あの日の出来事




845年。

あの日、私の存在する世界は一変してしまった。





私はウォール・マリア内に住む、パン屋の主だった。

主と言っても、三つ歳上のお笹馴染みの夫ブルーノが店主で、私はブルーノと共に店を切り盛りしていた。

それなりに有名なパン屋で、毎日うちのパンを買い求めるお客の行列は絶えなかった。

内地からのお客も時々訪れ、時には王都にお納めすることもあった。





毎日、朝食の時間に間に合うようにと、夜中の二時から仕込みを始め、六時にはお店いっぱいのパンを並べるのが日課だった。

忙しい毎日だったが、毎日充実していた。

お笹馴染みの夫は、無口であまり喋らない人だが、表情の柔らかい人で、近所でも評判の男前だった。

結婚したのは私が二十歳を少し過ぎた頃。

小さな頃からずっと私の側にいて、自然な流れで結婚し、彼と一緒に私も彼の実家のパン屋の跡取りを受け継ぐことになった。

結婚して十年ほど、子供は居なかったが、毎日が笑顔と暖かさであふれた、優しい時間を送っていた。





そう、あの日までは・・・






その日は、なんの前触れもなく突然やってきた。





お昼のお客さんのピークが過ぎ、お店がひと段落ついた頃


「クララ、ちょっと家に忘れ物をしたから取りに帰ってくる。」


ブルーノが眠そうな目をこすりながら私に言う。





“忘れ物・・・というより、ちょっと仮眠に帰るんでしょう?”

とチクリと言いたかったが、ふふっと笑って「いいわよ」と返事をする。

正直、このお昼過ぎの時間帯が一番眠い時間帯だ。

私も眠いが、店番しながらお茶でも飲んで、ゆっくりしていようと思った。





さっとエプロンを外し「じゃあよろしく」と、店よりも幾分か南に位置する我が家に帰って行くブルーノを、私は見送った。

その背中が、私の見る最後の彼の姿になるなんて、この時一瞬も感じることなく・・・






ドォォォォォオン・・・





どこからともなく、大きな地響きが鳴り響く。


「地震?」


私は店を飛び出し外に出てみるが、特に何もない。

ただ、街の人たちは、壁の方を指差しながら走って確認に向かう。

ブルーノが帰った方向だった。

ここは、シガンシナ区近くのウォール・マリア内の場所。

私も確認に行きたかったが、店番もあるし、後で戻ってきたブルーノにでも聞いてみよう、と呑気に考えていた。





しかし、しばらくした後・・・


「巨人だぁぁぁぁぁ!!!」

「シガンシナ区の壁が巨人に破られたらしい!!!」

「ここも危ないかもしれない!!!」

「内地に逃げろぉ!!!」


街の人たちの慌てる叫び声でハッとした。


「巨人?」


私は訳がわからなかった。

壁の外には巨人は沢山いると聞くが、人類がこの壁の中に逃れてきて百年もの間、巨人が壁内に進入したなんて話は聞いたことがなかった。

まさか、という思いだったが、音のしたのは家の方向。

嫌な胸騒ぎがした。

ブルーノは大丈夫だろうか。

早く会って確認しなくては。





そう思った時、隣の花屋の店主が私の腕を掴む。


「クララ!
早くうちのカミさんと、ウォール・ローゼ内に逃げるんだ!!
早く!!」


「え!?ブルーノを置いて私だけ行けない!!」


「そんな事を言ってると逃げ遅れる!
頼む、先にうちのカミさんを連れて行ってくれ!
ブルーノは俺が連れて行くから、待っててくれ!!」


そう叫ぶと、花屋の店主は私の家の方に向かって走って行った。


「クララ!あの人を信じて行きましょう!!」


私より一回りは歳上の花屋の奥さんに手を引かれながら、ウォール・ローゼの壁に向かって流れる人の波に乗った。

走りながら、嫌な胸騒ぎがする鼓動を抑えながら、ひたすら祈った。

どうか、どうか、無事でありますように・・・






それから、何時間経ったのだろう。

いや、何日経ったのだろうか。





運良くウォール・ローゼ内に避難できたものの、花屋の奥さんと一緒に、ウォール・マリアからの難民が集まる広場で、私たちは途方に暮れていた。

あちらこちらで、すすり泣く声、叫び声、誰かを探す声、時には喧嘩する声、大人から子供まで悲しい声であふれていた。

私もそのうちの一人。

来る日も来る日も、ブルーノの姿を探した。

だが、見つける術もなく、時は一刻一刻過ぎていった。





憲兵団からの説明では、ウォール・マリアの壁が、超大型巨人によって破壊され、ウォール・マリア内の領土は巨人によって占拠され、人類の活動領域がウォール・ローゼまで後退したのだと言う。

そう、もうウォール・マリアの我が家には戻れない。

あの日、ブルーノがどうなったのかは、もう確認する術は無くなってしまっていた。

あまりにもの悲劇に、涙も出ずに只々途方にくれるばかりだった。






難民の集まる広場では、一日に一度食料が支給された。

固いパンに、味の薄い冷めたスープ。

そんな味気ない食料だったが、悲しい心にはそれが不味いだとかさえも感じる事もなく、ただ毎日その日をしのぐだけの食料を口にしていた。





しかし、そんな配給も長くは続かなかった。

難民の数が多すぎたのだ。

人類の活動領域が大きく後退した事で、慢性的な食料不足に陥っていた。

材料もなければ、作り手もいない。

必然的に、働ける難民は皆、開拓者となり生産者として働く事になった。

毎日生きた心地がしなかった。

来る日も来る日も土地を耕し、味気ない食料を口に流し込む、ただそれだけを繰り返す作業が続いていた。






それから数ヶ月が経った。


「この中で、食事を作る仕事に携われるものはいないか?
効率的に沢山のパンを焼けるものが居れば、なお良い!」


憲兵団からの通達だった。

どうやら、パンの焼き手が不足しているらしい。





パン・・・

あのウォール・マリア内に巨人が進入した日から、私はパンを一度も焼いていなかった。

毎日夜が明ける前から支度し、あんなに丹精込めて焼いていたパン。

しかし、もうどうでも良かった。

ブルーノも居なければ、店もない。

もう私には、自分がパン屋だった事さえ、思い出したくない過去になろうとしていた。





憲兵団からの通達から目を逸らし、俯いていたその時、隣にいた花屋の奥さんが声を張り上げた。


「ここに居ます!
ウォール・マリア自慢の、“グリュックブレッド”の店主です。」


私はハッとした。

久しぶりに聞く自分の店の名前に、胸が痛くなった。

慌てて花屋の奥さんの口を押さえて静かにするように促すが、憲兵団は見逃してはくれなかった。


「あの“グリュックブレッド”の店主なのか!」


どうやら、うちのパンのことを知っているようだった。


「・・・はい。でも夫はいません。
妻の私、一人です。」


か細い声で答えた。


「一人でも十分だ。
あの“グリュックブレッド”の者ならなおさらだ。
早速だが、明日からパンを焼くことに専念してほしい。
生産の方は誰でもできるが、焼き手は誰にでもなれるわけではない。
難民の食事作りに貢献するように。」


憲兵団の意に背くことはできず、私はただ力なく「はい」とだけ答えた。






「良かったじゃない!クララ!」


隣で花屋の奥さんが自分の事のように喜んでいた。


「こんな毎日辛い生産活動より、あなたにはパンを焼いている方が合ってるわ。
私たちは明日どうなるか分からない難民なんだもの、自分の出来ることをやって、自分のアピールをしておくことは大事よ。」


そう言って、花屋の奥さんは微笑んだ。





次の日からは、毎日パンを焼く生活が戻ってきた。

しかし戻ってきたのは、ただパンを焼く行為だけで、お店で焼いていた頃とは状況が全く違った。

いつものふわふわの自慢のパンも、あの配給の固いパンと同じに思えた。

私は味を全く感じることがなかった。





だが、何度か自分のパンを焼くにつれ、難民の同僚たちからは感謝の言葉を言われるようになっていた。


「ありがとう。」

「こんな辛い毎日でも、クララさんのパンを食べると元気になれる。」

「生きていることを思い出したよ。」


クララにはあまり自覚はなかったが、夫と築き上げた自慢のパンは、心身共に疲れた難民たちに染み渡り、小さいながらも皆に幸せを運んでいた。

そんなクララを、花屋の奥さんはまるで自分のことのように、毎日嬉しそうに優しく見守っていた。






それから、難民生活は一年ほど経っていた。

食料事情は相変わらずの困難さだったが、私は変わらず毎日パンを焼いていた。

辛い毎日なのは変わらなかったが、難民どうし言葉を交わすうち、曇った心が少し晴れる日もあった。





そんなある日、王政府からウォール・マリア奪還作戦を実行するとの通達が出た。

作戦実行の対象者は、主に難民の生産者。

パンを焼く私は、対象者除外となったと、個別に憲兵団から話があった。





私は血の気が引く思いだった。

毎日声を掛け合っていた仲間たちが、皆巨人のいるウォール・マリア内に出向いていくというのだ。

人類が一度も巨人に勝てたことなんてないのに、ましてや兵士のように戦う術も知らない難民たちが助かるはずがない。

この食料難の口減らしのための作戦だと言うことは、一目瞭然だった。

そして、私は見送るだけだなんて・・・





呆然としている私に、花屋の奥さんが微笑みながら言った。


「良かった。あなただけでも残れるのなら。
私たち夫婦には、子供が居なかった。
だから、あなたたち夫婦は、自分たちの子供のような気持ちで接していたわ。
今までありがとう。
クララ、私たちの分も精一杯生きて!
お願いよ。」


そう言って、花屋の奥さんは瞳を揺らした。





それから数日後、人類全人口の約二割もの人々が、ウォール・マリアから戻らぬ人となった。

それは、花屋の奥さんも例外ではなかった・・・




花季 -hanagoyomi-