことは無かったのだが。

***

テンガロンハットを被った彼が、弾けるような笑顔で私に好きだと何度も告げる。太陽の下で、星空の下で、シーツの中で、愛しくて仕方ないという優しい声音で私に囁く。胸の内に滲む幸せにひととき身を委ねて、彼の腕の中で甘く鳴る胸を感じた。
しかし不意に腹の底が冷えて、目の前の彼は悲しげな顔しか見せなくなり、私に何度も謝るのだ。悪い、ごめん、無理だ。彼からそんな言葉が聞きたいわけじゃないのに。

ああ、また沈む。

哀しみに沈んで、夢の中なのに疲れるくらい泣くはめになるのだ。

私は一体、彼の死を何度味わえば良いのだろう。


さよなら、さようなら 2話


prev │ main │ next