「……元の世界に戻ったら、史書の陸遜殿にしか会えなくなってしまいますね」
私には、何も。そう言いたくなるのを、陸遜は寸前のところで留めた。こちらの世界にはあなたを感じられるものは何もないというのに。物語の中だけでも出会えたらどんなによかっただろうか。理不尽に僻みそうになるのを堪えていると、彼女の目尻からきらきらと珠が零れ落ちた。
別れを惜しんでいるのは自分だけではない。そう実感させてくれる彼女の涙に、陸遜は堪らなくなって彼女の手を掴んだ。そして想いを告げた。
「忘れないようにしましょう。生きている時代は違えど、私たちは確かに出会い、こうして想いを告げあったのです。そのことをずっと、忘れずに」
彼女を思い出す
縁が自分には何一つなかったとしても、忘れない。彼女と出会い、共に風に吹かれたこと、星を見たこと、語り合ったこと。そのどれも忘れることなどできない。
彼女の許しを得て肩を抱くと、思ったより頼りない感触に抱きしめてしまいたくなった。このまま胸の中に閉じ込めてしまっても彼女は許してくれるだろう。けれど、そんなことをしてしまったら自身の気持ちの整理がつけられなくなる。陸遜が自身の生きる世界を手放せないのであれば、彼女のことも潔く手放さなければいけない。だから、抱きしめることはできなかった。
代わりに精一杯の願いを込めて、まぶたに口づけを贈る。彼女の未来が光であふれるように、なるべく悲しく辛い思いをしなくて済むように。叶うなら、自分のことも忘れないでいてくれるだろうか。
ゆっくりと開けられた彼女の瞳が朝露のように光を纏うのを見つめながら、きっと自分は死に際にもこの美しさを思い出すのだろうなと、陸遜は思った。
惜別よ、灯火たれ / 陸遜視点
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