a/hanagokoro/novel/1/?index=1
TopMainそれって愛でしょ
仕事に身が入らなかった。いつものことだと言われればそうなのだが、その日は特段何にも集中することができず、息抜きに本部を抜け出し散歩に出かけた。
あまり通らない道をぷらぷらと歩き潮風を浴びていると、ふと小綺麗なカフェが通りにあることに気が付く。いつの間にできたのだろう、と最後に付近を通った時の記憶を手繰り寄せるが、不毛なのですぐにやめた。とにかく、昔はなかったのは確かだ。ここ数年でできたのだろう。
何にも気が乗らない今は、寄ったことのないお店で気分をリフレッシュするのにぴったりじゃないだろうか。ほんのりと浮かれた気持ちで、クザンはその店のドアに手をかけた。

からんころん、と店のベルが控えめに鳴り、甘く香ばしい匂いがクザンを包み込む。ここ数年で出来たというクザンの予想はおそらく当たっていて、店内の床や柱の木々がまだ新しく艶を持っていた。店内の様子を見渡しながら、当たりを引いたなと思っていると、カウンターで作業をしていた店員がクザンの方へと振り返る。

「いらっしゃいま……、」

こちらを見た瞬間、目を見開くその子。いくらここがマリンフォードとは言え、大将が訪れる店というのは限られている。クザンが訪れると多少なりとも驚かれるのは、どこに行っても同じだった。
近くの席を指さして「いい?」と尋ねると、それにはっとしたその子は「どうぞ、お好きな席に」と促した。席に着いてから少しして、水を持ってきたその子がにこりと微笑む。

「大将さんが来るとは思ってなかったからびっくりしました」
「まァ、どこも最初はそうよ。ちょっとお邪魔させてもらうわ」
「ごゆっくり」

冗談めかしたクザンの台詞に、若干強張っていた表情がほぐれたのか小さく笑うその子。ちょっとかわいいなと思いつつ、グラスに水を注いでいる様子を見つめる。静かな空間で、氷がカラコロと滑り落ちてグラスの鳴る音が響き渡るのは、心地がよかった。

「ここ海兵は結構来るの?」
「お昼のときは結構来ますね。女海兵さんが多いかも」
「ああ、確かに。綺麗だもんね、ここ」
「ありがとうございます」

慣れた様子でお礼を述べると、水を注ぎ終えたグラスがクザンの目の前へと置かれる。グラスに口をつけながら、クザンはカウンター付近に掲示されているメニューを一瞥した。

「ここのおすすめは?」
「今日はチーズケーキ」
「じゃあそれとコーヒーで」

注文を聞いたその子は、足早に店の奥へと引っ込んだ。それを見届けてから、そのまま店内を見渡す。お昼も十分に過ぎたこの時間では海兵は見当たらず、ゆったりと過ごしている客が何人かいる程度だった。

最近は店の新規開拓する暇もなく、惰性で馴染みの店ばかりに行っていたが、この店は良いかもしれない。窓から差し込む温かな日差しにうとうとしながらそんなことを考えていると、ふわりとコーヒーの匂いが鼻をかすめた。

「…大丈夫ですか?」
「んあ、ちょっと寝てたわ」
「寝不足?」
「いやァ…そういうわけでもねェな」

曖昧に答えると、運ばれてきたコーヒーとチーズケーキがテーブルに並べられた後、訝し気な視線が向けられる。

「もしかして大将さん、サボり?」
「サボりっていうか〜……、息抜きよ。も〜おれ疲れちゃって」
「大将だもんね」
「そうそう」
「給料泥棒はよくないと思うよ」

思いがけず遠慮ない攻撃が飛んできて言葉に詰まる。鋭い追及から逃げるようにコーヒーに口をつけると、予想以上に美味しくて思わず「うまい」と声が出た。

「そう?よかった。チーズケーキも美味しいよ」
「…うん、うまい。おすすめなだけあるわ」
「伝えておきます」
「あれ、これ作ったの君じゃねェの?」
「手伝いはするけどケーキ作ったのもコーヒー淹れてるのもお母さん」
「なるほどね。お母さんか」

コーヒーもケーキも美味い。雰囲気も良い。この店で面倒な知り合いに会うようなこともなさそうだ。それに、クザンはさらっと容赦ない言葉を浴びせてくる目の前の子が気に入り始めていた。

「君は?」
「え?」
「名前、なんていうの」

そう尋ねると先ほどよりも数倍訝しそうな視線が向けれて、心なしか物理的な距離もとられる。

「なんでそんな嫌そうな顔するのよ」
「いや大将さんに急に名前聞かれたら驚くでしょ。なんか要注意人物のリストに載るのかなとか」
「いやいやそんなことあるわけないでしょ!普通におれが知りたかっただけ」

ストレートに伝えると、照れたのか変に顔を歪ませるその子。どうやら率直に照れるリアクションができないらしい。素直に名前答えることすら恥ずかしくなったのか、視線を逸らしたその子はぽそりと不機嫌そうな声で名前を口にした。

「…名前」
「名前ちゃんね。覚えた」
「別に覚えなくていいです」

飛んでくる文句は流して、何度か口にして記憶に刻み込む。かわいらしい響きだなと思ったが、その感想も口に出せば、目の前の子がリアクションに困る様子が容易に想像できたため、そっと胸にしまった。

「あ、おれの名前知ってる?」
「本名?知らない。覚えてない」
「クザン。おれの名前」
「へー」
「へーじゃなくて…、」

おねだりする空気感を出してみるものの、呼んでくれる気はなさそうだった。あまりしつこくしても嫌われるだろう、とクザンは残りのコーヒーを飲み干して立ち上がる。ポケットから幾らか取り出して渡すと、驚きの声が上がる。

「多いんですけど…」
「おれとお話ししてくれた分」
「うちそういうサービスでお金貰ってないから」
「気持ちよ。お母さんにも美味しかったって伝えておいてくれる?」
「…かしこまりました」

渋々といった感じで受け取る様子に思わず笑いが漏れる。軽く身支度を整えてドアに手をかけると、律儀に見送ろうとしている姿が横目に映った。うらはらに見えるその行動に愛らしさを覚えて、つい振り向いて手を振る。

「また来るわ」
「お待ちしてます。……クザンさん、」

ドアが閉まる間際だったが、営業文句の後に小さく付け加えられた自身の名前を呼ぶ声を、クザンは聞き逃さなかった。はつらつと呼ぶ勇気はなかったのか、先ほどのように一見不機嫌そうに聞こえる声音がいじらしい。

カフェの和やかな雰囲気とは変わって、外に出ると潮風がクザンの顔を吹き付けたが、顔の筋肉は朗らかにゆるゆると緩んでいく。ようやく歩き出したその足取りは、これから本部に帰るにも関わらずとても軽やかだった。


それって愛でしょ 1話


prev │ main │ next