パンを焼く




クララは、ハッと目を覚ました。

巨人がウォール・マリアに進入した日のこと、そして今に至るまでのことを思い出して、夢を見ていた。

頬には、一筋の涙がこぼれていた。

ああそうだ、ここは調査兵団の宿舎なんだ。

過去なんて関係ない。

私は今日からここでパンを焼かなくてはいけないんだ。





時間は多分午前二時頃。

時計はないが、間違いないだろう。

十年以上続けていた日課は、そう簡単には体が忘れない。

でも正直なところ、もう生きた心地はしなかった。

巨人に家族と家を奪われ、またその一年後には、共に逃げ延びた仲間までもが奪われる。

こんな地獄はなかった。





本当にもう何もかもが嫌だった。

ただクララは、何も考えないように、無心にひたすらパンを焼くことに専念するんだと心に決めていた。






小鳥のさえずりが聞こえて来る頃、食堂からは美味しそうな焼きたてのパンの香りがふんわりと漂っていた。

その香りはとても優しく、ひと時の幸せを与えてくれるような香りだった。





パン作りの器具も片付け終え、クララはぼんやりとパンが焼き上がるのを待っていた。


「えらい張り切りようだな。」


爽やかな朝の雰囲気を壊すように、後ろから機嫌の悪そうなおじさんの声が聞こえてくる。

料理長だ。

声の主の方に振り返ったクララは、驚きもせず無表情で答える。


「おはようございます。」


「最初突っ走っても、続かなければ意味はないんだぞ。」


ジェームズはチクリと釘を刺した。


「そうですね。」


しかし、そんなジェームズの嫌味もクララには届かず、適当に相槌を打ちながらぼんやりとオーブンを眺めていた。

ジェームズもまた、ただ無心にオーブンを眺めるクララのことを気掛かりに思いながらも、彼もまた静かに調理場の奥へスープを温めに向かった。






「おっはよ〜!」


静けさに包まれた食堂に、聞き覚えのある元気な声の挨拶が響く。

ハンジだ。


「朝から美味しそうな匂いがするから、居てもたってもいられなくて来ちゃったよ。
朝食、もう貰えるかな?」


「ちょうど今焼き上がったので、召し上がってください。」


クララは焼きたてのパンをオーブンから取り出しては、早くと催促するハンジに差し出した。

ハンジは熱々のパンを頬張ると、みるみるうちに目を輝かせ、発狂するかのように言った。


「なにこれ!
こんな美味しいパン食べたことないよ。
ジェームズはもう食べた?」


「お前が焼き上がる前から催促してたんだろう。
それより先に食べられるわけがあるか。」


ブツブツ言いながら、ジェームズは焼きたてのパンを口に含む。

眉がピクリと動いたが、何も言わずに黙々と食べていた。


「まあまあだな。」


差し出されたパン丸ごとひとつ食べ終わると、それだけを言っては、また調理場の奥に向かっていった。





ハンジは嬉しそうにクララに耳打ちする。


「あんなに嬉しそうなジェームズ、見たことないよ!
しかも全部食べ切るなんて、よっぽど美味しかったんじゃない?
あんた凄いね!
普段は愚痴ってる姿か怒鳴ってる姿しか見たことないけど、あんな表情もするんだ〜。」


ハンジは、うんうんと感心しながらお代わりのパンに手を伸ばしていた。

クララには、ジェームズが嬉しそうな表情だったとは決して見えなかったが、長年付き合っているハンジが言うならそうなんだろう。

だとしても、クララには全く興味がなく、ただひたすら次々に焼き上がるパンをオーブンから取り出していた。





その日、食堂は活気に満ち溢れていた。

普段経験したことのないような香り立つパンに、兵士たちは湧き立ち、朝から笑顔が絶えなかった。





少し遅れて食堂にやってきた団長と兵士長は、その様子を見て目を丸くする。


「これは一体・・・?」


その様子を見つけたハンジは、自分の座っている席から二人を手招きする。


「エルヴィン!リヴァイ!こっちこっち!!」


二人はひとまず手招きするハンジのところにやって来ては、その前に腰掛ける。


「これは一体どういう状況だ?」


リヴァイと呼ばれる黒髪の兵士長が、三白眼をハンジに向けては言う。


「ああ、驚くのも無理ないね。
昨日来た新しい調理人のパンがね、本ッ当に美味しくて。
私はこんなに美味しいパン、食べたことないってくらいだよ。
まあ、リヴァイも食べたら解るから。」


そう言っては、調理場で忙しくパンを配るクララに目をやり、嬉しそうに見つめた。


「パン一つでこんなにも変わるものなのか・・・」


エルヴィンは、周囲で心からの笑顔を作ってパンを頬張る兵士たちを見渡しながら、溜め息を漏らしていた。






「今回の調理人のクララ・ベッカーは、ウォール・マリアでかなりの有名なパン屋の主だったそうだ。
その実力は、王都にも捧げていたくらいだそうだからな。」


エルヴィンは続けて言った。


「えっ!?そりゃ美味しいはずだよ。
王都御用達だなんて。
でもなんでそんな人材がここに?
それだけの実力があれば、王都のレストランや、憲兵団の食堂に連れて行かれそうなものなのに。」


「ああ、ハンジの言う通り、一度は王都の有名なレストランに連れて行かれたそうだ。
しかし、彼女は家族も友人も全て失い、何もかもが無気力だそうで、意思疎通の出来ない調理人はいらないと料理長に拒否されたらしい。」


「ああ・・・なるほどね。」


ハンジは、昨日からの何も話さずただ俯いてばかりいるクララの様子を思い出しては、エルヴィンの話の内容に納得していた。


「だが、そんな彼女を調査兵団に連れてきて欲しいと願い出たのは、他でもないジェームズだ。」


エルヴィンが付け加えると、ハンジは目を丸くして驚く。


「ジェームズが人を誘うことなんてあるんだ!」


「きっと彼なりに何か思うところがあるんだと思うが、詳しくは話さないからな。」


エルヴィンは苦笑いする。


「ジェームズはクララのパンのことを知っていたわけ?
それともクララ自身を知っていたのかな?
それとも・・・」


「まあ、とにかく・・・」


ハンジの興味を唆るポイントを突いたのか、一気に質問体制に入ろうとしたところに、リヴァイが口を挟む。


「ちゃんと長く勤めてくれたら、それでいいがな。」


ポツリと呟く。





それを聞いてハンジは勢いを失い、そして少し間をあけては、ハンジもエルヴィンも小さく頷いた。






窓の外が夕焼け色で染まる頃、クララにとっての一日が終わろうとしていた。

日の昇らないうちからパンをこね、朝食・昼食とパンを用意し、夕飯用のパンには、それまでに焼いたパンを使ってもらおうと、沢山のパンの山を用意した。

今日一日でどれほどパンを焼いただろう。

大変ではあるが、何もかも忘れて無心に働けるので、一日が終わるのは早かった。





「お疲れ様でした、料理長。」


「ああ。」


「パンは今日の分は困らないと思います。
また明日も早朝より準備させて頂きます。」


「ああ。」


「それでは明日もよろしくお願いします。」





ジェームズに挨拶を終えた後、ふとクララは思った。

今日一日、自分のことで精一杯だったが、ここの料理長は一体何時間調理場にいるのだろう。

朝は朝食が始まる前にはスープを温めていた。

きっとスープは夜のうちに準備したものだろうから、夜も遅くまで働いていたに違いない。

そもそも、こんなにたくさんの兵士たちの食事を、一人で一日中用意しているのが信じられない。

そう思うと、いくらパンを焼くことだけに集中しようと思ってはいても、一緒に調理場に立つ料理長のことを、クララは気遣わずにはいられなかった。






「・・・あの、料理長。」


クララはジェームズに声をかける。


「なんだ。」


「もし、よろしければ、明日の朝のスープは、私が温めてお配りさせて頂きますが。」


「・・・・・・」


「私は、パン以外は特に得意料理などはありませんが、今朝のようにスープを温めるくらいなら出来ると思います。」


「・・・・・・」





沈黙がしばらく二人を包む。


「ご迷惑だったでしょうか。
申し訳ありません・・・」


ジェームズは無言だったので、ああ余計なことだったかと思い、やっぱり部屋に帰ろうと思った時、意外な返事が返ってきた。


「そしたら・・・
朝のスープは夜のうちに作っておくから、朝食は任せる。」


まさかこんなに簡単に任せてくれるなんて思っていなかったので、クララは一瞬躊躇する。


「なら、早く部屋に戻って休むんだな。
寝坊してパンもスープもないってんじゃ話にならないからな。」


そう言って、クララに早く休むよう促す。

そして決してクララには気付かれないよう、ジェームズはかすかに微笑み、小さく呟く。


「あいつの言った通りの奴だな・・・」


クララはジェームズが何か言ったような気がしたが、後ろを向いて話しかけてはいけないような雰囲気だったので、部屋に帰ることにした。


「ありがとうございます。
では、お言葉に甘えて失礼します。」


そう言って、クララは調理場を後にした。





ぶっきら棒な物言いだったが、ジェームズの言葉には優しさが滲み出ていた。

ハンジが言うように、心配性で優しい人と言うのは、何となくわかるような気がした。

でもまだ今のクララには、ジェームズの心の内までは理解する余裕はなかった。




花季 -hanagoyomi-